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<書評>『この人を見よ』

『この人を見よ ―人はいかにして本来のおのれになるのか―Ecce Homo』フリードリッヒ・ウィリヘルム・ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche 手塚富雄訳 岩波文庫 1969年  原著は1894年

『この人を見よ』

 晩年のニーチェが、『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な、あまりに人間的な 及び二つの続編』、『曙光』、『たのしい知識(または悦ばしき学知)』、『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像のたそがれ』、『ワーグナーの場合』という自身の著作の解説をするともに、自伝(自負)を交えて書いた本。自分の著作を自ら解説すること自体が、非常に奇妙で面白い。また、まもなくニーチェが発狂し、1900年に肺炎で亡くなる前の、最後の著作となった。

 そして、その本の題名を、聖書でイエス・キリストを指す言葉である「この人を見よ」を援用していることは、そのまま自分自身をイエス・キリストと同一視している(アンチ・キリストである)ことの証拠と捉えるのが自然だろう。

 ただ私は、本書がニーチェの自伝であることに関心を持ったために読み始めたのではなく、著者自身による各著作の解説を読みたいと思ったのが読み始める契機となっている。そのため、例えば(本書には言及されていないが)ルー・ザロメへの失恋などの自伝的な要素には、本稿文末に記した「参考」としてのニーチェの精神病以外は、あまり興味がない。

 本書を読んでつくづく感じるのだが、ニーチェは一般的に偉大な哲学者とされているが、その文章は非常に読みやすくわかりやすいということだ。もっとも、その逆説的なアイロニーを含めて全て理解しているのかと問われれば、まったく面目ない読み方しかできないが、少なくとも一般的な哲学書のように文章や語彙が難解かつ特殊で、意味を把握しづらいということはない。例え真意を捉えられなくとも、すらすらと読めてしまう、また読ませてしまう文章の上手さがあることを強調したい。

 こうした傾向があるのは、哲学の世界では後期のマルティン・ハイデッカー(とメルロポンティも近いかも知れない)が他にあるだけだと思うが、例えばエドマンド・フッサールとかエルンスト・カッシラーとか、20世紀ではミッシェル・フーコーとかポール・リクールとかは、語彙と文章が難解すぎて、一回読んだだけでは頭に入ってこない上に、文字通り熟読を繰り返す読書をしないと理解できないし、もし理解できても(私の脳力では)半分程度に止まる。もっとも、彼らの著作は、現在でも多くの研究者たちが研究の対象に(つまり、意味を捉える作業を)しているくらいだから、素人が理解できなくとも当然だと思っているが。

 そういう観点からニーチェは、哲学者ではなくて文学者、作家と称した方が適切ではないか。例えば、サミュエル・ベケットの作品は、文学としてノーベル賞を受賞しているが、その内容は極めて哲学的であり、テーマ自体も哲学そのものだから、文体や表現方法は異なるものの、似ているように思う。もしニーチェがノーベル賞のある時代に生きていれば、ノーベル文学賞を受賞したかも知れない(特に『ツァラトゥストラ』)。

 そういうわけで、本書が読みやすい文章かつ短い章分けになっていることもあって、私は短時間で読了できたが、内容については、ニーチェを専門に研究しているのでない限りは、本書を読んだだけで、何かたいそうなことを言うことは難しいと感じた。また、そうした何か解釈じみたことを言おうとするのであれば、本書に言及されているニーチェの著作をすべて事前に読了しておくことが必要になるだろう。

 残念ながら、本書を読んだ時点で私が読了していたのは、『悲劇の誕生』と『ツァラトゥストラ』のみだったので、この前提条件には合致しない。しかし、本書の中でニーチェが何度も言及し、また一番分量が多いのは、この『ツァラトゥストラ』である。つまり、ニーチェ自身が代表作と見なしているのが、この『ツァラトゥストラ』であることがわかるし、また自らの哲学・思想をもっとも良く表現したのが、この作品であることがわかる。また、他の作品は、『ツァラトゥストラ』の付随物的な印象が残る書きぶりになっているように読めた。

 以上が浅学の私が本書から読み取れたものだった。やはり、哲学書としてよりは、「愉快な哲学放言」のように読む本ではないかと思っている。

 最後に、本書の中で私の琴線に触れたところが一ヶ所だけあった。それは、『善悪の彼岸』に関する最後の箇所だったので、以下に紹介したい。

P.160
 ・・・あれは神自身だったのだ、予定の仕事を終えて、蛇となって知恵の木の下に身を横たえていたのは。彼はそのようにして、神であることから休息したのだ・・・神はすべてをあまりに美しくつくってしまったのだ・・・悪魔とは七日目ごとの神の息抜きにすぎない・・・

 ここには、神と悪魔がコインの表裏のような関係にあることが読み取れる。六日間は、神として慈愛を人類に示すが、七日目に息抜きしたとき、別の姿である悪魔になって、人類に災厄を与える。しかし、災厄と称されている一方、それは知恵であり、人類が生存し続けるために、あるいは神の存在に近づくために必要なものでもあったと言えるだろう。

 もっと言えば、その災厄=知恵は、神が休息したときに思わず落としてしまった、神が神たる所以のものなのかも知れない。

参考:
 ニーチェの発狂とされている、つまり精神病の症状については、私はそもそも精神病の専門家でもなんでもないが(しかし、仕事関係で、精神病患者に何度も一人で対応したことがある)、ちょっと興味があるので、自分なりに考えて(診断して)みた。

 診断の参考になるのは、友人・知人に宛てた手紙だが、発狂を確信させるその内容は、簡単に言えば、自分が別の人格、しかも想像上の神などになったと信じ込んだ上に、手紙の相手も同じ想像上の神などにしていることである。

 これは、いわゆるレトリックというか、文章表現の技術として自分と相手を別の人格として比喩することはあるが、ニーチェの場合は、それを比喩ではなく実際にそうだと信じ込んで書いていることに、精神病だと診断される理由がある。そして、この症状は「誇大妄想」・「多重人格」という、いわゆる精神分裂病(最近の表現では、統合失調症)になると思う。

 もっとも、こうした症状が出た背景として、「梅毒説」や「脳腫瘍説」などがあるが、検死などをしたわけでないので、なんとも結論を付けられないから、考える対象にはならない。それに加えて、ニーチェの発病以前の作品はみな優れた著作ではあるが、その言葉使いや表現は、年を経るにつれて誇大妄想気味になっているのは誰もが感じているとおりだ。

 だから、簡単な結論をすれば、「ニーチェは、精神病質の人間だった」とだけ言えると思う。そして、古今東西の偉大な芸術家や哲学者などには、こうした精神病質の人が多いことは、誰もが知っているとおりである。

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