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<閑話休題>日本に帰ってから、早や17日目。

 ウクライナ戦争で騒然とする中、海外から日本にどうにか帰ってきてから、17日が経った。いつもの30日の長期休暇なら、すでに半分以上すぎてしまい(前回のときは、新型コロナウイルスのせいで、半分の14日間という貴重な時間を無為につぶしてしまったが!)、残りの日数を考えながら、大量の買い物をしたり、歯医者でチェックしてもらったり、家関係の手続きを再確認・修正したりして、あたふたとしている頃だろう。

 今回は、もう海外勤務はしないというか、何よりも定年退職だから、そもそも休暇前の仕事に復帰することはない。だから、一時帰国のときのような、「あとXX日したら、また○○国へ戻る(当然、日本食品や下着などを筆頭に日本のモノは購入できない。)」という、まるで夏休みが終わる前のような子供の気分はないはずなのだが、なぜか頭のどこかで、「あと・・日」という感覚が漂っている。

 それはまた、帰国してからしばらく日本勤務が続く場合の、これから(既に浦島太郎になっているから)「新しい」日本の生活に早く馴染もうと思い、そして次の(システムや方法が一変した)「新しい」仕事にも早く慣れないといけない、などと考えることも、もうない。

 もっとも、もう少ししたら年金を補填するためのアルバイト的な仕事を探すつもりだがら、そういう面では「新しい」環境と「新しい」仕事になるのだが、これまでの責任感や使命感とは無縁の、悪く言えばアルバイトであることの「お気軽気分」でやれるわけだから、これまでとは違ってくる。

 そうして今は、これまで40年間携わってきた仕事の一種の清算作業をしている。現場での後任への引継ぎは、とっくに終えているから、今やっていることは、退職に伴う、退職金はいくら、年金はいくらといったことを、専門の数式によって計算した金額を、自分がやってきた40年間の対価として、漫然と不満もいわずにただ受け入れることだ。

 その作業は、まるで地獄の閻魔大王の前で、生前に自分がやってきた行いを評定され、善悪を計りにかけられているような気分になる。長いようで短い40年間だったし、大した仕事をしてきたわけでもないが、そうしたもろもろのこと全てが、ちっぽけな数字として提示され、「所詮、お前なんかこれだけの価値しかないんだよ!」と、痛烈に指摘されたように感じてしまう気がする。「すいません、何も貢献できずに生きてきました」と思わず、心の中で詫びてしまう。

 これまで計25年間を過ごした海外生活も、仕事で行くことはもうない。もちろん、長期赴任はないし、短期出張もない。あるとすれば、短期間の海外旅行だが、それも質素が相応しい定年後の経済状態から見れば、とてもそんな余裕はない。これからは、日本国内で、死ぬまでの間をずっと生活するのだ。当たり前といえば当たり前のことだが、これが心身ともに実感してくるには、あと1~2ヶ月はかかりそうだ。

 それにしても、東京は人が多い。それだけで疲れてしまうのは、私が老齢だからという理由だけでもないと思う。日本を離れると、何よりも日本の素晴らしさを実感するが、帰ってきたときに、日本の不都合さを感じることも避けられないようだ。

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