<閑話休題>「着こなせる」と「馬子にも衣装」
2月20日は、三年前に突然死した妹の命日だ。妹は冬の風呂場でヒートショックになり溺死した。14歳年上の夫と死に別れてからは、なにかと苦労の絶えない独り暮らしだったが、それがようやく終わった出来事だった。
子供時代から着道楽で、夏に冬の服を、冬に夏の服を着たがることが良くあった。また、子供時代から食べることが大好きで、とてもモデル体型とは縁遠いスタイルだったが、中学生のとき、あまりにも分不相応な服を着たがったため、さすがに母親が反対した。高校生の私も、兄として「そんな服を買っても、着こなせないよ」と注意した。
ところが、まさに「中二病」そのものでもあった妹は、「私はどんな服でも着こなせる自信がある!」と強硬に主張した。私はそのとき、妹が「着こなす」という語彙を理解しておらず、反射的に「着こなせる」と応答しただけだとわかっていたが、まだ説得力も語彙も足らない若輩の私は、妹を説得する言葉を持たず、またそのための多大な労力を想像して敵前逃亡を決めた。
当然、無理に無理を重ねて買ったその服は、妹の年齢やスタイルに不似合いであるばかりでなく、そうした服を着るようなTPO(時期、場所、機会)はもちろんないため、一回だけ、とにかく「着た」だけで、すぐにどこかへ隠れてしまった(いわゆる「箪笥の肥し」)。
この「着こなす」という言葉の分析は後で行うとして、正反対に思える諺に「馬子にも衣装」というのがある。これはよく「孫にも衣装」と間違われ、可愛い孫に良い衣装を着せれば、さらに可愛くなるように誤解されているようだが、今は「馬子」という職業が存在しないのだから、間違えるのも仕方ない。
ご承知とは思うが、昔は馬が交通の主要手段であって、皆が皆、乗馬が得意というわけではないし、また荷物を運搬する役割も馬にあったので、「馬子」または「馬方(うまかた)」という馬を使う職業が普通にあった。つまり、馬を飼育しつつ、そこに人を乗せて目的地まで移動させる、または荷物を運搬することを仕事にしていた。なお、これに車を付ければ馬車ということになり、人を運搬する人は御者と名前が変わったが、荷物の場合は変わらず馬子(馬方)だった。
私は決して、職業を差別する意図を持っていないが、昔はこの馬子というのは下層階級の肉体労働者として認識されており、また仕事柄高価かつ立派な衣装を着ることもなかった。そのため、この馬子に例えば殿様の衣装を着せてみれば、それなりに立派に見えることから「馬子にも衣装」という言葉が出来た所以となっている。
しかし、いくら立派な衣装を着ても中身は変わらないから、一見立派でもあっても良く見ると「衣装に着られている」状態になる。つまり、衣装を着ているのではなく、分不相応な衣装の中に、不釣り合いに人が入っているような状態を、この「着られている」という言葉で表現している。
例えば、背広(最近は英語のSuitをカタカナにしてスーツというようだが)を普段着ていない人が着ると、着慣れていないことから「背広に着られている」感じになってしまうことがそうだ。また、ゴルフとかテニスなどのスポーツの初心者が、そのスポーツ専用のウェアを着ると、やはり「着られている」感じになってしまう。
ここで冒頭の「着こなす」に話題を戻す。つまり「着こなす」とは「着られている」ことにならない状態を言うのであって、そうなるためには、その衣装を「着慣れて」いることが前提になる。また、そうした衣装を着るための一種の資格もあって、例えば、殿様でもない百姓が殿様の衣装を着たら、当然着こなすことはできないだろう。
だから、今タイムスリップできて、中学生の妹から「私は着こなせる!」と反論してきたら、「着こなすというのは、その服を着るための年齢、経験、社会的地位、知識などがあってこそ、着こなせると初めて言える」と説明できると思う。しかし、こんな説明しても中学生には難しすぎてわからないから、結局中二病を論破しようとしたら、同じ土俵に乗る(つまり、アイドルの〇〇はそんな服を着ない、等々)しかないのだろう。そして、私は昔も今も、その手の土俵には決して乗れないタイプの人間なのであった(だから、クラシック音楽以外のコンサートには、絶対に行けない)。
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