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絵本考察『100万回生きたねこ』

わたしの読書体験―
『100 万回生きたねこ』/佐野洋子(講談社)

【あらすじ】
あるところにねこがいて、そのねこは人間の王さまのねこだったり、船のりのねこだったり、おばあさんのねこだったりする。何度も人間に飼われては、人間の不注意や手違いで殺されてしまう(不注意や手違いなので、人間はねこが死んで悲しむ)。

そして何度も生死を繰り返すのだが、あるとき誰にも飼われないのらねこになる。

何度も生きたことを自身の誇りとしているねこは、モテモテの生活を送っていたが、あるとき自分には見むきもしない美しい白ねこに出会う。ねこはその白ねこに惹かれてゆき、その子との間に子ねこが生まれる。

そして月日は流れ、白ねこは死んでしまう。そのとき、ねこは初めて泣いた。100万回泣いた。

その後、 ねこも寿命が尽きて、今度は本当に死んで生き返らなかった、というお話。


【感想・考察】
佐野洋子さんの『100 万回生きたねこ』は、幼い頃、もっとも多く繰り返し読んだ本。

しかし、ではそれだけ感動してどこか好きなポイントがあったのかと聞かれたら、そういうわけではない。

むしろ、主人公のとらねこに対し反感を覚えていたからこそ、なぜこんないけすかないねこがモテるのだろう、なぜこの絵本は有名な本なのだろう......という疑問をもっていたからこそ、その謎を解明すべく何度も開いては閉じてを繰り返していたような気がする。

時を経て大学生になったとき、『100万回生きたねこ』を再び読む機会があった。

そして読んでみて驚いた。これほどまでに、幼い頃と大人になったときで読み方の変化が感じられた体験はほかにない。

では 、『100万回生きたねこ』を再び手に取った 当時 、 何を考えたのかというと、 ひとことで言えば、なぜとらねこは最後に、“100 万回” 泣いたのか、ということだ。

幼い頃は、主人公のねこはすごく傲慢で嫌なやつだと思っていた。
人間も悪気があってねこを死なせてしまったわけではないし、何よりねこが白ねこに惹かれたのは、白ねこ(の見た目)がタイプで、周りと違って自分には見向きもしない存在だったから、その物珍しさポイントが加算されて良いように見えただだけではないか。

白ねこの方も、ほかのねこのように、何度も死んでは生きた、といういわば “権威” のようなものに釣られる感じになるのは嫌だったから、主人公のねこの方には見むきもしなかったのではないか。

要は、主人公のねこが惹かれたのが白ねこである理由と背景が、全て浅はかなものに思えたのだ。

だからねこが最後に大泣きするシーンも、“この白ねこのためだけ、こんなにも大袈裟に泣くのはなんだか不公平だ” と妙に白けた気分で受け止めていた。もしかしたら、自分には白ねこのような特別な存在になれる素質や能力がないと、潜在的 に思っていたからかもしれない。

年を経てもう一度この本を読んだとき、そのときのいけすかないなと思った記憶が蘇ると 同時に、もうひとつ、この絵本に対する新たな印象が生まれた。

それは、主人公のねこが最後に “100万回” 泣いたのは、白ねこに対する想いが大きすぎて、“100万回” という量的な大きさを表す表現を用いたのではなく、それ以前に、ねこが死んだとき人間が泣いていたことを思い出し、彼らが自分を愛していたのではないか、ということに思い至ったからではないだろうか。

あのとき、自分が死んだとき、人間たちが流した涙は、自分が原因だったのではないだろうか。ということは、自分が白ねこを愛するように、人間たちも自分を愛していたのではないかということにも思い至ったのだと思った。

愛情という執着をもった白ねこが死んでしまうという喪失をダイレクトに受け止めたことが重要な契機になり、その大切な存在の喪失から感じられた “寂しさ” を、自分も他者に感じさせていたことに気づいたのだとは考えられないだろうか。

よくこの絵本の主題は、“自分ではなく他者を愛することを知ること” であると言われるが、それだけではない。

他者を愛した経験を経て、自分が愛されていたことに気づく。そしてそのときの心の揺れが、絵として克明に描かれているのだ。

ここにきて初めて、当時はいけすかないと思っていたとらねこに対し、一種の共感のようなものを感じた。

“他人の気持ちはどうやったって分からない” というのはそのとおりだし、他者から愛されているなんて思うのはある意味傲慢なのではないか?という、もし愛されていないことがわかったときの寄る瀬なさへの恐怖から、自分が愛されていることを認めることは案外簡単なことではない。そのような潜在的な臆病さが、このとらねこにも自分にもあるのかもしれないと思った。

『100万回生きたねこ』では、そういった人間の弱さからくる防衛本能のようなものを踏まえつつも、ある存在が他者を愛することをダイレクトに伝えることをもって、そういった理屈を飛び越え、臆病さという心のストッパーを外させる力強さがあると思った。心が痛むことは辛いことだけれど、それだけではないことを教えてくれた。

あの頃、とらねこのことが嫌いだったのは、一種の自己嫌悪的なものだったのかもしれない。年を重ねて得た様々な経験や読書体験を通じて、少しは自分を理解し許せるようになったとはいえないだろうか。

この点で、この本はまさに “自分の心を写す鏡” のようだと、 読書の醍醐味を感じさせてくれるのだが、こういった読み方の変化による自己の変化や成長をここまで深く感じさせてくれるのは、あまたある本のなかでも、“心の鏡”としての余白と明度が絶妙なのだろうと思う。

『100 万回生きたねこ』は、これからも年を重ねるごとに折を見て読み返したいし、そのとき感じる自分の気持ちを大切にしようと思う、ずっとそばに置いておきたい本である。

おわり

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