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ボランティアって


何年越し?で待っていた東京2020ボランティア活動を終えた。長野の冬季オリンピック大会でボランティア活動に参加し、もし次にまた日本でオリンピックが開催されるようなことがあれば、何歳になっていてもボランティアに申し込もう、と思った。あれは、期間中に誕生日を迎え、28歳になった年だった。

なんていう話をし、さらに、キリスト教の学校に通っていたため、ボランティア活動は常に身の回りにあり、多くの人が当たり前のように参加している環境で育ったワリには、元々私自身はボランティア活動には消極的だった。やればいいんだけどな、と思いながらも、積極的にやっている人を横目で見ながら、偉いなあ、私はできないなあ、となってしまうほう。

「ボランティア」という英語がそのままカタカナ日本語になったことが示すように、ちょうど同じニュアンスの、日本語が無い。奉仕活動、社会貢献活動、とほぼ同義の場合もあるが、滅私奉公感がにじみ出てしまったり、技術的にや、経済的になど、貢献できることが何かはっきりと無いと参加しにくかったり、というあたりがちょっと違う、と思っていた。

今回、コロナ禍で開催自体が賛否両論、国内世論が分断されたようなムードの中、なんで参加するの?という疑問を投げかけられたり、自問せねばならない場面が多くあった。そのおかげで、あらためて、ボランティアって何?と考えながら参加してみて、気づいたことがいくつかあったので、忘れてしまわないうちにまとめておきたい。

まず、このことに気づいたから書き留めておきたいと思い、noteを開いた。ボランティアとは、自ら「かってでること」なんじゃないか、と。他の人がやりたいことか、あまりやりたくないと思うことか、自分が得意なことか、初めてやってみることか、などに関わらず、「私やります!」と手を挙げて、進み出てやること。ただそれだけなんじゃないか、と。

前回のボランティアの時は、語学力を活かして、ということがはっきりした役割だったために、今回もそういうことをするのか、とよく尋ねられたが、そうではなかった。役割は何でも良い、でもマレーシアから一時帰国して参加せねばならないので、期間中びっちり、というのは不可能、できれば家から通いやすい会場で、というような条件で申し込んだ。今の自分で出来る範囲で、ということだ。結果的には、コロナ禍で日本にずっといることになり、予定していたよりもずっと沢山参加できることになったのだが、初めてやる仕事を覚えて、仲間と一緒に助け合いながら、楽しみながら。暇が出来れば、他になにか出来ることは無いかな、と考え、日本のお土産を作ろうといそいそと折り紙や、仕事場にあるラミネーターを使って記念になりそうなデザインのチャームを作り、お土産を買いに出ることも禁止されてしまっていた大会関係者に配ったり。

もう一つ、ボランティア活動は、「自分が提供することよりも、得るものの方があきらかに多い」ということを体験を通じて感じ取った。前回もそう感じていたから、次もまた!と思ったのに違いないが、すっかり忘れていた。ボランティアの定義の大切な一部。それでこそボランティアなのだ。決して、私こんなにやってるのに!とか、いやいやしょうがなく、やるものでは無い。

さらに、語弊があるかもしれないが、普段はちょっと社会で困りもの扱いされてしまいそうな、多動気味な人たちの「出番」だということ。ボランティア活動は、仕事のようで仕事とは違う。ひとりひとりが自分の役割をこなすという部分は同じだが、もっと大切なことは、その役割を超えて考えること。もっとなにか出来ないか、もっと良くする方法はないか。自分に出来ることは他にもないか、と。多動気味な人は、そこが得意だ。注意力散漫と言われることもある、その観察力や気づく力、周囲の眼を気にすることなく、手を挙げて進み出る行動力。これが活かされる場がここにあるではないか!と感じた。

そこに、やらされている仕事とは大きな違いがある。

やりたいからやっている
やらせてもらって幸せだ

そんな気持ちを共有し、共感しあえる仲間に出会えたこと。何よりもの収穫だった。

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