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【小説】上京、春夏秋冬。

春。
上京して初めて借りたその部屋が、嫌いだった。
大学と、最寄の東急線の駅は目と鼻の先にあって、そのすぐそば。
小さな女子寮の一部屋を借りた。
18年間、朝は誰かに起こしてもらう生活をしていた私が、遅刻を繰り返すなんてことを想定した母の考えだった。

私は、「東京の大学生」という、熱に浮かされた生き物の実態が分かっていなかった。見たこともないような人混み、新歓の色鮮やかなビラ、金髪、いかにも新品、のオシャレな洋服を着た女の子たち、細い脚。
そんなものが、私の頭をぐるぐると回り続け、ひどく疲れてしまった。気付くと家でも、学校でもふと気を抜くと涙が溢れた。

その春は、ひどい寒さだった。
春が来た、と思えたのは入学式の前日までだった。
東京でオシャレに着こなそうという高揚感に任せて買った服は、どれも冷たい風が通り、肌を刺すような寒さが惨めだった。
標準語は、まだ私の耳に馴染まなかった。心の底でみんな、何を考えているのか全然わからない。何故だか嘘をつかれているように感じてしまう。

授業が終わるやいなや、家に帰り、「もう嫌や。」とつぶやく。
大学のすぐ近くに家を借りたことを後悔した。
周囲の飲み屋から、聞こえてくる楽しそうな声、聞いたこともないコール。
私の耳を掠めるたび、もっと惨めな気持ちになっていた。

夏。
角部屋は、日差しが入って気持ちいい分、昼間はとても暑かった。
冷房代は、馬鹿にならない。
手帳の7月のページは、試験やレポートの締め切りの予定で真っ黒だった。
サークルの夏合宿や、バーベキュー、アートアクアリウム―そんな遊びの予定がたくさんつまった8月のページを見てため息をついていた。

女子寮の5、6人で、節約のために夜は持ち回りで誰かの部屋に集まって勉強した。別に、同じ作業をするわけではない。
ローテーブルに教科書とお菓子を広げ、膝の上にノートパソコンを置いて、無言で単位をとるために文章と答案をこしらえた。

学部も出身も異なる。
でも、同じように、少しのお金をやりくりし、家事も自分でなんとか済ませる、無難に単位をとって、空いた時間をバイトとサークルで埋める。そして、東京で起こり得るだろう、言語化できない「何か」への期待に胸を弾ませる。そんな、生活の一体感が私たちにはあった。

パソコンのキーを叩く音が鳴る。
その時、ひとりが口を開けた。「うちな、彼氏できてん。」
瞬間、静けさは一転する。「うそ!だれ?」「いつ?」「サークルの先輩。」「どうやって?」「いつも、活動終わりに送ってくれて、そこから。たまに、私がお菓子とか作っていってあげたりしたからかなー。」
空気は、すこし、熱っぽくなる。

突然、部屋の主がふと宙を見て言った。
「あ、メロンあるよ。実家から届いたんだけど、食べきれないからさ。」
北にある彼女の実家から届いたメロンのみずみずしさと、私たちの熱に浮かされた、ただの18歳の無邪気な会話は、単位、という言葉をどこか彼方に忘れさせてしまった。
でも、きっと今思い返したってその高揚感は、単位なんかよりもずっと尊い。

秋。
春は、桜並木に見とれていたけど、私のキャンパスにはイチョウの木の方が多い。
黄色い花道のようになった、坂道に、きっともうすぐ銀杏の転がる季節だ。

少し前。
サークル活動の一環で他の大学との飲み会。
歌舞伎町の、ゴジラをのっけたビルの前で待ち合わせる。むわっと煙草の匂いのする飲み屋で前に座ったのが彼だった。彼の赤いジャンパーは、東京に来て半年経つ私には、もう、少しだけ「ダサ」かった。

会話も弾み、酔っぱらった先輩たちの眼がとろり、とし始めた頃。
彼が私に聞く。「そういえば、今いくつ?」「18。」「俺の弟と同い年だわ。俺さ、実は大学入り直しててさ。結構歳いってんだよー。」
笑うときゅっと細くなる目に、安心感、に近いような魅力を感じた。
素敵。素直に思って、新宿駅まで連れ立って歩く帰り道。
ぎらぎらした巨大な広告も、客引きも、街の音も。初めて見た時に圧倒されてしまったそれらももう、背景でしかなかった。
どうやって、自然に人と話してたっけ。
そんな風に思う私の胸には、緊張が生まれていて、彼の大学の近くにある安い唐揚げ屋さんの話なんかに、気の利いたことが言えないだろうか、とさえ思っていた。

新宿で別れて、目黒まで。土日の夜の目黒線は人もまばらで、田園調布、多摩川、とドアが開くたび、もうひんやりとした風が入る。
部屋に戻っても余韻は抜けず、ローテーブルにiPhoneを放って、座り込む。突然、何故か全てひらがな表記の彼の名前から、LINEが入る。
「今度、のまない?」
外の飲み屋から聞こえる若い乾杯の声は、今の私には、期待感を増すような背景音に変わっていた。

冬。
赤いジャンパーの彼と同じ大学に所属する女の子と意気投合して、彼女の大学の近くのカフェに行くことになった。
待ち合わせた駅前のロータリーは、私の大学のそれとはまったく違った。
男女関係なく肩を組む集団、歌う集団。そこに階層性があるような緊張感。
カオス、という言葉が合っていた。
適度に距離をとりつつ、全員が「何か」を期待しているような、私の見慣れた「大学生」と少し違っていた。

「あいつさ、先輩と付き合ってんだよね。夏頃から。」
あまりの驚きに、グラタンのチーズを絡めて口に運ぼうとしていたフォークを落としそうになった。
「どういうこと?」と聞きたい言葉は、口を出ず、再び彼女が声を発するのを待つことしか、できなかった。
その言葉は、赤いジャンパーの彼のことじゃなく、別の誰かのことなんじゃない?そう信じたいほど、他人が聞くとよくありがちな大学生の恋の話であるようなのに、私には衝撃の赤裸々な話だった。
19歳になった私には、もう取り乱すよりも、驚きを隠すほうが楽だった。

夜。
上京する前に祖母が買ってくれたピンクのふかふかのシーツには、涙のしずくが落ちていた。
確かに、そんなこと、言ってなかったのになあって。誕生日にイヤリングをくれた。そのイヤリングは、きらりとシンプルで、赤いジャンパーのダサさとは不調和だった。でも、その不調和が私には微笑ましかった。
夜が更けると共に、なんだか具合が悪くなって、朝方は自分でも驚くほどの熱が出ていた。彼のことは確かにショックだったけど、熱が出るほど?

熱だけでなく、むかつきも感じたので、ふらふらと病院へ行くと、胃腸炎だった。何のことは無い、昼食に自分で焼いて食べた鶏肉が生焼けだったのだ。

ひとり暮らしに、胃腸炎はきつい。
でももう、孤独の惨めさはなかった。
フランス語の授業を初めて欠席した私を心配して、学校終わりに、クラスメイトがポカリやら熱さまシートやらをどっさり、そして、彼女達がそれぞれ自分のセンスの良さを誇示しているような、でも見ただけで心の踊る、誕生日プレゼントを持ってきてくれた。
正直、私の家が大学から近いことを理由に、終電を無くすと「今日さ、とめてくんないー?」とLINEを送ってくる彼女たちに腹が立つこともあったけど、「ゆっくり休みなね!」と、からっと言う彼女たちの標準語はもう、本心だってわかった。

「ほんと、ごめんね。ていうか、びっくりしちゃうことあったから、休み明けにまた話すね!」
彼女達を見送って、扉を閉めた私の心から、悲しさは消えていた。
ローテーブルに重ねたプレゼント。

彼からのイヤリングも、今すぐ捨てることなんてないだろう。
大事なのは、私に似合うかどうかだ。
私に、東京に住む私に。

カーテンを少し開けて、日差しと露のきらきらを、感じた。

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