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<書評>「ホーキング,宇宙のすべてを語る」

ホーキング宇宙のすべてを語る

「ホーキング,宇宙のすべてを語る」スティーヴン・ホーキング,レナード・ムロディナウ著 佐藤勝彦訳 ランダムハウス講談社 2005年

1.読み始めの頃

ちょうど今,ナショナルジオグラフィック日本版9月号を読んでいるが,宇宙,特に太陽系と小惑星・水星の特集をやっている。付録に付いている図を見ると,私が小学校5年の頃,貧乏な父に無理して月賦払いで買ってもらった,子供学習百科事典の宇宙の項目―当時の私にとって,それはウルトラマンシリーズやアメリカのTVドラマ「謎の円盤UFO」などより,遙かに興味深く,すべてが新鮮な驚きと新たな知識となるSF世界の宝庫だった―で知った知識からは,言葉に表せないくらいに格段に進化している。

宇宙のことを,人類はここまで理解するようになったのだ。

そうした背景を持って,既に読んでいるホーキングの「宇宙を語る」,「未来を語る」に続く本書を,とても楽しく読んでいる。むしろ,科学啓蒙書というよりもエンターテイメントな読み物として,私は楽しんでいる。


2.読み始めた半ばの頃

宇宙論というのは,そもそも日常の生活とはかけ離れたものだ。それを理解していようといまいと,毎日の生活に何の影響もない。

私は,経済学には全くの素人だが,要するに日常の人々の生活とは,1円のものをどうにかして10円で売って,その差額となる9円を自分の利益にするために,多くの努力をすることだと,極めて単純に理解している。つまり,おおざっぱに言えば,地上の大多数の人々は,物欲を充たす(ミシュランで星がついたレストランで食事する,高級車を乗り回す,豪邸に住む,高級ブランド品を買い漁る,自分の趣味に大金を消費する)ことを目的として,毎日仕事に勤しんでいる。

そうした日常から見れば,宇宙が膨張していようが,収縮していようが,反重力という物質があろうが,暗黒物質が宇宙にどのくらいあろうが,そうした諸々は,大多数の人々の生活に全く影響しないし,物欲を充たすための金銭獲得にはまったく影響しない(ただし,一部の研究者は,その研究成果からノーベル賞とか大学教授の職とか,経済的恩恵を得るが)。

普通の人々が,最新の宇宙理論について,こうした啓蒙書を読んで理解したとしても,たとえばドバイの最高級ホテルの1泊何百万もするスイートルームに泊まれるわけではない。むしろ,そんなことに時間を費やしているよりは,その時間と労力を使って,もっと金を稼げることに使った方が,物欲を充たすためには有効だろう。

それでも,このような一種高尚な哲学を語るような内容の,宇宙論についての啓蒙書は良く売れる。人々は,まるで趣味のようにして,こうした書籍を購入し,読み,宇宙のことがわかった気持ちになったと喜ぶ。それは,自己満足でしかなく,また読んだ後で世界観や人生観が劇的に変わることもないが,それでも,知識欲は満足させられる。

それは,なぜだろう?と思う。

やっぱり,太古の昔から,人は,自分はどこから来たのか,どこへ行くのか,この住んでいる世界=宇宙とはどういうところなのか,宇宙に始まりや終わりがあるのか,といったことを知りたいのだ。そして,そうした欲求=問いかけに対して,これまで神話,宗教,哲学が対応してきたが,今や神話,宗教,哲学の力が相対的に弱くなってしまったため,これに変わる新たな宗教として科学が台頭した。そして,科学探究の最新結果を,まるで宗教の教義のように,人々は有り難かって受容しているように思う。

かくいう私もその一人だ。20世紀に入ってから急速に信者を拡大した,この「科学」という新興宗教は,21世紀に入ってからも信者を拡大し,勢力を広げ,その教義をより強化している。そして,最新の教義を学ぶために,―たとえそれが,毎日の金銭の獲得に直結しなくとも―知ろうとして,こうした啓蒙書に飛びつくのだ。

はたして,これは単なる流行のようなものだろうか。古代宗教のように,人々の生活を安定させるためだけのものだろうか。そこには,最後は自己満足しかないのだろうか。

私は,これに対する答えを持ち合わせていない。ただ,自己満足であったとしても,死ぬまで知識を増やしていきたいし,知らなかったことを新たに知ることは,自分にとって最高の幸福だと思っている。


3.読み終わって

最終章の冒頭にある問いかけを私もずっと持ち続けている。

「宇宙の本質とは何なのでしょうか?私たちは宇宙においていかなる存在なのでしょうか?また宇宙は,私たちは,いったいどこから来たのでしょうか?宇宙はなぜこのような状態になっているのでしょうか?」

これに対する回答へ進む過程として,特殊相対性理論,一般相対性理論,量子論,量子重力論,4つの力(重力,電磁力,弱い核力,強い核力)の統一理論,超重力理論,ひも理論,pブレーン理論,不確定性原理などが説明されている。

そして,こうした多数の科学者の大変な努力の結果を踏まえ,将来に人類が到達する可能性について,以下の3項目を挙げている。=の次は,私なりの要約だ。

(1)完全な統一理論(または,互いに重複している定式化を集めたもの)は確かに存在する。私たちが十分賢ければ,いつか発見できる。=人類は宇宙の全てを知る。
(2)宇宙の究極の理論は存在せず,だんだんと正確に宇宙を記述できるようになっていくが,決して完全に正確にならない理論が延々と続いていく。=知識のイタチごっこが続く。
(3)宇宙の理論は存在しない。宇宙での出来事はある限度を超えると予測できなくなり,無作為に,そして気まぐれに起こる。=神の存在を確信する。

私は,この(2)が正解なのではないかと思う。なぜなら,人類の知的欲求及び知的探検には,終わりがないから。もっと言えば,人類がその真実を知れば知るほど,その都度新たな未知の領域に至るので,ここで終わりという地点はなく,永遠と続いていくからだ。つまり,ゴールのない長距離走をしているようなものだ。とりあえずのゴールはある。しかし,その仮のゴールに着くと,さらに長い距離が前に見えるということだ。

これは絶望するような考えだろうか。ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが,現代哲学には宇宙論は数学的に難しくなりすぎて,それを理解・考察することができないため,言語構造を探求することを選んだように,その追求を諦めざるを得ないような,希望のないテーマなのだろうか。

そうではないと,私は思う。そして,ここに来て,漸く哲学の復権が,哲学の役割がまた巡ってきたと思う。もう数学で宇宙を理解することは根本的に無理なのだ。それは,人類が知り得た情報の中で,整合性を持って説明するための方便でしかなく,宇宙そのものを理解するための道具にはなり得ない。

だから,そのときにこそ哲学は唯一の道具となる。果てしなき絶望に直面して,人類はどうするのか,どうやっていけば良いのか,これに対する答えを探すことが,これからの哲学の課題になるのではないか。

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