見出し画像

【東京回顧録#4】東京駅八重洲口を出たときのきらきらに

大学2年生の時に、初めて接客のバイトをした。
もともと別のバイトをしていたのだが、それは予備校の高校生向けの模試の採点基準を考えたり、採点者として登録している人たちが、採点したものを確認する仕事だった。千駄ヶ谷のオフィスに行って、ひたすらPCに向かい、それで時給は1600円だった。割のいいバイトで、人間関係も楽しく、無理もしなくていいのだが、模試の無い時期は、シフトにも入れないので、その空白の期間にちゃんと稼ぐために初めて飲食で働こうと思った。

客層のよい店がいい、と周囲からのアドバイスもあり、なんとなくのハイソなイメージがあって八重洲にあるホテルの中に入っている日本料理屋で働くことにした。支給された着物を着るのに、はじめは15分以上もかかった。その時間の給料はもちろん出ないのに。襷やなんかのものも自費で購入した。お金とか理屈で物を決められない年頃だったのだと思う。ようやく着物を着るのにも慣れた頃にはしかし、自分は飲食の仕事に向いていないとうすうす感じていた。そもそも、人とのコミュニケーションが得意な方でもなく、会話の始まりには必ず「あっ」という声が出る。自分の興味のないことは、物覚えが悪い。コースの名前すらまともに覚えられない。カンペが手放せなかった。「ちゃんとメモしてね」、「人に聴く前に自分で考えよう」、そういうことを社員の方々に懇々と言われ、今まではそれなりに優等生として学生生活を過ごしてきたつもりで、そのことにいっそう落ち込みながら八重洲のきらきらした街並みをみながら、心は東京の夜の闇に沈んだ状態で、帰宅していた。付け合わせのものや、タレなどを出し忘れ、板前さんに怒られることもしばしばで、辞めることも少し、頭にチラついた。向いていない。向いている人がやった方がよほどいい。

それでも。自分は、大学に通って社会勉強をするために上京したのだから。たかだかバイトくらい。耐えなければ。全てのことに耐えなければ。そんな風に思って、辞めないために早めに家を出て、イヤだイヤだと思いながら、東京駅に向かった。山手線は東京駅付近は人が少なくなる。帰りの電車では、自分がその日にできるようになったことを胸に、心を落ち着けながら、給料計算アプリを見ていた。

手先も不器用で、お客さんの洋服に醤油をぶちまけて大目玉をくらった。クリーニング代の損失は、自分の給料から天引きだろう、と落ち込んだ。接待をしている品の良さそうなサラリーマンの卓でチャッカマンの火がなかなかつかず、おそらくは、不安に思った男性に見えないところで「絶対に粗相するな。」、と一万円札を差し出されて、すごまれた。

そんな職場で、唯一自分の存在価値があるように感じたのは、外国人客が来店する時だった。1回のシフトに大抵2~3組は来た。一応、英文科で英検準1級を持っていることは履歴書に書いた。基本的に英語が必要な場面では、自分が卓につけられることが多く、いつも不安で自身なさげに着物の袖を振っているだけの自分が、そこでは輝くことができた。磨いてきた語学力だけは裏切らないと思って、自分の努力を誇りに思うことができた。

ある時、早番のシフトに入ると、見慣れない板前さんがいた。人手の別の店舗から来ているそうだった。
八重洲の店では、バイトも社員も、お互いのプライベートな話はあまりしない雰囲気だったが、その板前さんは、私に話しかけてきた。
「大学生?どこの大学通ってんの?」
「あ、K大学です。」
「そっか、じゃあここの社長と、その社長の息子とも一緒じゃん。でもあれでしょ?ちゃんと勉強して入ったんでしょ?内部進学じゃなくて。」
そう言われて、いらない情報だなとも思ったけれど、20歳にもなっていない自分は、単純な構造で人の分類を考えてしまう頭を持っていたのだろう。彼らに会ったことも無ければ、顔も名前も知らず、その組織でバイトしている1人であるにすぎないのにも関わらず、なぜか誇らしさがあった。自分には、東京の土地も建物も、何もないのに。

それはそうと、バイト自体は嫌なままだった。
八重洲の地下街には、ユニークで可愛いアクセサリー屋さんがあった。バイトを嫌いにならないために、たまにそのアクセサリー屋を見ていた。基本的に時給が飛ぶことを考えて何も買わなかったが、太いプラスチックでコーティングされて、中にきらきらした模造ダイヤやパールの入った指輪を見つけた時は、心がぐらついた。何度も何度も店を見たが、その指輪は売れることなく残り続けていた。そんな日々が続きながら、東京駅の伊勢丹のある、ガラスのドアから八重洲側に出ると、息は白くなっている時期になっていた。

レストランの裏口から更衣室に入る。その通路は、ホテルの表のきらきらした暖色のライトがシックな黒い大理石の床に映るきらびやかさとは真逆で、壁も床も白くて無機質で、キズや汚れがあった。山吹色の着物を着る。襦袢や足袋は、自分で持ち帰って洗濯することになっていたが、夏場でもないし少し怠っていると、少し黒ずんでいる。なんでこんなこともできないのだろうと溜息が出る。重い気持ちで、ホールに入ると、先に来ていたバイトの年上の女性に耳打ちされた。「今日は貸し切り営業だから暇だよ。」

様子をうかがうと、ホテルの社長の息子が誕生日パーティをしているようだった。快活なコミュニケーションをできる男女の集団で、特に黒いノースリーブを着た華奢な女性と、その女性が身につけているきらきらしたジュエリーが特にわたしの目についた。

暇だからラッキーと思ったのは、束の間で、その日はバイトを始めてから最高に自信のない日になった。原因は、一つだけ。劣等感だ。努力で磨いた語学力で自信を持つのは、もちろん1人で大学だけを足掛かりに上京した私には、素敵なことだったけれど、同じ大学にいたって、東京に「自分のゆるがない何か」を持っている人たちとは、外見も、自己表現も、コミュニケーションも大違いだった。土俵が違う。そのことで頭がいっぱいになり、冷たいワインセラーから、白ワインのボトルをバイトして1年で初めて取り出し、その卓へ運んだが、手は震えていた。ワインボトルを開けて注ぐ私に彼らは目も向けない。

ホテルのビルディングを出た私のため息は、行きと同じで白かった。結局そのバイト先には2年くらいいた。院試の勉強などが忙しくなってやめた。八重洲地下街のアクセサリー屋の指輪は、3600円ほどだったが、購入し、3時間分の時給が消えたが、今でも大切に持っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?