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【無料】長渕剛は空前絶後の詩人である

音楽家としての長渕剛については、もはや説明不要だろう。
とてつもない才能とカリスマ性と普遍性。
長きに渡って熱狂的ファンに支えられ続け、その名を音楽史に刻み込む日本トップクラスのミュージシャンであることに異論はない。

その圧倒的な存在感と個性の強さゆえ、長渕剛はいろんな語られ方をされるが、私は詩人としての長渕剛が空前絶後のレベルであることに焦点を当てたい。
これまで生み出してきた数々の曲の音楽的クオリティがズバ抜けているのは言うまでもないが、その音楽に深みをプラスし、作品性を底上げしている要因は間違いなく歌詞にある。

これは決して「歌詞が良い」などという、よく使われがちな平凡な言い方で片付けられる話ではない。
歌詞のレベルを超越した、詩人としての長渕剛なのだ。
長渕剛が表現する言葉の世界は、時にあまりの美しさと表現技法の巧みさに心がしびれる。
興味がなくても知っておいて絶対損はしない。

今まで出した曲は膨大な数なので私なりに厳選して、いくつか紹介していこうと思う。

まず、1990年にリリースされたJEEPというアルバム。この中に収録された曲には神がかった詩が乱立している。
もう30年近く前に出したアルバムだ。
30年だ。30年である。今もなお一線級で走っている現実が恐ろしすぎる。

そのアルバムの中にMyselfという曲がある。
長渕剛ファンなら知らない人はいないであろう屈指の名曲だ。

その中にある詩の1フレーズ

俺みたいな男は…と背中を丸めたら
やけに青い空が邪魔くさく思えた

青い空の後ろに邪魔くさいをつける感性。
憂鬱な心情を表現する日本語というのは数あれど、この組み合わせの発想はなかなか出てこない。
この一文だけでネガティブが渦巻く心模様を映し出している。実に何気ないフレーズだが、圧巻の一撃である。

そして、アルバムのタイトルにもなっているJEEPという曲。
愛車のジープに乗って海を見にいく曲だ。
ドライブの中に人生の機微を垣間見せるドラマ。その表現方法が秀逸すぎる。

海はやっぱり光ってた 
砂浜を野良犬が走ってた
ずっと遠くで船がゆっくりと動いてた
ウェットスーツの若者が
くちはてた流木とたわむれ
俺はむしょうにコーヒーが飲みたくなった
俺はJEEPを停めた シーズンオフのドライブイン
コーヒーを飲みながら
やめてたタバコに火をつけた
窓ガラスごしに打ち寄せる波を見てると
もう一度自分を信じてみたくなった

直接的描写は多いが、目に見えてる風景を並べることで生まれてくる臨場感。
そして、ここでも心の葛藤が描かれ、何より特筆すべきはタバコの使い方だ。
一昔前、タバコは人間ドラマを彩るアイテムとしてよく使われたが、この絶妙な差し込みかたは見事としか言いようがない。
よく見れば禁煙失敗ソングだが、やめていたタバコを思わず吸う心境というのは、喫煙経験者なら、なんとなく分かるだろう。
そして、打ち寄せる波を見ながら気持ちが切り替わっていく。
この一連に心が救われていくまでの道のりが実に繊細に描かれている。
直接的描写と間接的描写のバランスが素晴らしく、リアルな海辺の光景と心が晴れていく様が綺麗にリンクしていくのだ。

そして、タバコの絶妙な使い方として、もう一曲紹介しておきたいのは1989年にリリースされたアルバム昭和に収録されている裸足のまんまで。

俺は最後のタバコを今 明日に叩きつけた

やるせない思いや、鬱屈した気持ち。
これはタバコを使った神懸かり的表現と言っても決して大袈裟ではないだろう。
実にさりげないけど別次元。
これが詩人長渕剛の特徴だ。

2001年に発表されたアルバム、空。
そこに収録されたタイトル曲でもある空/SORAという曲がある。
有名かもしれないが、これは避けて通れないので記しておく。

空に吠えろ
風にうろたえるな
火よりも熱く
水にのみこまれず
土をしっかり踏みしめて

この歌詞がガッツリとサビの部分に来る。
自然の原理を詩の世界へ投影させた時に、長渕剛はとんでもない作品を生み出してしまう。
空、風、火、水、土
その全てを人生の厳しさに立ち向かう比喩表現として完璧に入れ込んだ。
この歌を聴いた瞬間に、私は長渕剛はシンガーであり詩人でもあるという事実を確信した。
このレベルまで来れば、歌い手という域を超え、言葉を紡ぎ出す詩集の世界となっている。

そして、2003年に発表された、しあわせになろうよ。
これも有名な曲だが、ここでも何気ない自然を実にハイレベルに詩の世界へ入れ込む。

緑の大地で鳥が鳴いた
君は両手を広げ空を飛んだ
星空をみあげ夢をかなえた
月の光で歌をうたった

空/SORAとの違いは、この歌はラブソングであるがゆえ、表現の仕方も変わるが、とにかく言葉使いの巧みさに脱帽する。
緑、大地、鳥、空、星、夢、月、光、歌

どれも普遍的な言葉であり、使い尽くされたワードが並ぶ印象だが、美しくまとめながら最適な落とし込みで言葉を蘇らせている。

月の光で歌をうたう。
うーん、これはもうレベルが違いすぎる。
難しい言葉を使わずして段違いすぎる歌の世界観を構築している。

1993年に発表のCaptain of the Shipというアルバムに収録されている12色のクレパスという曲。
いわゆる自身の母親のことを歌った曲だ。
母親の歌というのは、これまで数々の歌手が作品として世に出してきたが、この歌の世界はそれらの母親ソングと一線を画す。
12色のクレパスの中に1度も母という言葉は出てこない。
だから、本当に母親のことを歌ったものなのかは分からないが、聴いてみれば母親のことを歌っていると分かるようになっている。

言葉より先にあなたのやさしさが
私のずるさに響くから

もう、この一文で母親のことを歌っているのは確定と考えられる。
正確に言えば、母であり大切な女性のことを歌っているのかもしれない。

あなたの優しさが私のずるさに響く。
温もりあふれる母性に対しての自分の小ささ、愚かさ。男なら誰もが心の何処かで感じるものがあるだろう。

針の穴を通すような絶妙な表現で琴線に触れてくる。決して直接的ではないので心の深い場所へ刺さるのだ。

ちなみに、長渕剛にはMOTHERという母のことを歌った曲もある。
病院で衰弱していく母のことを、より直接的な表現と言葉で歌う。
死に向かおうとする母を歌うのだ。
人生最大の悲しみを詩に落とし込んでいると言っていいだろう。

それは弱いという事じゃない
それは恐いという事じゃない
それは男らしくないという事じゃない
とどまることを知らない不安が
別の女性を欲しがってる
抱いても抱いても最後には孤独になる

初めて経験する不安な気持ちを、心に渦巻く独り言のように歌う。
自分を鼓舞しながらも、男は弱くて脆い。
別の女性を欲しがる=母の代わりを探してしまうほどに心が悲鳴をあげる。
そして、最後には1人になるという抗えない現実。

おそらく、長渕剛は人間が持つ普遍的な孤独さというものを常に抱えているがゆえ、このような詩を書けるのではないかと私は分析する。

アルバム昭和の中にいつかの少年という曲がある。
故郷にいた頃を思い出し、故郷を捨て去る決意をした、あの頃の自分を歌う。
ここに長渕剛の原体験があり原風景が描かれている。

俺にとってKAGOSHIMAはいつも泣いてた
ひ弱で不親切で邪険な街だった

故郷が泣いている原風景から歌は始まる。

今日と昨日とが激しく違うことを知った今
俺はKAGOSHIMAを突んざく波に捨てた

その原風景を捨て去るところまでの歌だ。

これは推測だが、なぜ鹿児島がKAGOSHIMAなのか?

故郷に対して距離を置きたい思いに駆られるがゆえに鹿児島と言えず、KAGOSHIMAなのではないだろうか。

故郷への憎しみ、恥じらい、愛おしさ、感謝
いろんな気持ちが複雑に入り混じったがゆえ素直になれないKAGOSHIMAなのだと推測する。

俺の人生はどこから始まり
いったいどこで終わってしまうんだろう
突き動かされる あの時のまま
そう"いつかの少年"みたいに

これが人間長渕剛の原体験なのだろう。
ゆえに、孤独さの原点もここにある。

何者でもなかった田舎者の少年がギター1本で突き動かされるまま東京で勝負した結果、誰もが認める大成功をおさめた。
だが、心の奥底にある気持ちは"いつかの少年"なのだろう。

1986年リリースのアルバムSTAY DREAMに収録されているわがまま・友情DREAM&MONEYでは人と交わる中で生まれる露骨な苦悩を描き出す。

言葉はむずかしい 言葉はむずかしい
なまじっか言葉があるものだから大変です
正直さを伝えようとすればするほど
わかってもらえずカラカラ回り出します
また自分を買いかぶり また罪をひとつ作り
口は嘘をつくためにあるんだと思い込む

1987年発表のアルバムLICENCE収録の、花菱にて。

窓をあければ小さな河川が流れてた
夜風はしらじらと頬に冷たく
そして生きてく勇気が欲しくて
それでも死ねない自分がなお悲しいんだ

不器用ながら、必死にもがき続ける男の苦悩だ。

人生を生き抜くことの厳しさが、これでもかと突き刺さる。
歌に血が流れている。血の通った歌という表現ではなく、本当に血が流れている。
そのえぐりかたは時に凶器となり、時に狂気にもなる。

本当にギリギリのラインを歌にしているのだ。

その表現技法こそが超一流であり、それが詩人長渕剛が異次元レベルに君臨する所以である。

そして、田舎で培った原体験から、長渕剛は東京を歌にすることが多い。

その中での最高傑作は間違いなく、1991年リリースのアルバムJAPANに収録されている東京青春朝焼物語だろう。

田舎から上京する男女の物語である。
不安と希望が入り乱れる中で、東京で暮らしていく覚悟を決める歌だ。

実はこの歌の歌詞に、とてつもなく高度な表現技法が入っている。
この歌のファンは多いが、なぜかその部分に言及されているところを見たことがないので、この歌の歌詞にはぜひとも言及させてほしい。

今日から俺 東京の人になる
のこのこと来ちまったけど
今日からお前 東京の人になる
せっせせっせと東京の人になる

これがサビの部分である。
田舎を離れ、東京の人になっていく2人を歌っているのだが、この中に別格の詩人ぶりを見せつける言葉の巧みさがあるのだ。

せっせせっせと東京の人になる

この部分。
一行で心を震わせる最上級レベルの詩である。

なにが?どこが?と思う人もいるだろう。

しかし、この「せっせせっせと」に「東京の人になる」をつなげるのは、どう考えても離れ業なのだ。

「せっせせっせと働く」「せっせせっせと掃除する」
あまり日常的には使わないが、せっせせっせの意味は、一生懸命にわきめもふらずというニュアンスだろうか。

一生懸命、わきめもふらず東京の人になる。

その表現だと違和感があるが
せっせせっせと東京の人になる
だと違和感なく、スッと入ってくる。

田舎から出てきた彼女が必死に東京での生活に慣れ親しもうとしている様。
慣れない東京での生活に不安を抱きながらも、必死に東京の人になろうとしている。

そこに何とも表現し難い奥ゆかしさを感じる歌詞なのだ。

分かる人には分かってもらえるような気もするのだが、いかんせん伝えかたが難しい。

技術的には冒頭で記述したMyselfの「青い空が邪魔くさく思えた」に近い手法であり、組み合わせの妙で詞に深みを持たせている。

さらに、詩人長渕剛最大の真骨頂は世の中の不条理や、裏切りや欲望にまみれた世界に対する"かましソング"である。

攻撃的な中に哲学的な要素と繊細な描写が入り混じり、これぞ長渕剛の十八番と言える。

かましソングと私は勝手に呼んでいるが、その名の通り2009年リリースのアルバムFRIENDSに収録された曲の中に、かましたれ!という曲がある。

俺達はあれからずいぶん
誰かのしわざに騙された
俺達はあれからずいぶん
見えない拳で叩かれた
それでも叫ぶ事をやめず
俺達は仲間を探した
吹きっさらしの春夏秋冬

そして、同じくアルバムFRIENDSの中に蝉という曲がある。

心揺さぶり ときめかし
肝に命じて はいあがりゃ
裏切り血の雨 ふっかけやがる
カタギのくせして極道の真似事

語感の良さもふくめ、本当にお見事としか言いようがない。
いわゆる"ギョーカイ"のニオイがする。
これらが本当に"ギョーカイ"を表したものかは分からないが、ギョーカイの端くれで生きる者として、どうしても私には刺さってしまう。

そして、生きることの難しさ、忸怩たる思いや憤り、悔しさ、悲哀
そんな中で見せていく生き様論を、長渕剛は音に乗せて我々に届ける。

勇気の花(空)

うざったい世間の裏と表のど真ん中
花びらの色は白か黒かのどっちかだ

親知らず(JAPAN)

銭はヨオ!銭はヨオ!そりゃ欲しいけどヨオ!
何ボ積んでも 何ボ積んでも 譲れねえものがある

泣いてチンピラ(LICENSE)

刺せば監獄 刺されば地獄の腐った街で
どうせかなわぬ はかない夢なら
散って狂って 捨身で生きてやれよと

人間になりてえ(Captain of the Ship)

人生の痛みなどガリガリ食い散らかしてやれ
俺のような ろくでもねえ虫けらは
人にもまれて上等さ

泣くな、泣くな、そんなことで(Captain of the Ship)

わかっちゃいるけど、やめられねえ事もあった
だけど生爪はぎ取るほどの痛みでもねえ

くそったれの人生(昭和)

群れから離れっぱなし
ずっと離れっぱなし
遠回りのくそったれの人生
千鳥足でいつもの路地を

流れもの(JEEP)

苦しいことなど他人に語るな
ドブに捨てちまったら一生だんまり決めろ
義理も人情もケジメもねえこの街で
今夜もズケズケと生き恥をさらす

ワードの攻撃性や激しさに対して、心の奥に潜む弱い自分が隣り合わせにいる。

長渕剛は時に自分を慰めながら、励ましながら、自らを鼓舞して殴りに行く。

この長渕剛らしさ満開の攻撃的かつ繊細な詩の世界。
私の中での最高傑作はアルバムふざけんじゃねえに収録されている英二だろう。

天気予報はあてにならねえ
傘もねえ 希望もねえ
真っすぐだった、あの道も、
あの時も、あの日々も
泥にまみれ ふたをしやがる
ひん曲がる優しさたちよ
昔なじみのゴロツキも
今じゃ偉くなったもんよ
しのぎを削りたおれ
もう一度 這い上がってやれ!
ふぬけなこの街"花の東京"
空っぽの街 笑い散らかせ

実に泥臭い詩だが、それでいて実に華麗な構成を組み立てている。
怒り渦巻く内面の心情を突然の雨に傘がないところで浮かび上がらせる。
さりげないが、この技法はかなり高度だ。
さらに、変わっていく周囲に対する不平不満。
そして、花の東京がナンボのもんじゃという反逆へとつながっていき

空っぽの街 笑い散らかせ

「笑い散らかせ」である。
日本語の奥行きと可能性を感じる表現だ。
説明するのがヤボなほどに、これは感性で理解してもらうしかない領域だ。
ここに当てはめる言葉として、絶対に思いつかない言葉だが、逆にこれしか当てはめられない言葉である。
冒頭で「良い歌詞」なんて平凡な言葉では語れないと言った理由が分かってもらえただろうか。

三羽ガラス(家族)

はめた憎しみドブへ流し
受けた恩は食い散らかし
ごぜん様気取って「今日の仕事は辛かった」と
愚劣なカラス弱いフリ
我が身よろしく ねんころり
ゲスな女に雨宿り

耳かきの唄(家族)

変わってゆく者が利口なのか?
変わらぬ俺がマヌケなのか?
出口のない答を探し悩むより
俺に惚れてくれる奴を当たり前に愛そう

これらは裏切りに対してのアンサーである。
だが、言葉のセンスと自ら導き出す答えに、詩人としての長渕剛のカラーが色濃く反映されている。
他の人では表現できないオリジナリティの強さが前に出ており、それは音楽性と呼ぶ以上に、作家性の強さとも言える。
それゆえ、長渕剛は超一流の歌い手であると同時に、やはり超一流の詩人だと私は思う。

だが、最近ではこのような世の中の不条理や裏切りに対する、かましソングが発表されることはない。それもよく考えれば当然である。

長渕剛も60代に入り人生のステージも変わっていく。腹の底から怒り、苦しみ、やりきれない気持ちを吐き出していく必要性がない。

そこもふくめ、正直な気持ちと共に作品がある。思っていないことを書くことはしない。

そう、真っ直ぐ生きるとは何か?
大人になって真っ直ぐ生き続けることは本当に難しい。
人に流され、長いものに巻かれ、心を汚していき、打算と欲に引っ張られる恐怖は常に隣り合わせだ。

しかし、本当に自分が欲しかったものはなんだったのか?本当の自分とはなんだったのか?

そんな当たり前のようで、いつしか当たり前ではなくなってゆくもの。それを絶妙かつ繊細な描写で長渕剛は教えてくれるのだ。

いのち(ふざけんじゃねえ)

すたれて貧しくたかるよな大胆不敵より
乱拍子で脈打ちながら
希望へかじりつく 命が好きだった

西新宿の親父の唄(JEEP)

古いか新しいかなんて
まぬけな者たちの言い草だった
俺か俺じゃねえかで ただ命がけだった

月が吠える(家族)

どうか愛しき人間(ひと)よ、
ご無事でいてください
どうか恨まず憎まず悪びれず
雲行きを明日に賭けて私は行きます
弱き者たちへの瞳(まなざし)在る場所へ



長渕剛ほどの詩人を私は知らない。

#長渕剛 #音楽 #詩 #歌詞

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