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<芸術一般>「トスカ,カラス,そしてカラヴァッジョ」

20世紀最高のオペラ歌手いや最高のディーヴァ(歌姫),まさに人類に自らの歌を捧げるためだけに生まれてきたと言っても足りない程の至上のソプラノである,マリア・カラスは,最も多く出演したプッチーニ「トスカ」のトスカ役が,そのまま自らの人生を反映したようなものとなっていた。

「トスカ」は,近世初期のイタリアでゴシック美術の天才とうたわれたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571年9月29日生まれ,1610年7月38日)の短く激しい生涯を題材にして,カラヴァッジョの恋人である絶世の美女トスカを中心にした,波瀾万丈の物語だ。

この中でトスカが歌う「歌に生き,愛(恋)に生き」は,オペラのみならず,カラスの代表的なアリアとして知られている。しかい,原文や物語の背景からは,後半部分はキリスト教の神に対するものであるから,「恋」と訳すのは適切ではなく,「愛」と訳すべきと指摘されている。つまり,「自らの歌うことに生き,そして神への愛に生きる」というアリアなのだ。

また,この題名そのものは,そのままカラスの人生を象徴するものとなっている。彼女は,生涯歌うこと自体を己の生存証明とし,多くの人々から愛され,またオナシスに代表されるように「人を愛した」。このアリアは,そうしたカラスの人生を想起させる絶唱ともなっている。

だから,カラスの歌う「歌に生き,愛に生き」は,己の人生そのものを直接反映させたような,感情的な声と感動的な技巧によって,いつ聞いても恍惚としてしまうのは,私だけではないと思う。

ところで,「トスカ」に登場する夭折した破天荒な天才画家カラヴァッジョについて,思うところを述べたい。

カラヴァッジョは,生存した当時は,世間から評価されていなかった写実主義の天才画家だった。しかし,彼が出現していなければ,その後の絵画が写実主義に目覚めることもなく,今の絵画界は寂しいものになっていたに違いないから,現在の我々はカラヴァッジョを,ようやく正当に評価できるようになった。

カラヴァッジョ自身のものは発見されていないが,他人による肖像画が残っている。その顔つきからは,「トスカ」の登場人物に相応しい,いかにも情熱あふれる激しい気質がうかがわれる。

カラヴァッジョ肖像画

また,カラヴァッジョは自画像がない一方,自分の作品に登場することを好んでいた。たとえば,生存中は正しい評価を得られなかったが,20世紀に入ってから再評価されたこの「トランプ詐欺師」では,詐欺師に被害者のカードを教えている人物は,明らかにカラヴァッジョその人だ。

カラヴァッジョ「トランプ詐欺師」

また別の側面では,カラヴァッジョ作品の登場人物は,アンドロギュノス(両性具有)性を多く含んでいる。「トランプ詐欺師」の詐欺師は,女性か若い男性のいずれか見分けが付かない。

さらに,この「病めるバッカス」は,アンドロギュノスであるばかりか,自身をモデルにしているように見える。確認されてはいないが,カラヴァッジョ自身は,両性具有への憧れがあったのではないだろうか。

カラヴァッジョ「病めるバッカス」

さて,彼の傑作の一つとされる「聖マタイの召命」がある。

カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

この作品を簡単に解説すれば,近世イタリアの暗い部屋で,外からの一筋の明かりを頼りに,徴税史たちが金を数えている。そこに,4大予言書作者(マタイ,マルコ,ルカ,ヨハネ)の一人となるマタイを探しているイエス・キリスト(右端の指さしている人物)が現れ,マタイに対して弟子になるように呼び出す(召命)というドラマチックな場面となっている。

そこで呼び出された(指さされた)人物(マタイ)は誰かとみれば,「俺のことか?」とばかりに,自らの胸を指さしている,左側に座っている光(聖人としての光)が当たる髭の人物であると見られている。これは,この作品を見た誰もが理解するような,自然な解釈だと思う。

しかし,私は何か強い違和感を持っている。

1.まずマタイと見られる髭の人物の指先が,微妙に自分の方ではなく,右側(画面では左側)にいる,うつむいて必死に金勘定している青年に向いているように見える。

2.次に,この髭の人物がマタイであるとすれば,この場面に相応しいドラマ性が薄れてしまう。つまり,髭の人物はイエスが迎えに来ることを予想していたため,金勘定という重要な仕事をしているのにも関わらず,突然来訪した怪しげな人物(イエス)を疑うことなく歓迎しているように見えるのだ。本来なら,イエスが来ることを知らず,金勘定という俗世間の仕事に没頭していたところへ,突然イエスから聖人として指命されたことに驚く,というドラマ性がなければならないと考える。

3.もし,私がカラヴァッジョであれば,この作品のドラマ性を引き立てるため,髭の人物は脇役として,イエスが来ることに気づくだけの役割を与えたい。また,後に聖人となるような偉大な人柄であるマタイは,イエスが来て「俺か?」などとそわそわ慌てるような気質では相応しくない。イエスが来ても,自分の仕事を全うするような実直な人物(画面左端の青年)であるべきだ。

4.だから,髭の人物が指さす方向にある,イエスの来訪にも気づかず必死に金勘定している青年こそ,マタイに相応しいと思う。

5.そして,このうつむいていて人相がよく判らない青年は,その全体の印象から,カラヴァッジョが好む両性具有性を備えているように見える。また,カラヴァッジョが,この作品の主人公とするマタイは,その聖性を誇張するためにも,両性具有的であることが相応しい(両性具有という概念は,ギリシア・ローマ神話からヨーロッパに深く根付いてるイメージであり,そのまま神性とつながっている)。

6.そうした諸々の条件を満たし,またドラマチックな作品とするためには,マタイは髭の人物ではなく,右端で金勘定している人物だと考えるのが,私の推論です。

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