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知性のない人は

知性のない人は、宙ぶらりんの状態に耐えることができません。居心地が悪いのです。早く結論を出してスッキリしたい。

ドキッとしました。




どうも、会社員やってますゆっくです。

アウトプットがまだ得意ではないので、
引き続きゆっくりと自分のペースでインプットとアウトプットを
増やしていきたくて今日もnote書きます。

インプットの一つとして色々な方のnoteを読むのですが
たまたまこちらのコラムをきっかけに書かれているnoteを見つけ
コラムを読みに行くと、ドキッとしたので私もちょこっとだけ記録用に。


「知性」と「知能」の違いとは、何でしょうか?

と、始まるこちらのコラムでは

知能とは「答えのある問い」に早く正確に答えを出す能力。
知性とは「答えのない問い」を問い続ける力、答えなど無いとわかっていても深く向き合い問い続けることができるかどうか

と続きます。


この2つの言葉の意味の違いを自分なりに調べてみると
ほとんど同じような意味で使われると記されていたり
上記のような違いを持つと書かれていることもありました。


改めてじっくりと考え直さなくとも
人生における問題でハッキリ答えがあることの方が少ないことは
ほとんどの人が認識しているのでは無いかなと思っています。


ただ、認識しているつもりでも
なぜか白黒ハッキリさせたがってしまうことってありませんか?


私自身、
答えが明確ではない問いと向き合うことが決して得意ではなく
必死に答えを求めに行ってしまうことがあります。
きっと過去の経験から繋がっているんだろうなとも感じています。


知性のない人は、宙ぶらりんの状態に耐えることができません。
居心地が悪いのです。早く結論を出してスッキリしたい。


この部分を読んだ時、ドキッとしました。
ドキッとしたと言うことは、恥ずかしながらも認めざるを得ないと言うことでもありました。

知性がない、とはまた厳しい言葉ですが
知性が浅いとも言い換えることができるでしょう。


例えば仕事で、
このやり方を導入してしまえばスッキリするじゃないか、解決するじゃないか!とワーワー訴えても
複雑な事情が絡み合っていて
簡単に決めたり変えたり出来ないことばかりで
モヤモヤすることはありませんか。


確かに組織として改善しなければならない部分はありますが
ハッキリできない、仮にハッキリできたとしても
そうなるまで時間がかかることを受け入れ
その中でいかに現状と理想の間にあるバランスが取れている部分を探すことができるのか

とても大事なことだなと改めて考えさせられました。


私を含め多くの人がすでに
無意識に日々そのバランスを見つけようとしていると思います。


とても身近な例で言うと
優しさの厳しさのバランスとか
過保護と放任のバランスとか
何を考えてるんだろうと不安になるあの人に声をかけるべきかどうかとか

ただ、この考え方を知った上で
さまざまなシチュエーションに向き合ったら
また違った心持ちで、ちょっと違うマインドで
物事が見えてくるかもしれないな、なんて想像しています。


例えば、勇気は、臆病と無謀の中間のどこかに位置するわけですが、どこだか考えてみてください。寛容は、放任と統制の中間のどこかに位置するわけですが、最適なバランスはどこなのか?

自分一人のことであっても、白黒ハッキリしないことばかりなのに
たくさんの人と関わればなおさら宙ぶらりんになる確率は上がりますよね。


まだまだ未熟な私は
一つでも不安要素を感じ取ると
これまでとても良くしてくれていたパートナーの
良いところが突然霧がかったように見えづらくなる
ということもたまに起きたりします。


これもまた、白黒ハッキリさせたがる病が
(良いか悪いかどっち、好きか嫌いかどっちなどの極論)
出てしまってるのかなと感じました。


もし似たような経験があるなら
あなた自身に問題がある、と言うわけではなく
少し分解して見てみたら、その裏にこのような原因?カラクリ?があることを知ってほしいなと思います。

人間はスッキリしたいので極論に偏る。
極論はウケやすい。(メディアでもそう)
極論に”逃げる”方が簡単、ラク。

でも、特に人間が関わることのほとんどに
「極論に正解がある」ことはなくて

極論と極論の間のどこに正解があるのか、
バランスがあるのか、
知性のある人は忍耐強く
考え続けるそうです。


知性を鍛えることが自分の心のためにも
良い気がしています。



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