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<書評>「ヨーロッパの昔話」

ヨーロッパの昔話

「ヨーロッパの昔話―その形と本質―」マックス・リティ著,小澤俊夫訳 岩波文庫 2017年 原本は,”Das Europaische volksmarchen “ 1947年の1981年第7版

本書は,文芸書や啓蒙書の類いではなく,純然たる学術研究の成果をまとめた論文なので,一般的な読み物として楽しむためには,いささか難しい語句や言い回しがあるため,少なくとも娯楽として読むことはできない。

私も,当初は昔話のカタログ的な内容を期待して購入したのだが,その期待を裏切られた結果となった。しかし,それは期待する方に無理があったと,読後に痛感する。本書は,昔話の様式について定型化するための論考として読まねばならない。

本書で提示されたその定式化された様式は,以下の2つに集約される。

1.登場人物の二次元的な人物像の薄さ。文学作品なら,登場人物の心理描写や情景描写が濃厚に書かれるが,それらを排除して,シンプルに事実を重ねるだけの叙述となっている。

2.次に,登場人物に共通する,身体に欠陥が生じた場合に,それが継続しないことである。物語の途中の災難や事故,あるいは登場人物が事態を打開するために故意に行った,手足等を失う事案が発生しても,次の瞬間には,何事もないように五体満足に戻っている。もちろん,物語の最後に行き着くまでは,主人公は何があっても不死身だ。

ところで,以上のポイントを踏まえて,現代のアニメーションを見ると,そこに大きな共通性があることに気づく。もっともわかりやすい例として,「トムとジェリー」を挙げたい,

猫のトム及びネズミのジェリーは,何かの行動に対して,深く思い詰めた末に実行することはない。そのアイディアが浮かんだ瞬間(頭の上に,光る電球が登場する),それを行動に移す。その姿は,三次元的な人物ではなく,二次元の板に描いた人形(ひとがた)にしか思えない(実際,二次元のものでしかないが)。

また,トムとジェリーを中心に,登場人物はお互いに激しく攻撃しあうが,その結果,火炎によって灰になったり,尻尾を切り取られたり,バネのように折りたたまれたりする。高い場所(雲の上など)から地上に落ちても,その瞬間は強い衝撃で小さな塊になってしまうが,まるで,何度でも形を変える特殊な物質のように,変化する。そして,次の瞬間には,元の完全な状態に戻ってしまう。

これらは,昔話の登場人物たちと同じではないか。他にも,昔話と「トムとジェリー」が同様に作られているものとして,同一のパターン(トムがジェリーをどこまでも追いかける),同一のオチ(トムが失敗して,災難を被る)を,何回もバリエーションを変えて(家の中,家の庭,貴族の城,歴史劇の舞台など),まったく飽きることもなく,終わりを迎えることもなく,ただ繰り返し演じられる。

だから,「トムとジェリー」は,昔話同様に「とても古い物語」(猫がネズミを追いかける)であり,同時に「全く古びない物語」(アメリカで子供用のアニメーションとして最初に登場して以来,ワーナブラザーズ社の有能なキャラクターとして,世界的な知名度を維持している)である。

ここで私なりの結論を述べたい。

昔話は,民衆にとってアニメーションのような娯楽ではないだろうか。たとえば,伝説は,民衆を啓蒙するための教訓を含み,神話は,民族の重要な歴史を伝えることを目的としている。しかし,昔話には,(グリム兄弟のように,昔話の原型から大きく変容させた事例を除き)教訓や歴史の事実を含むことはない。

昔話は,現代人にとってスラップスティックアニメーションやスラップスティックコメディ(映画やTV)としての娯楽であり,娯楽であるからこそ,長く民衆に愛され,伝えられてきたのではないだろうか。

私は,ユング心理学を好むので,物語の背景に深層心理を探すことが多いが,昔話の世界に,その方程式を適用することは不要だと考える。なぜなら,「なぜ猫はネズミを追いかけるのか?」と問いかけることに等しいからだ。

そして,その答えを無理に出すとすれば,それは「猫にとって娯楽(楽しいから)だからだ」と答える。ただし,この答えからは,「トムとジェリー」の主役はトムであり,ジェリーは(追いかけられるだけの)脇役ということになってしまうが,これはちょっと違うなとも思う。もっとも,この論点は昔話=物語全体についての論考というよりも,登場人物=演技者の役割分担についての議論であるので,また別の機会に考えてみたい。

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