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<閑話休題>「選ばれし人」

以前に書いたかも知れないが,私は「選ばれし人」というイメージに常につきまとわれている。

この「選ばれし人」という言葉からは,たとえば芸能人やスポーツ選手のような,特別の才能に恵まれて,一般の人たちから注目されるとともに金満生活を送る裕福な人,というイメージを普通思い浮かべると思う。

ところが,私が選ばれているその「選ばれし人」というのは,全く正反対のもので,簡単に言えば苦労仕事,損な役割,目立たない地味な汚れ仕事をする意味になっている。

具体的には,職場のコピーを使用すると,かなりの確率で用紙切れになっている。その際に私は,よく使用するA4版以外の用紙も点検して,残りが少ないようであれば全ての用紙を補給しておく。

また,私の部屋の前の廊下には,4Lのボトルを設置している給水器があるのだが,毎回私はその重い4Lのボトルを倉庫から運搬している。ただし,還暦を過ぎた身体には4Lを持ち上げることはできても,腰に悪いことは明白なので,力仕事を担当する運転手に依頼するようにしている。それでも,誰もやらない,やれない(女性には無理だ)ようであれば,自分でやっている。

職場の同僚で性格の悪い奴がいるのだが,いつも肝心のときには休暇を取って職場にいなかったり,休暇を取るときも病気と称して平然と期間を延長してしまう奴だ。先日,こいつがくだんの給水器からコップにお湯を入れているのを見たのだが,明らかに残り少なくなっているのを絞り出していた。そいつはまだ40代の壮健であり,また私が無くなる前から運搬して用意してある満タンのボトルが側にあるから,当然ボトルを入れ替えると思っていたら,知らん顔していなくなった。

そして,なぜかそいつの後に私が水を欲しくなって,その給水器に行ってしまうのだ。予想はしていたが,やはり水は一滴も出ない。当然ボトルを代えねばならない状態だったのを,やっぱりそいつは平気で放置していたのだ。次に使う人のことなんかおかまいなしに,自分だけ快適であればよいと行動していたのだ。

たぶん,こいつはコピー機が用紙切れになっても放置しているだろうし,よく見かける例だが,普段使わない用紙や倍率を設定し,しかも多量の枚数をセットした後に放置することもやっていると思う。こいつのせいで,次に使う人は,たとえばA4を1枚だけコピーするつもりで「ON」を押すと,B4の用紙が20枚くらいプリントされて,紙の無駄になってしまうことが発生するのだ。そして,こういう奴に限って,「使う前に確認すればいいじゃないか」と生意気な口をきくが,そういうおまえこそが「次に使う人のことを考えて,自分が変えた設定を元に戻せば良いだけだ」と言ってやりたい。

ところで,私の祖父母は戦前の商人として鍛えられた人だったので,私は幼い頃から,いろいろと人生の方便を教わってきたつもりだ。その一つが「次の人や待っている人のことを考えて行動しなさい」だった。たとえば,玄関で靴を脱ぐときも,後から入る人が靴を脱ぎやすいように隅に脱ぐように教えられた。道ばたにゴミを捨てると,「お天道様は見てるよ」と叱られた。

今でも最も良い言葉だと思っているのが,ゴミ掃除等の汚れ仕事をしている人たちへの敬意だった。祖父母からは,「ああいう人たちがいるから,私たちは綺麗な暮らしができている。だから,汚いとか言って,馬鹿にしたら絶対にだめだよ」と教わっていた。だから,私はいつでも掃除してくれる人たちには感謝しているし,職場でも掃除のおばちゃんには親切にしている。さらに,人をその肩書きで対応を変えることは絶対にしていない。

よく定年退職してから,「部長でした」,「管理職でした」等と昔の肩書きを自慢する人がいる。もっと言えば現在そうした「部長」,「管理職」であることを持って,自分自身の人間としての品格を自慢する人がいる。しかし,私はいつも思っている。人間にとって,肩書きなんて所詮うわべだけの薄っぺらなものでしかないと。

人間は,生まれてきたときも死ぬときも一人だ。そこには肩書きもなにもない。たとえば,人類絶滅の危機にあって,どこそこの大企業の管理職だったということは何も役に立たない。究極の状況では,自分の身体ひとつで生死を賭けた戦いとなる。そのときに武器になるのは,それまでの人生で磨いてきた己の技術と器量と品格だ。もっと言えば,死ぬときに閻魔大王様が,地獄に行く奴と天国に行く奴を裁量するとき,ボトルの水を使いきって逃げる奴と,空のボトルから4Lの重い水ボトルへ入れ替える奴のどっちを天国に行かせるだろうか。

水を使い切って逃げた奴は,「おれは要領が良いし,世渡りが上手い。いつも甘い汁を吸わせてもらっている」と喜んでいるだろうが,人間,死ぬときにはその人生でやってきたことの精算をさせられるから,絶対に天国行きはないだろうと思っている。

そう考えると,いつも重い水ボトルを交換し,コピー用紙を入れ替えている私は,現世での功徳を積ませてもらっている「選ばれし人」だから,お天道様に感謝すべきなのかも知れない。

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