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「やる気」と「本気」の巻

「やればできるんだけどね」と言いながら、「やっていない」「やる気が無い」という時点で、「できない」「やる能力が無い」のと同じ、と高校時代に仲良しの友だちに言われたことがある。もっともだな、と思った。そして、自分がまさにソレだな、とも。何事も、できないなー、とは思わないものの、めんどくさいし、やらなくてもいいかな、という方を選ぶんだな、私は、と。

その高校時代から、じゃ、いつ本気出すんだ?今風に言うならば、私の「やる気スイッチ」はいつ入るんだ?と思い続けて、だらだらと時は流れた。さらに良くなかったのは、なんとなく眼の前に来たことだけはそこそこちゃんとやる、ということがうまく連続してきたおかげで、外から見ると、やるべきことを考えてちゃんと取り組んできた風に見える人生だったという点。学業、就職、結婚、起業、出産と子育て、会社や離婚のぐちゃぐちゃ、もう一回結婚、移住などなど。その間の、もっと細かい事いろいろ。

一つひとつの時を思い出せば、それぞれ語ることができる面白いエピソードもあるし、その時は、真剣に困ったり、悲しんで落ち込んだり、鳴いたりわめいたり、大喜びして飛び上がったり、感動したり、大笑いしたりしていたし、後悔することは何もない。しかし、その時の自分に、あなたは本気を出したか?と尋ねたならば、それほどはー、と口ごもりそうな感じが否めない。なんらかの言い訳があって、そこそこ頑張ったし、とか、同時進行でいろいろやっていて、こんな感じだろう、という程度はやった、という感覚。

ひとつのことに没頭するのが苦手で、いくつものことを並行して走らせながら、あっちこっちと気の向くままにやっていくスタイルが出来上がってしまっている、と言えばそれまでなのだが、それならそれで、その組み合わせの中の最大エナジーを出すというところまでやればいいのに、と思うこともあった。いや、友だちが言っていたように、その程度の力しか最初から持ち合わせいないのだろうな、とも。

つい最近、これまた眼の前にすっと現れた出来事。いつもはまともに読まないメールマガジンを開いてみたところに書かれていた「試験」がちょっと引っ掛かった。若い頃だったら、こういう試験、面白半分ででも受けてみたりしたよねえ、と呟くと、受けるでしょ?という家人。申し込み期限はいつまで?と。万が一、受かっても、あれこれ大変だしねえ、という私に、それは受かってから考えればよいことで、受けないとわからないから、と言う。まあ、そうだ。じゃ、受けてみよ、と。数日のうちにかなり面倒な応募書類を揃えてアップロードした。

その時考えた。多くの場合は、受かりたい!や、受かって、こういうことがしたい、というのが先にあって、その方法を調べたり、試験のために準備したり、ということを経て、そこにたどり着くのだろう。私の場合は、時々、そこに現れたモノにアンテナがピクッと反応し、面白そうだな、とか、できるかもしれない、というような感覚が湧き出してくる。それに従って、その後どうなるかは、まずはやってみてから、と言いながら、熱が冷めないうちに一気にやる。その後はしばらく流れに身を任せて~、とやっていると人生の次のフェーズに入っていく、の繰り返しだったのだ。もちろん、そのピクッに反応してやってみたものの、人から見れば、結果的には大失敗や、その行動の本来の目的達成には至らないこともあるわけだが、そもそもやり始めたり、やってみたきっかけや目的が、それをやってみること自体なので、自分にとっては失敗も無駄もなにも無い。それをやった、という経験が残ることに価値を感じているようだ。

あれ?もしかすると、これは、やろうとしていない、即ちそれをする能力が無い、というのではないのかもしれないぞ。逆から考えると、やろうとしていないのにやれていることがあるのではないか?やりながら考える、という人たちもいるが、やってしまってから考える、というカテゴリーもあるのではないか?これであれば、本気を出していないのではなくて、実は、あまりにもどこまでも、天井知らずにエネルギーがあって、出しても出しても、これが最大!というところが見えすらしないのではないか?

なんてことを考えて、自分のやる気も本気も出せたことも、見たこともないが、きっとこれでいいんだ、というところに落ち着くことができた。今回の「試験」のおかげ。十分満足。やった!

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