ニート→社会人

最近までニートだった
半年くらいの間だったがこんなに長い間ニートだった事は初めてだ
最初は有り余るほどの時間の使い方に困惑して、
一日中ダラダラする日があったり、
恋愛をしたり人間関係でグズグズしたり、
というかこれらが大半だったな
そのほかは勉強に時間を費やしてみるも、一日中勉強するという事まではやる気になれず、勉強が終わったら、散歩してみたり、運動してみたり
でもやっぱり時間が余るのでダラダラ過ごしていた
ここ3日ぐらいは学校?が始まるからやりたい事なるべくやって過ごそうと全力で行動してみた
と言っても用事に付随して、「そう言えばここの寿司屋気になってたけど行くとしたら今日ぐらいかな」というので寿司のコースを食べたり、
たまたま家じゃ集中出来ないからマクドで勉強しようとなって、その帰りに吸い込まれるように図書館に立ち寄って世の中には面白い本が沢山あると知った
今泉力哉監督の映画も観たりしたし、その監督が好きな映画やそういう人達が語ってる映画についての知見を得たりもした
音楽理論や音楽の歴史についてYouTubeで教えてくれているピアノ講師らしき方のチャンネルを見つけたり、それで興味をそそられて楽典、和声法やら対位法やら、無調音楽の話とかざっくばらんに赴くままに勉強してみた
纏まりが無い勉強の仕方で、ただ楽しいだけの何も実らない勉強法であるような気がするが、勉強って本来こうあるべきだよなとか思った
社会で生きていく中ではこんな自由な勉強の仕方って中々難しかったりすると思う
何か実らなければ生きていけなかったり、実らなければいけない場合は時々ある
でも実らなければいけないと思いながら勉強すると楽しくないし、そんな勉強をするぐらいなら馬鹿のままで良いとさえ思う
そう思っていても社会で生きていくには学びたく無いことを学ばなきゃいけない機会なんて山程あるだろう
そんな中で楽しく生きていくには、自由に学習する分野、探究心をそそられて目標も無くただ赴くままに勉強する時間を持つ事が大切だなと思う

ニートは時間があり過ぎて勉強しない
社会人は時間が少なくて、仕事のストレスでくだらない事に時間を消費する

社会人になるって本来こういう人間が持つべき自由と言うものを捨てる行為であるとも考えられると思うが、現代では社会で生きなくてはならないケースが大半だろう
でも人間は社会で生きてる生物では無い

これも最近学んだ事だが、甲本ヒロトさんや養老孟司さん曰く、
「人は社会で生きてる、でもそれ以前に世界で生きてるんだ」と、、、
これは甲本ヒロトさんがラジオかなんかで言ってた言葉で、養老孟司さんはこんなこと言ってないけどマインドは似たような事だと受け取った 
この言葉は何の捻りもなくただ当たり前のことを言ってるだけだ
でもこの言葉が胸に突き刺さるって言う事が指す意味とは、現代人は社会で生き過ぎている
社会に囚われ過ぎて、生物としての感覚を見失っていると言う事だろう

たまに動物っぽくて可愛い人がいる
そういう奴は基本的に社会からすると不適合な一面がたくさんある
慕われていたり、嫌われていたりそれぞれだが、そういう人を嫌いになるのはあなたが社会に囚われて狂ってしまっているからだと考えている
野生的で社会にガチガチに束縛される人生はウンザリだと思う
とは言え社会が生み出した沢山の結晶達に感動させられたり、自然界で生きてたら触れられる筈の無い美しさを見たり、食べたり飲んだりしてきた
社会って人間の欲望が生み出した汚いものだと思う
汚い物の上に出来上がった芸術や美味しい物、
その他いろいろだと思うから、美しさの下に沢山の犠牲があるのではと考えると社会がここまで発達する事は望ましい事じゃ無かったんだろうとも思う(もちろん最近ではSDGsという取り組みにより汚い部分が無くなろうとはしているのかも知れないが、僕が生きている間は少なくとも汚いままだと思う)
それと同時に社会で生きてきた僕は、そういった汚い物の上に出来上がった芸術品、主に音楽や映画かな、服もそうだ、あとは寿司やラーメン、その他色んな美味しい食べ物、お菓子、コーヒーも
そんな汚い物の上に出来た人間社会生まれの欲望の塊達に依存してしまっている
まあ無くても生きていけるとも思ってるけど、わからない
ほんとに僕が善人ならこんな趣向品の数々を手に取らないだろう
それでもこうやって毎日お菓子食べたいとかジュース飲みたいとか音楽聴きたいとか映画見たいとか、何かしらの趣向品に手を出して贅沢に生活しようとしている
それなのにまだ足りないとか言い出して不幸になったりしてる
人間は哀れなるものたちだ
他の動物は割と慎ましく、他の動物達に迷惑かけないで生きてるのに、人間は地球は自分のもの、何なら宇宙を自分のものとさえ思うほど傲慢で気持ち悪い奴らだ
そこに自分も含まれてる
いくら頑張っても哀れで愚かなんだろう
イチローも大谷翔平も、藤井風もOfficial髭男dismも
野球なんて自然界で全く必要無いしグローブとかバットが環境に悪いものだからそういう意味では何かを犠牲にしたスポーツだ
音楽も楽器が環境に悪いし色んな犠牲はあるだろう
でもここに挙げた人たちは社会人の中でかなりトップクラスの素晴らしい人達だと思う
でもいくら素晴らしくなったって、何かを犠牲に生きている
それはこの社会に生まれてきて知らないうちから始まっている事だ
聖人君主なんていない、潔白の人間なんていない
藤井風でさえ白じゃ無く生成りぐらいには汚れてるだろう
だとしたら僕は吸い込まれる程の漆黒かな、グレーとかでありたいしそう思いたいけど、藤井風が生成りだと言うなら僕は漆黒だ
でもそんな社会で生きていかなきゃ行けないわけだ
哀れなる愚かな人間である事は一生かけても変わらないだろう
それでもこの社会を生きていく
これから社会人になります
あらゆる面で、社会に囚われず、野生的な感覚を忘れないで
そして、誰かの犠牲の上に自分が居て、自分が少なからず哀れで愚かだと自覚する事も忘れないで

とは言いつつそんなに真剣に生きるのって無理があるかもと思う

どう頑張ったって今の世の中じゃ完全な潔白の人間にはなれないんだ

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