<書評>『迷宮と神話』
『迷宮と神話 迷宮の研究――ある神話的観念の線反射としての迷宮 魂の導者・ヘルメース――男性の生命起源の神話素 Labyrinth-Studien, Labyrinthos als Linienreflez einer mythologischen Idee Hermes der Seelenfuhrer, Das Mythologen vom mannlichen Lebensursprung 』カール・ケレーニイ Karl Kerenyi著 種村季弘・藤川芳朗訳 弘文堂 1973年 原著は1950年と1943年。
本書は、書名になっている「迷宮」についての論考と、さらに「ヘルメース」に関する論考の二つから構成されている。分量は同じくらいだが、内容的に興味を惹かれるのは圧倒的に「迷宮」である。しかし、「ヘルメース」論についても、実はケレーニイが得意とする童児神についてのものなので、ケレーニイ神話学では重要である。
1.迷宮について
「迷宮」、「螺旋」、「卍」、「舞踏」、「生と死」といったキーワードが散りばめられた本論には、同時並行的に読んでいたジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』と共通する、人類学的かつ哲学的に触発される箇所が多々あった。まずそれらを引用したい。ポイントとなる部分は太字にした。
なお、迷宮とはクレタ島のクノッソス宮殿にあったものが有名だが、例えばポリネシア民族の入れ墨や北欧の古代遺跡、チベット発祥と見られる卍、ラーメンどんぶりにもある雷紋など、世界各地に迷宮から発生した螺旋模様が見られる。また、ギリシャには「鶴の踊り」と呼ばれる、女性が手を繋いで渦巻きの中心に向かって歩いていき、中心に着くとそこから外に戻っていく舞踊が伝えられている。
P.41
しかしながら古い風習の再生は一方ではますますスポーツめいたものに移行していく。すなわち<魔法の輪>のなかで正式の競争が行われるのだ。他方ではまたそれは――擬古典主義的な庭園迷宮の形式において――一種のパズルゲームや知恵の輪遊びに通じている。おそろしく込み入ってはいるが遊撃的な、またその本質においては祝祭的な通り抜けと迷宮歩行、その展開の究極にはきわめて合理主義的な何物かが、すなわち機略縦横の組立て装置が立ち現れる。このデカダンスの最終段階が小さな玉をなかに入れた玩具の形の携帯用迷宮をこしらえ挙げる。器用な子供ならこの玉を転がして中心に持って行くことができるのである。
P.49
このような合理主義的構造はしかしながら(必要とあらば)神話の死後の形態を説明してくれるであろうが、それのみにとどまって、他の二つの古代の見解を説明してくれはしない。他の二つの古代の見解とは、1.迷宮は一個の洞窟であった。2.迷宮は舞踏化することもでき、ダイダロスがこの舞踏を考察し、舞踏場を建てた、ということものである。クノッソスの<白い石の上に>示されたのは、ミノス王の宮殿の平面図ではなくて、ダイダロスの舞踏場のそれであった。
P.51
本来なら迷宮に関するあらゆる研究は舞踏から出発するのでなくてはならない。迷宮―舞踏や迷宮-遊戯に関する文献的なならびに考古学的典拠こそは、時間的にも、その性格からしても、もっとも根源的なのである。迷宮図形そのものだけなら――螺旋や曲折模様として――古代地中海圏においてはもっと古い時代まで遡って追及することができる。だが迷宮-舞踏の方はそれ自体は無言且つ無時間である。どこにあらわれようで喚起的であることに変わりはない。
P.60
ウェルギリウスの述べるところにしたがえば、それは、若者の一種の闘技であり、後代のある観察者によれば<馬に乗った舞踏>であり、且つまた<密議>である。この遊戯はいずれにせよ蒼古たる起源のものであって、スタイルこそ相異なるとしても、原理においてはギリシャの迷宮-舞踏と一致していた。どちらかがどちらかから派生してきているのでないが、にもかかわらずエトルリアのトルイア遊戯者はその楯面に大きな鳥の絵を掲げている。鳥との自己同一化は、かくしてきわめて古代的、本質的な特徴であることが判明する。
P.61
自動巡回歩行症automatisme ambulatoire、すなわち夢遊歩行的でありながら記憶力は明晰に保たれているのみならず記憶の異常亢進を伴って演じられる迷宮状の巡回歩行であり、ローマ人の間で儀式的巡回歩行がその名をもってよばれているところのcircumambualtioであった。最初は左方向へ、ついで中心に到達してから右方向へ回転する。この体験はくり返し<霊的浮上(レヴィイタシオン)>現象を随伴した。この病気に罹ると、猛烈な風に鷲づかみにされているもののように地面から持ち上げられるような傾向を感じる。
・・・・・・・・・・・・
鶴踊りの踊り手たちは飛翔を強烈に体験したために、相互に手を握り合って、なんとかして此岸の現実にかじりつかなくてはならなかったのではないか。私たちは彼女たちの体験の強烈さをけっして過小評価してはならない。非常事態――まさに異常なことを可能にする心的充実のひとつ――が申し分なく健康な人びとに起こっても異とするに足りないのである。
P.68
洞窟-迷宮と迷宮-建造物は死をもって脅かす怖ろしいものを指示している。・・・・・・・・ただ確かなのは、それが死からの帰還、すなわち続行を表現していることである。迷宮のもっとも単純な最古の諸形態もこれと軌を一にしているが、のみならずそれは無限の続行について語ることができるほどに続行の表現となっているのだ。
この単純な諸形態は螺旋形であるが、――後に見るであろうように――曲折模様として四角形に様式化されることもあるこの螺旋形曲折模様というのは結局のところつねに一本の無限の線なのである。だがここで、ふり返って北方の二つの基本タイプ、すなわち分かれ道のないタイプと分かれ道のあるタイプとを観ることをお許しいただきたい。分かれ道のあるタイプは、吉の目の籤と凶の目の籤とを、それにしたがって右方向の道と左方向の道とを分岐点で識別する、あの死の観念と明らかに関連している。
P.79-80
螺旋模様に飾られたエーゲ海地方の小彫刻と類似のものが日本にあった。すなわち、東アジアの全体性象徴――円のなかで一体となった陰と陽――は巴と称する日本の模様に、あるいはトリポリー陶磁器の堅調なモチーフである一種の二重螺旋たる朝鮮の太極にも見られる。支那にもその痕跡が見出される。同一のモチーフは、ニューギニア、中央アメリカおよび北アメリカでは装飾用に、ときにはまた祭祈用にも使用されているらしい。南アメリカの古代文化の記念物には、単螺旋及び複螺旋がくり返しまことに印象深く登場していて、より深い意味を暗示すべく充分である。
P.83-84
すでに有史以前の時代から存在していた、同じくその象徴像としての性格がまぎれもない記号であるまんじ(スヴアステイカ)の本質も解明してくれる。まんじの分布図はトリポリー陶磁器と螺旋曲折模様の分布圏をともに包括している。そして私たちはすぐに、これまた迷宮-象徴の一ヴァリエーションをあらわしている、と付言しておいてしかるべきであろう。
P.85
円のなかに漂遊している小さな鳥の一群がこの図像にある注目すべき宇宙的ひろがりをあたえている。エーゲ海島文化のさる遺物、キュクラーディア出土の壺では、この四重螺旋記号がしかも原海洋の上に漂っている。それは四匹の魚に囲まれ、中央には太陽をそなえている。無限性が凝縮されて、境界に限定されてはいるが、しかも万象を汲みつくす総体性と化しているのである。
あたかも液体的に発端もなければ終局もないものという無限定性の方向においては波状線になる場合もある螺旋は、ここでは四分された全体、すなわち宇宙(コスモス)の象徴と化する。螺旋のこの四重の形態に見合うものは、一個の四角形をめぐって、大概は中心にミノタウロスを抱えながら、まんじ(スヴアステイカ)の一種を形成している四重の曲折模様である。線はからずしも曲折模様の曲折の間を通わなければならないわけではなくて、風車の羽根状に配列した、相互に咬み合っている角ばった重螺旋の回転の間をくぐってもとへ戻ってくる。
以上の引用をまとめてみれば、そこには螺旋(まんじ)=迷宮=宇宙=生と死=舞踏という構図が浮上してくる。つまり、螺旋模様は宇宙(銀河)そのものの表現であり、その中心へ向かいまた戻ってくる舞踏が、古来世界各地の人類によって行われていた。その背景となる思想はなにかと問えば、それは個人の意識から集合的無意識への遡行、輪廻転生(オルフェウスの冥界巡り)、人類及び宇宙(銀河)誕生の再現を象徴しているものであったと答えるのが、自然ではないだろうか。
2.ヘルメースについて
本論についても、同じく私の感性に触れた箇所を以下に引用する。またポイントとなる部分を太字にした。なお、ギリシャ神話のヘルメースについて簡単な解説をすれば、ローマ神話ではメルクリウス(マーキュリー)と称され、オリンポス神族に敗退したより古い起源を持つギガンテス(巨人)族の一員であったが、ゼウス(ユピテル、ジュピター)に許されて、オリンポス神族のメッセンジャー(伝達使)として参加することになった神だ。
そのため、ヘルメースの足元には素早く移動(飛翔)するための羽根の生えた靴を履き、旅人の姿である帽子をかぶり、アポロ(アポローン、アポロ)からもらい受けた竪琴を持っている。さらに、アルテミス(ディアーナ、ダイアナ)同様の狩猟の神としての弓矢も併せ持つ。また、その敏捷さと狡知さから泥棒の性格を持ち、たびたび神々のものを盗んだりする。女性の神話的起源とみなされるアプロディーテー(ウェヌス、ビーナス)とイメージ的なパートナーである。ギリシャ各地にはヘルメースを崇拝した男根像が多数あり、男性の神話的起源と見なされている。
P.197
ヘルメースはアプロディーテーをその女性相として持っていた。そしておそらくこの女性相こそが、男性的本性が彼のうちに挑発される以前にあっては、支配的な相だったのである。
P.199
原求愛者たるヘルメースは原女性(注:アプロディーテ―)によって呼び出され、乃至は引き出されたのである。原アプロディーテーから分離した原女性自身の男性的半身として、また、ボイベイス―湖の原アルテミスから分離した男根的な神の下僕として。
P.232-234
ヘルメースが言葉の発明者に擬されているのは根拠のないことではなかった。この神の名の由来である、まことに素朴な碑銘の記されていない石碑を指す語ヘルマが純粋に音声的に、<語り>やすべての言葉の上の<いとなみ>の意のラテン語セルモに対応していることは、ギリシャ語そのもののヘルメース的叡智、そのすこぶる機智に富んだ偶然の的中の一端である。ヘルマがギリシャ語で右と同じ意味に使われたことはないが、それはヘルメーネイアすなわち<明らかにすること>の基幹語をなす。ヘルメースはヘルメーネウス、つまり言葉による媒介者であるが、しかもそれは両者の響きの一致という根拠からではない。その本質たるヘルメースは、光明的存在を産みもたらす者、明らかにする者であり、まず誘惑され、その精神において――自分の両親の情事の厚顔無恥な開陳者の精神において――秘密の底の底まで遂行される類のものをも含む、開陳の、明らかにすることの神である。
以上の引用からは、ヘルメースの女性的な部分が強調されているが、それはヘルメースがより根源的なもの(大地母神につながるもの)であることを意味している。また、最後の引用において、ヘルメースと言語とのつながりが述べられているが、これは「言語の発明」というのではなく、「物事の真相を追及する行為」という意味で、言語との関係を強調している。そこには、プロメテウスにも通じる、人類の教化=叡智を授ける神というものを併せ持っていることが伺われる。
また、ここに引用しなかったが、ヘルメースは冥界と現生との間を行き来する者であるため、生と死の導者(メッセンジャー)としての役割も持っていた。そして、そうした冥界とのつながりから、デュオニーソス(パーン、バッカス)との近縁性も指摘されている。また、ヘルメースが男根像として象徴されていることからも、始原的かつ原生命的な存在であるデュオニーソスとの同一性が読み取れる。
なお私は、ヘルメースがメッセンジャーであることと空を飛翔することに、特に注目している。なぜなら、天の使い=天使はラテン語の原義からも「メッセンジャー」そのものであり、天使は空を飛翔するからだ。すなわちヘルメースは、天使の原型とみなせるだろう。そして天使=ヘルメースは、空を飛翔して人と天との仲介を行うのだが、その天にある存在はオリンポス神族やギガンテス神族と称された、「古代の宇宙人」だったのではないだろうか。
またヘルメースは、人類に叡智を授けただけではなく、人類の女性と交わって自らのDNAを古代人類に融合させ、現世人類の礎を作ったのだろう。そのため古代人は、男性の神話的起源というだけでなく、現世人類を作り出した文字通りの男性機能という意味で、各地にヘルメースの男根像を建立したのではないか。もちろん、そうした真の意味は神話の中に埋もれてしまっているため、今では推測するしかないのだが、現代の神話学や心理学そして考古学は、こうした事実を再確認するための材料を日々見つけているので、近い将来にはこうした事実が共有されるようになることを期待したい。
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