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書評『どうすれば争いを止められるのか』

成蹊大学にて平和学特別講義Bを受講した学生に書評をお願いしました。書評とともに私の返答を記します。上杉勇司『どうすれば争いを止められるのか 17歳からの紛争解決学』(WAVE出版、2023年)https://amzn.asia/d/73eVJ1l


紛争と正義:暴力と平和の葛藤

 本の要約をすると、まず紛争とは「個人や集団が両立不可能な目標を、武力を使ってまで達成しようとしている状態」を指す。この場合の当事者は個人や組織、または国との対立を指している場合もあるので、戦争よりも広く定義された争いのこと。紛争は、権力闘争によって生み出されるが、発生する過程には必ず人の「意思」が存在する。そして当事者たちが有利な結果を追い求めていくことで紛争は泥沼化してしまう。では、平和のために暴力は不必要なのだろうか。国家は暴力を行使すること、独占することで市民を守っているので暴力は平和の装置にもなる。これと密接しているのが正義だ。正義を掲げ主張を通そうとして人々に危害を与えることが各地で起こっている。この解決には加害者の要求をかなえようとすると市民にとってもメリットになる。世界平和という面で考えると国連・同盟が機能するように思われるが限界がある。自国は自国で守らなければならない。しかし紛争は当事者同士、もしくはそこに仲裁者を交え各地で和解が行われてきた。紛争の当事者は国家だけではなく、個人ともいえる。個人は、自分の価値観にとらわれず相手の主張も聞く事から争いをなくすことができる。
 このように本を解釈し、私がこの本の中で面白いと思ったことは、人道的介入を起こす側の心理についてだ。紛争を止めるために暴力を使うのは、確かに簡単に目的を達成できる。テロリストの拠点を潰せば彼らの活動は滞るし、または本人たちを狙って一人残らず拘束・殺害をしてしまえばテロは収まるだろう。それが難しく、テロが起きている国の人々を無差別で狙えば、そのうちテロどころではなくなるかもしれない。ただ、紛争を鎮めるためとはいえ殺傷騒ぎを起こすのは間違っている。ここで「正義」を使うことで普通は抵抗感がある行動を肯定し、敵を一人の人間たちと認識できなくなる。そうした行動は「人道」的なのか、そもそも武力行使で紛争を解決しようとするのは間違っていないのだろうか。また、正義を振りかざし暴力で収めた紛争は、新たな紛争を生むことになるのではないだろうか。なぜ仲裁者として対話での解決を促さないのだろうか。
 また、私がこの本の中で「ツッコミ」を入れることができると思ったところは、第五章206ページの、土地を「所有」するという考えを捨てて南極のように無主地な状態を作るということだ。南極には住民がいないためその取り決めもうまくいき現在の状態が保たれている。しかし、近代国家の枠組み内で無主地を作ろうとするのは限りなく不可能に近いのではないだろうか。まず、争いが起きている場所で暮らす人々の国籍はどうなるのだろう。もしくは彼らをその場所から追い出すのか。国籍は、自分のアイデンティティの一部だ。それを、その土地に住んでいただけの人が奪われたらきっと大きな喪失感を抱いてしまう。世界中をすべて無主地にするのなら国籍など必要ではないが、喪失感は世界の多くの人が抱くし、一部地域だけではそこに合わせたルールが必要になる。前例がほぼないまま、だれが主体となってルールを決めるのかまず問題が起こるだろう。また、無主地となった土地に不法侵入が起き犯罪やもめ事が起こったら誰が取り締まるのか。領事裁判権は機能、しないし、国際的な問題になる。南極は特殊な装備や準備がないと気軽に行けるところではない。したがってしかし、もともと人が住んでいたような場所だと、行きたいけど一行くのは般人には不可能な、外的抑止力がない。これらのことから、EUの仕組みの一歩上を行く、無主地を作ることによって争いをなくすというのはもはや不可能だと考える。

上杉返答:無主地を新たに作る解決策の現実性は乏しいというご指摘は、妥当なものだと私も思います。同時に、無主地は主人がいないだけであり、生活を営むことを排除しているわけではない。19世紀以降の主権国家という概念を解放し、世界共通の枠組みではなく、その地域に有効な枠組みを構想するという選択肢を盲目的に排除することは適切ではないと思います。

争いと視点:教科書の示唆

 この教科書では、どうすれば争いを止められるのかについて、世界で起こっている紛争の例をはじめ、それ以外に私たちの身の回りでも起こり得る争いなども例に挙げて記されている。この教科書の第6章では、「私たちが争いを避けるために」という主題で、その様々な方法や手段が紹介されている。そのなかで、固定概念である“思い込みを捨てる”という視点が「へぇー」と思った点である。確かに、自分自身の周りで時々起こる争いの例として部活の体験から考えてみると、根拠もない自分が正しいという思い込みが原因で小さな言い争いがあったり、いつもトップに立つ人の意見や行動が一番正しいものであるという錯覚が起こることがあったりする。この第6章では、争いを避ける他の手段として“「正しい」「正しくない」で争わない”という視点も紹介されていて、これも思い込みが原因で争っているのではないかと思う。そもそも思い込みとはなにを指すのか、その人の思っていることが真なのかそうではないのかを判断する基準は、どこにあるのかという疑問が少し出たが、一度置いておき、「正しい」「正しくない」の正義同士での争いは簡単には解決しないだろうと考えられる。そのような状況のなかで、自分の正義が固定概念で思い込みの延長にあるのかもしれないという視点に気づくことは、自分自身ができる争いを避けるための手段であると考える。
 この教科書の第1章では紛争の概要について説明されていて、紛争の始めと終わりや紛争の解決状態について記されている。第2章からは、私たちの日常でも幅広く関わってくる内容になっており、ここでは争いと暴力について記されている。暴力にどのような種類があり、暴力が必要と考えられる場面はあるのかについて説明されている。第3章では、争いにおける「正義」とは何かという主題が設定されている。私たちのなかで正義としてよく登場するキャラクター、アンパンマンは正義なのか。アンパンマンの暴力は正義とされるのか、といった「正義」について考えさせられる内容になっている。第4章では、世界平和の守りかたについての考えが記されている。現在多くの国があり、強い国、核を保有している国、好戦的な国など様々だが、そのなかで世界全体の平和を守るためにどうすればよいか。国連など具体的な組織が名前に出されて記されている。第5章では、どうすれば争いを止められるのかについて記されており、中立な立場の人や仲裁側がするべきこと、持つべき視点について記されている。最後に第6章では、私たちが争いを避けるために必要な考え方や新しい視点について記されている。
 ツッコミとして、上記で記した「へぇー」と思った点と関連づけると、固定概念を取り除き思い込みを捨てるための有効な手段として「旅」があると記されていて、これに関して疑問に思うことがあった。私たちの身の回りで起こる日常的な争いは、少し視野を広く持てば新たな考えや景色が手に入るだろうと思う。しかし、実際の世界で起こっている紛争から考えると、いつ紛争、戦争が始まるかわからない緊迫感があるなかで、「旅」にでて自分自身の考えを見つめ直すという時間や余裕はあるのだろうかと疑問に思い、少し時間の流れがゆっくりしているように感じ取れた。既に緊迫状態になってしまったところでは「旅」に出てみるという手段は気軽さがないように感じてしまう。しかし、そのような状態になる前や、私たち自身の日常生活と重ねて考えると、新たな視点を獲得しつつ息抜き効果もあるように感じられるので、それが「旅」という手段の効果が発揮されるところではないかと考えた。

上杉返答:ご指摘のとおり、戦争が差し迫った緊迫感のある段階で「旅」は現実的な選択肢とはなり得ない。「旅」は暗喩的に用いたもので、日常とは違う境遇に自らを置くことで、固定観念を自覚したり、偏見を認識したりできるということを伝えたかった。戦争に至らないために、定期的に「旅」に出て、自分を見直す機会を作ることは有益だと思います。では、戦争が差し迫った時は、どうすべきなのか。本質的には同じであり、相手の意向や行動を自分の価値観や物差しではならないことが大切だと思います。

争いと平和:考えの道程

私がこのテキストを読んで印象的に思った点は、3つある。1つは、暴力が平和を作ることもありうるという点である。暴力というワードだけ聞けば、人に直接危害を加える、絶対的な悪であるものと捉えがちだが、実際の暴力という言葉は、それだけの意味ではないことを学んだ。暴力は大きく2種類の意味があり、直接的暴力と間接的暴力がある。この2つによって、時には自分たちの平和が守られていることもあるとわかった。
 次に、165頁の最後の段落に書かれていた「どのような国際体制を作れば平和が維持されるのか、私たちはまだ答えを出す道の途中にいる」という言葉に考えさせられた。確かに、この世界は複雑で、現在の国際体制からは完全無欠な平和を構築するのは、ほぼ不可能に等しいとも思われる。そのことを改めて、この言葉を通して実感し、そんな中で私たちにできることとは何か、考え直すきっかけとなった。
  最後に、第6章の「私たちが争いを避けるために」を読んで、争いを無くすことは難しくても、避けるためにできることはあると考えさせられた。確かに現在起きている紛争などを考えると、二者択一の考えや思い込みによる泥沼化が進んでいる事例が多くみられるように考える。これらの紛争を動かす、世界の当事者たちに、争いを止める方法に気づかせ、うまく考え方を誘導することができれば、紛争を解決することができる可能性もあるのではないかと、少し希望を見いだせたように感じた。
 このテキストでは、戦争・紛争それ自体をゼロにし、誰もが平和に幸せに暮らす方法は、私たちが生きる現在の社会からは答えが出せないが、平和を願い、争いの原因となる根本を解決し、紛争の泥沼化を避け、少しでも犠牲を減らす努力をすることはできると書かれていると私は受け取った。上述のように暴力やそれに通ずる権力が私たちの暮らしを守っている場合もあり、さらには国際社会で許される場合の直接的暴力もある。一概に争いそれ自体を無くすことが平和への道となるとも言えないのが現状である。国際平和に対する正しさがわからない中で、自分たちの考える正しさに捉われ、衝突を起こすことほど無意味なことはない。起きた後にあれは正しかったのか、こうしたほうがよかったのではないかと意見するのは簡単だが、未来は誰もわからない中で、争い自体をすべて悪と決めつけるのもまた問題であると考えられる。私たちに今必要なのは、歴史から学び、少しでも被害を無くし、争いを避けられる方法を模索していくことである。
 私は幼いころからメディアなどを通して、戦争は絶対ダメ!争いは無意味であると刷り込まれてきた。しかし、国際政治や平和学を学ぶうちに、争いが必要な場合もある、戦争はなくならない、と矛盾ともいえるような知識を蓄えつつあることに違和感を抱くようになっていた。しかし、簡単に説明しきれないほどにこの世界は難解で、人々が理解しあうのは難しいということに気づき、私はいま、国際政治学という、正しい答えのない学びを行っているのだと気づかされた。これから来る未来に、平和に対する答えが見つかるときが来るのかどうかさえ疑問だが、懸命にもがくことでしか、平和への道に近づくことができないというもどかしさと、そこにあるこの学びの面白さを感じた。

上杉の返答:ご指摘のとおり、理想的な原理原則と冷徹な現実社会にはギャップがあります。そのギャップを前に、思考を停止し、努力を諦めてしまうのは、良くないと私は考えます。ギャップを埋めるために、できることを考え、少しでもギャップが埋まるための努力を絶えず積み重ねていく行為が平和への道なのだと信じています。もどかしさに学びの面白さを見出してくれたことは、本当に授業をした甲斐があったと嬉しく思いました。

正義と介入:紛争の複雑性

 本書の第三章では争いの正義について記述されている。集団の中の先導者は多くの人からの支持を得るために正義を掲げる。具体例として、アンパンマンやヒーローもののアニメには必ず悪と呼ばれる存在がいて、ほとんどが暴力的に悪を抑圧し正義が勝利するというお決まりのストーリーになっている。しかし悪も自分の主張を正当化するために正義を掲げる。例えばアルカイダやイスラム国はさまざまな国でテロリストの勧誘を行っていたが、その中でもテロリストの考える正義に共鳴して自発的にテロリストになった人もいる。それぞれの主張の中で正義が掲げられ、信じる人によってその正義の中身というのは変わるものであるということがわかる。
 正義というのをより具体的な言葉に表すと「合法」という言葉に当てはまる。国際社会で合法とされている暴力は自衛のための暴力と国連の安全保障理事会で決定された軍事制裁における暴力の2つである。しかし安全保障理事会の常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)で1カ国でも拒否権を使い決議案に反対すれば残りの14カ国が賛成しても決議が通らない。もしその決議案の決定を待つ間に多くの命が失われる事態が起こってしまったらどうすれば良いのか。1998年(上杉注:ユーゴ内戦は1991年に勃発、そのうちコソボ紛争は1998年に開始)からバルカン半島にあるユーゴスラビアという国で紛争が起こり、NATOは人道介入として安保理の決定を待たず軍事作戦を行った。これは結果として一般市民の犠牲者を出し、紛争を複雑にした。NATO側の意見はアルバニア系住民の命を保護するための緊急的な対応で道義的には正しいという主張である。
 この一連の問題は、人道介入という理由を使えば他国への武力行使が正当化されてしまう先例を作った。片方の国の主張に同調し、小国同士の問題に大国が人道介入という形で軍事介入を行うことは解決のための正しい暴力の使い方なのだろうか。私は他国の内戦や紛争に第三国が人道的介入をすることは争いをより複雑で長期化させてしまうと考える。本書で例に挙げられたユーゴスラビア紛争でもユーゴスラビアがアルバニア人を一方的に攻撃していたという情報だけを頼りに軍事行動を起こすのは一方の意見に偏ってしまっていると感じる。もちろん事実となる事件も多くあるかも知れないが、紛争時は事件の事実確認も難しく、メディア操作も行われるため信頼性のある情報を得ることは難しいと考える。もしメディアによってその国に有利になるような情報を意図的に世界に発信していたら他国にいる私たちはその情報をどのように受け取るだろうか。一方の意見に同調し、もう片方に攻撃を与えることはその争いを解決する手段などではなく単なる争いへの加担である。
 紛争への人道介入は暴力を使うのではなく、対話の機会を作ることや経済的支援を行うなど間接的な方法を使うことが良いと考える。争いという場において、第三者または第三国の介入は争いへの解決へつながるきっかけを作る可能性もある。どちらも紛争によって国力が枯渇し、お互いに紛争をやめたいと思っているのに今更やめられないというようなサンクコスト効果によるループに陥ってしまっている場合などは人道介入による対話機会の提供などで事態は好転する可能性があるかも知れない。このような仲裁者としての人道的介入が正しいと私は考える。しかしこの紛争解決学には正解がなく、私たち自身の思考プロセスが重要であることが興味深いと感じた。戦争だけではなく身近な対立であっても、争いの当事者たちを和解に繋げるためには私たち自身も仲裁者としての行動を起こしていかなければならない。この本は世界に起こる対立に第三者である自分は無関係であると考えていた固定概念を大きく変えてくれるきっかけになった。

上杉返答:「正義」の概念から論を起こし、人道的介入について理路整然と議論されています。自分の意見も明確に提示され、それについても理由を明示されていて説得力のある文章となっています。段落を3つくらいに区切るとよいと感じました。私たち自身の思考プロセスが重要だという指摘は、私も強く賛同します。本著は、そのような思考プロセスを進めていくうえで、読者の指針や枠組みを提供するつもりで書かれています。

根源と対話:紛争解決の複雑性

 私は「紛争の根本は『権力闘争』であり、それは私たち人間の本能に根ざしている。」という点にへぇーと感じた。生きていく上で身につけたスキルが、時には紛争を巻き起こす要因ともなっており、人間の本能に従った結果、多くの被害が巻き起こされているという視点があるのだとわかった。本書の中でも書かれていたように、宗教や本能がもととなり争いが起きている場合があり、他者の考えを認めることができない、あるいは自分のアイデンティティを失いたくないという理由から紛争は発生しており、人々に根付いてきた感情だからこそ解決することは難しいのだと改めて感じた。自分で自分を守るという人間の本能ともいえるスキルが、人を排除しなければいけないという究極な選択をしてしまうほど精神的に追い込む力があるのではないかと気づき、人間の恐ろしさを感じる点であった。
 本書では、紛争解決のためにはコミュニケーションを取り、相手の思いや考えを探ることの大切さを主張している。なぜなら、紛争の根本は人間の本能に根ざした権力志向が働いているからであると筆者は述べている。人々の欲望によって闘争は起きており、自分の身は自分で守るしかない現状において、自分という存在を失わない手段として紛争は発生している。しかし、こうした欲求に感情をコントロールされ、暴力を使い解決するのではなく、自分の心に集中して感情を落ち着かせ、そして相手の意見にも目を向けていくといった精神的な安定が求められている。こうして対話が生まれ、人々の欲求が満足することで紛争はなくなっていく。以上が概要である。
 私は対話を通じて紛争を解決するという点に関して、ツッコミを入れたい。確かに、相手の話を聞き、理解し合うことも大切であるが、その前に発信する場所がなかったり、テレビをはじめとしたメディアにおいて放送するのに制限がかかったりと伝える場所が確保できていない現状があると感じる。暴力に頼らない道を探したくても、力を使った意思表示でしか表せないために紛争が起きているのだと思う。言葉で伝える場所や環境、機会を与えられない人たちにとって、その状況はとても窮屈で生きづらい場所である。そうした時に、自分の意思を伝える手段がテロや紛争を行なうことであり、暴力による解決しか選ぶことができないのではないだろうか。まずはこうした人たちへの支援が必要になってきていると考える。暴力に頼らない道を探したくてもそれしか手段がない人に向けての発信の場が重要なのではないだろうか。意思疎通ができない状況下は、恐ろしい結果をもたらすことを本書からも理解できた。そうした他者に対して手を差し伸べる第三者の存在が必要である。
 また「異文化」に対する批判は暴力なの?という部分において「ある文化の中で生活している人は、『中』にいることで『悪い習慣』に気づきにくくなっている。」という考えにもツッコミを入れたい。「悪い習慣」として位置付けているのも、外部の人間が決めつけてしまっているのではないかと考える。他者から見た場合には、悪い習慣となっているものにおいても、当人からするとそれが「文化」として成り立っているのではないだろうか。そのため、その文化に対して自文化中心主義は、あらゆる文化に独自の価値を認めることによって自文化を最高とみなすため、自分が思っている基準が普遍的であると考え、他の文化を排除してしまう傾向があるのだと考える。その結果、闘争的な面も生まれるのではないだろうか。内部にいる人が暴力の存在に気づかないのではなく、それが「文化」として成り立っているため問題視していないのだと考える。

上杉返答:意見を表明する機会や場が奪われていることが、紛争が発生してしまう、一つの重要な要因であるという指摘に強く賛同します。だからこそ、国連や仲裁者には、そのような声の拡声器となったり、代弁したりすることが求められるのだと思います。弱者や少数派に異議申し立てをする権利と場を保証することは、紛争予防の重要な取り組みです。また、「文化」に対するご指摘も、そのとおりです。同時に、外部のものが善悪や優劣を決め、それを「世界標準」として押し付けてきたことも事実です。違いに寛容になり、相互に尊重し合う「文化」が平和的だと私は思いますが、それを押し付ければ、「世界標準」派と何ら違いがなくなってしまうというジレンマも自覚しています。

若者のための紛争解決

 本書は、若者たちが紛争を理解し、解決するための手法と考え方を学ぶことを目的とする。サブタイトルとして「17歳からの紛争解決学」とあるように、専門的な用語は除かれ、中学生でも充分理解できるような言葉、表現と漫画形式のイラストを織り交ぜつつ、世界の紛争問題を多面的に解説している。また、著者は世界各地の紛争地で、現地の平和に貢献する活動や研究を行ってきたこともあり、自身の経験を通じて若い世代に向け、紛争の本質や解決策についての洞察を共有している。著者の経験に基づく知識や具体的なアドバイスは、紛争解決に興味を持つ人々にとっては刺激的で示唆に富んだものとなるだろう。
 冒頭で“紛争”とは何か、そして紛争が起きてしまう理由や背景について解説し、続いて“暴力”や“正義”の本質を問い正している。また、国際平和の実現に向けた様々な課題を取り上げ、その上で、争いの予防や解決策を提示し、締めくくられている。本書のタイトルは「どうすれば争いを止められるのか」であるが、著者はこれに対する明確な答えを安易に提示していない。紛争解決学で扱う問題の多くが、はっきりと白黒つけられるものではないため、あくまで読者自身に“正解”を導いてもらいたいという著者の意図である。
 本書の中で興味深かった点としては、報復に関する章で、「対話によってテロはなくなるか」という問いかけにおける著者の経験である。ここでは、著者は自身の経験として、フィリピンの反政府武装組織モロ・イスラム解放戦線のリーダーたちとフィリピン政府との交渉に立ち会った例を挙げ、実際に暴力が必要ない状況を作り上げたとしている。対立する両者が穏やかに話し合ったとのことだが、そもそもこの両者に話し合いの機会を与え、それが実現したこと自体が驚くべき事実であり、どのようなプロセスで両者の話し合いの場を実現できたのか疑問に思った。決して簡単に実現できるものではないが、そのような和平交渉が実現できるのであれば、現在問題となっている様々な紛争や、ロシアとウクライナの戦争も解決の第一歩を踏み出せるのではないだろうか。おそらく著者は、裁判官型の仲裁者としてこの話し合いの場に立ち会い、和平を実現させたのだろう。この和平交渉におけるプロセスを詳しく伺ってみたいと感じる。
 また、最後の章においては、私たち一人ひとりが争いを避けるためにすべきことが述べられており、その中で「勝利ではなく満足を追求する」というのが挙げられた。しかしながら、私はこれが少し理解しづらいと感じた。ジェノサイドをはじめとする一方的な迫害においては、根本的に対等な“争い”ではないため、加害者と被害者との間で和平のような考え方は生まれづらいが、明確なきっかけや、両者の意見が合わないことによって起きてしまう紛争においては、まず互いに自分の意見を通して満足しようと思っても、それが実現できないため紛争になり、結果として相手を打ち負かすこと(勝利)を目指してしまうのではないだろうか。そもそも最初から相手を打ち負かそうとしているのではなく、順番としては、「意見が合わなく、“満足”できないことによって、目的が“勝利”へと変化してしまう」であると思う。著者が言いたいのは、そのように変化してしまった目的を、再度満足することを目指すように切り替えるということだろうか。これについては、実際の出来事や具体例と共に解説されていれば多少理解できたかもしれない。

上杉返答:指摘されてハッとしました。そもそも満足できていないのが紛争の原因。だから力づくで、解決しようと争いになる。つまり、原点回帰が、紛争解決学が説くことなのかと気がつきました。リバースの手法が紛争解決の手法だといえるでしょう。

紛争解決アプローチ

 私は、当書の第5章にある複雑な紛争を解決するためのヒントの一部として書かれた、「民族の違いや信仰の違いを争点としないこと。」という一文が新鮮であると感じたともに納得させられた。私はこれまでそのような争いの事例を考えるにあたって、両者の大きな違いである民族や宗教などばかりに注目してしまっていたように思う。それは、違いが明確で捉えやすかったからかもしれないし、実際学校のテストにおいては覚えておかなければいけない知識でもあった。また、私には当書にあるような、何かを争点から除外するという考え方が今まで欠如していた。私は未解決の紛争について、それぞれ自分の主張を貫き通すのでは解決は困難であり、両者が折り合いをつけ、妥協点を見つけるべきだ、という「共に譲歩すべき」という考え方が強くあった。そのため、逆に両者が譲ることのできない大切なものの存在を見落としてしまっていた。その結果、どうしたらこの紛争が収まるか、といった問いを考えた時に民族や宗教などの違いを軸に考えようとし、まとまった意見に近づくことすらできなかった。上記の文はその点で新たに自分の考えを支えてくれる重要な要素になると感じた。
 当書は、世界に起こる争いの共通点や解決策を解説し、争いを止める方法を考えている。第1章では、紛争解決学が定義する「紛争」を軸に、紛争が起こる原因や紛争を単純化して考える方法などを解説した上で、紛争の解決が不可能ではないということを述べている。続く第2章、第3章では、「暴力」に焦点を当てて「直接的暴力」と「間接的な暴力」に分け、暴力が必ずしも悪ではないことを説明するとともに、それと近い関係にある「正義」についてさまざまな集団や個人が掲げるそれらの不同性の問題について解説している。第4章、第5章、第6章では、平和を維持するために最適な国際体制の在り方の答えはまだ出せないとした上で、紛争を解決するヒントとして、「信仰や民族の違いなど『当事者同士が譲れない問題』を争点から外す」、「宗教や民族の問題とは別次元の『具体的な争点』で折り合いをつける」、「対立する勢力を緩やかに包むような『大きな枠組み』をつくる」ことを提示している。また、争いを避けるために我々ができることとして、「『正しい』『正しくない』で争わない」、「勝利ではなく満足を追求する」、「思い込みを捨てる」、「AかBかの二者択一で考えない」、「自分の心の動きを観察する」、「相手の主張に耳を傾ける」ことを挙げている。
 当書を読み、私は第1章で説明されていた「サンクコスト効果」に関する部分にある、「この思考には〜考慮されていません。」という一文に違和感を覚えた。確かにクレーンゲームという事例において、今までに使った金に意識が向いて「もったいないから」と思いながら続けてしまうことは自分の経験としてもよくあった。しかしその間、続けたことによる「新たな出費」が考慮されていないとは私は思えない。少なくとも私は先の事例においては、「もったいない」という感情とともに「その景品が欲しい」という感情を持って金を使っている。その感情は「新たな出費」がうまれることを認めた上での欲である。それゆえ私が紛争を「サンクコスト効果」に沿って考えるのならば、劣勢に立たされた側が今までの犠牲を考えて引くに引けない状況になってしまった場合にも争いを続けるのは、「新たな出費」を無視しているのではなく、それを費やす覚悟の上での決断なのではないかと思う。したがって私は、『新たな出費』が考慮されていないと言い切ることは出来ないのではないかと考える。

上杉返答:とても重要な指摘をありがとうございます。新たな出費を考慮してもなお、戦い続けて「勝たなくては」と強く思う「欲」が作用している。この指摘は、紛争解決には、もったいないという感情への対処に加えて、根深い欲(尊厳を守るなど)への対応も欠かせないことを示唆しているといえます。

紛争解決:その可能性と挑戦

 私は世界から争いがなくなることはありえないと考えている。なぜなら、たとえば核兵器を持っている国はたくさんあるが、国連か何かの方針で、武力による争いを一切無くしたいので一斉に核兵器を捨ててくださいと言って、素直に従う国がどれだけあるだろうか。もし自分以外の国は捨てていなかったらと考えたら一番に核を手放すことはできず、周りの様子を伺うだろう。そしてもし周りがみんな捨てたとしても、自分も捨てるか、いや自分だけが持っている今の状況ならどの国よりも強いのではないか?となって武力で他国を鎮圧するかもしれないし、核を脅しに使って征服するかもしれない。他の国は核を捨ててしまっているわけだから言葉でしか抵抗できない。そうなると他の国もやはり核がないとダメだとなって核兵器社会に逆戻りしてしまうように思えたからだ。そしてその争いの根元にあるのは人間の本能的なものであるから、だから解決は不可能だろうと思った。しかし本書を読んで、人間の本能に人間の理性で抗うように、正しいか正しくないかや勝ち負けではなく、何のために戦うのかを明確にして、人々の思考に平和的解決のプロセスを埋め込んでいけば、もしかすると紛争解決に一歩ずつ近づいていけるのではないかと思うことができた。これには私たちはもちろんだが、実際に紛争をしている国の、これからその国を背負っていく世代へのこういった教育が必要だなと思った。
 本書は紛争を「個人や集団が、同時に両立不可能なものをそれぞれ得ようとし、かつ目的実現のためには実力の行使も厭わず、自らが一方的に目標を達成しようとしている状態」と定義したうえで、なぜ紛争が起きてしまうのかその原因を突き止め、どうすれば紛争の解決につながるのかを様々な例を挙げながら段階を追って考えていくものになっている。本書の結論としては、これまで解決された複雑な争い、土地をめぐる争いなどを例に挙げ、信仰や民族の違いなど「当事者同士が譲れない問題」を論点から外す、宗教や民族の問題とは別次元の「具体的な争点」で折り合いをつける、対立する勢力を緩やかに包むような「大きな枠組み」をつくる、裁判所による解決、当事者間の話し合いによる解決など、具体的な解決に向けた考え方や方法を示している。また争っている人たちに「争っていても意味がない」と気づかせること、相手を敵ではなく協力者と思わせること、別の問題に目を向けさせることなど、当事者たちの気持ちへの働きかけについても述べられている。さらに紛争の解決までもなく、未然に防ぐためにはどうしたら良いのかについても、正しいか正しくないかや勝ち負けで争わないこと、思い込みを捨てること、二者択一で考えないこと、相手の主張に耳を傾けることなど、生きていく上で重要となる考えが紛争解決にも大切になってくることを学ぶことができる。
 本書は17歳からの紛争解決学という副題があるように、わかりやすい例えや実例を交えながら、まずはこの学問に触れて、どうすれば争いを止められるのか一緒に考えてみようというスタンスで書かれていると思う。挙げられている解決策はどれも大枠のみで、実際にどのように行動に移すべきかの詳しい説明などはないが、この本の趣旨であれば十分に満足できる内容だと思った。その中であえて絞り出すとすれば、紛争解決の成功例だけでなく失敗例もそれぞれの項に載せても良かったのではないかと思った。ほとんど似たような状況にもかかわらず解決に至らなかった例があったとすれば、比較してどこに違いがあったのかを考えることができるからだ。載っている事例が全てではないことはもちろん読者側も理解しているので、ではうまくいかなかった場合はどうだろうと気になったら自分で調べたり、さらに専門的な書物に進めば良いだけなのでツッコミどころとはいかないが、あえて挙げるとすれば私はこの点について挙げたい。

上杉返答:ご指摘のとおり、私たちの思考に平和の楔を打ち込んでいく。これが紛争解決学の社会的な役割。冷徹な現実を前に諦めるのではなく、少しでも平和に近づくように歩みを止めない。これが大切なのだと思います。成功例と失敗例を比較する視点を提供すべきという指摘にも賛同します。比較検討することで理解が深まります。初学者を相手に書かれた本であれば、次のステップに進むための参考書などをもっと盛り込むべきでした。

争いの背後にある理由と解決の可能性

 この『どうすれば争いは止められるか』という著書は、ルワンダ内戦や台湾問題、アフガニスタンの対テロ戦争といった過去にあった紛争や国際問題の事例をなぜ起きてしまったのかという背景や国際連合の安全保障理事会、集団安全保障といった国際的な観点、また宗教や民族など多角的視点から解説をしている。この著書のサブタイトルは、17歳からの紛争解決学となっており、若者にも理解しやすいようにアンパンマンの話やクレーンゲームの例などの身近な具体例に関連しつつ解説しており、大人から子供まで納得しながら読み進めていくことができる著書となっている。私自身この『どうすれば争いを止められるか』を読み、国際社会の問題という非常に難儀な内容ではあったが、日常的な具体例やイラストが数多く記述されておりとても理解しやすいと感じた。特に私がこの著書を読んでいて納得した話が、ABC三角形を用いた単純化の部分である。ABC三角形とはノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提唱した複雑化した争いを単純化する方法である。このABC三角形を簡単に説明すると、争いを態度、行為、背景の三つの視点でわかりやすく分析する定規みたいなものである。この三つの点にそれぞれ起こった内容を当てはめていくと簡略化されるというものだ。著書では、このABC三角形を用い、沖縄の米軍基地問題である普天間飛行場の辺野古への移設の件を解説していた。沖縄県民の日本政府に対する態度、日本政府による行為、そして日本政府と米軍における移設に至る背景の三点に分けることで、この沖縄の米軍基地問題の概要が明白になった。著者も記述しているように、この三角形だけでは複雑で難解な沖縄の米軍基地を全体ではなく、あくまでも一部でしか理解することはできないが、この米軍基地問題に詳しく把握していない私は、なぜ辺野古への移設が問題視されているのか、どのように問題は進んでいるのかをイラストや具体例の助けもあり、簡単に理解することが出来た。実際、ABC三角形は前述したように万能ではない。ABC三角形を用いただけでは国際問題をどうこうすることはできないが、このABC三角形を通して争いについて理解することは問題解決する手口、手助けになるのではないだろうか。
 著書を読んでいて疑問に思った点は、第5章の「争っている人たちの心をどう変えるの」での人々の心を変える方法である。ここでは「『争っていても意味ないよね』と気づかせる」、「敵ではなく『協力者』だと思わせる」、「別の問題に目を向けさせる」の三点が挙げられていた。この三点の具体例として挙げられていた映画『インデペンデンス・デイ』は、争っていた国々が宇宙人の侵略によりまとまるという内容であった。確かにインドネシアのスマトラ島西端にあるアチェの独立を求めての30年以上続けられていた内戦が、2004年のスマトラ沖地震による津波の影響が契機となり和解した事例もある。このように争いも、敵でも味方でもない第三者による介入、特に争っている同士の敵や脅威になりうるものの介入により、別の問題の発生により争っている場合ではないという意見になるであろう。しかしそのためには、『インデペンデンス・デイ』やアチェ紛争のように宇宙人や津波といった自然発生的脅威の介入が必須となってくる。このような脅威はいつ発生するか不明であるし、争いが起きている地域を狙って発生することもありえない。人工的に争っている地域の第三者の脅威として他の大国が押し寄せるということも、新たな国際問題を引き起こしかねないため不可能である。ということは争っている人々の心を変えることは不可能ではないかと私は疑問に感じた。

上杉返答:確かに、自然災害や宇宙人の侵略を待っているだけでは、神頼みと変わりはない。当時に、人間の心理は変わるのだという明白な事実を突きつけることにもなる。だとすれば、神頼みは非現実的だと一蹴するのではなく、人間の心理を変える方法を、想像力を働かせて考え出すことが大切なのだと思います。歴史に学び、人間の行動が変容する理由を集めていけば、人為的に人の心を動かすことはできるのではないでしょうか。

対立の理論と実践

 上杉勇司氏の「どうすれば争いを止められるか」は、様々な紛争や対立を平和的に解決する方法を提案する書籍です。
 本書では、上杉氏が長年の経験から導き出した、コンフリクト・マネジメントの理論とプラクティスに基づき、人々が対話を通じて解決策を見つけられるよう手法を提供しています。その中でも、重要な要素として、感情的な反応をコントロールする技術を身につけることを強調しています。
 本書の特徴は、具体的なケーススタディやエクササイズであると言えます。それによって、読者は実際に問題解決に取り組むことができ、自分自身が紛争の当事者になった場合に、この手法を実際に活用できるようになります。著者は、対立を解決するための技術的なアプローチを提案しているため、実践的な観点から非常に役立つ書籍と言えます。
 また、本書では、対立解決に際して、感情的な側面をトリガーする行動と、感情的な反応を制御するための行動を、明確に区別している点に注目すべきです。対立状況になっても、双方の当事者が感情を抑制し、理性に立ち返り問題の本質を考えることが、より建設的な解決へと向かう鍵であると提示しています。
 本書では、感情的な反応を抑制することが、対立解決の鍵であると強調されています。感情的になることで、対立がエスカレートし、問題が複雑化することが多いため、感情管理の重要性を理解し、トリガーとなる行動を把握することが重要だということが分かりました。また、著者は、紛争や対立を解決するために、対話を重視し、コミュニケーションの改善を提案しています。具体的には、相手の話を注意深く聞くことや問題の本質を探るための質問が紹介されており、興味深く感じました。さらに、本書は、具体的なケーススタディやエクササイズを通じて、対立解決のための実践的な手法を提供しています。実際に問題解決に取り組むことで、自分自身が紛争の当事者になった場合でも、この手法を活用できるようになるというメリットがあると言うことがわかりました。
 しかし、本書では、対立解決に関する一般的な手法を紹介していますが、より複雑な紛争状況や人間関係に対しては十分に対応していないように感じます。特に、個別の事例に応じて対応策を立てるための詳細な分析方法については不十分と感じられます。また、コンフリクト・マネジメントに関する理論や研究に基づいていますが、より深い理論的要素の欠如が指摘されます。このため、対立解決に関する理論的な理解を深める読者には、より詳細な説明が必要かもしれません。
 そして、本書で提案されている手法は、実践的に適用するには一定のスキルと訓練が必要です。しかし、これらの技術がもたらす困難については、著者が十分に述べていないと感じる読者もいるのではと感じました。
 つまり、「どうすれば争いを止められるか」は、実践的な手法を提供し、大まかな枠組みを示している点で興味深いものです。しかし、より複雑な紛争状況に対応するための詳細な分析方法や、理論的な深み、技術を適用する際の困難を解決するための指針が必要であると指摘できます。
 総合的に見ると、「どうすれば争いを止められるか」は、対立解決に役立つ技術の提供やエクササイズを通じて、有益な情報を提供している実践的な書籍と言えます。

上杉返答:ご指摘にあった本書の不備については、妥当な批判だと思います。紛争解決は、頭で分かっていても実践できなければ、宝の持ち腐れになってしまうからです。そういう意味では、スキルを磨く訓練が不可欠なことは明白です。また、一般理論は大枠を提示しているものの、紛争には個別具体的な特徴があることも事実です。より詳細な分析が求められることも、ご指摘のとおりです。入門書として位置づけられる本書の次のステップについて、もう少し丁寧に読者に指南しておくべきだったと思います。

紛争の根源と解決

 本書は、私たちの生きる国際社会で起こる「紛争」がなぜ起きてしまうのか、どうすれば争いを止めることができるのか、という問いについて考えている。
 紛争の根本的な原因として民族、宗教などがよく挙げられるが、著者はそれらを紛争に利用される手段として捉えている。民族の強い結束力や宗教の信仰心は紛争の勝利のために度々利用されているのだ。さらに「生き残りの本能」から生まれる権力闘争も紛争の原因の1つである。本能を抑え込むことは難しいと考えられるが、それには必ずしも暴力が必要な訳ではなく、暴力に頼らない努力をすることが紛争解決に繋がる。宗教・民族紛争など複雑な争いを解決するに当たって、当事者間で注視すべきポイントは3つある。1つ目は信仰や民族の違いなど「当事者同士が譲れない問題」を焦点から外すこと。2つ目は宗教や民族の問題とは別次元の「具体的な争点」で折り合いをつけること。3つ目は対立する勢力を緩やかに包み込むような「大きな枠組み」を作ることである。また、紛争解決において重要なのは当事者が「勝利」ではなく「満足」を求めるように目標設定を変えることであり、それは当事者に状況判断を見直すように促す存在である「仲裁者」という役割が時に必要である。
 本書で疑問に感じたことは2つある。1つ目は、第1章にて民族、宗教、思想の違いが紛争に利用される手段として考えられている点だ。人が共同体として結束力を持つことが争いの火種となり、さらには利用されるという視点は重要な論点である。なぜなら第三者がこれらをひとまとまりひとりに「紛争の手段」と決めることに疑問を感じた為である。手段として利用している立場の人間は誰なのか、クルド人問題のような民族の自治と尊厳を求める争いにおいて、それは要因ではなく手段といえるのだろうか。
 2つ目は、第5章にて土地をめぐる争いの解決策の1つとして「所有という考え方を捨てる」という策が挙げられていた点だ。「国境」という概念がある現在の国際社会で土地の所有という考えを捨てることは、非常に複雑かつ危険をはらんでいると考えられる。なぜなら、土地の所有という概念がなくてもその領域で生活する人間は存在する為、原住民を追い出したり、他人から土地を奪ったりして自分たちの領域を拡げるような人が現れてもおかしくないからである。
 本書で興味深かったのは、第2章にて国家権力によって秩序を維持し、「すべての人が敵」という社会を終わらせたという説明だ。
 軍拡競争などの安全保障のジレンマの解決策を考えたとき、国家そのものを無力化し、無政府社会を実現すれば、国単位の争いは避けることができるのではないかと考えたことがある。しかし、そもそも国家がない国は国際社会で常に平和が脅かされ、国内の秩序もままならず住民たちは最低限のルールの中で、独立して暮らさなければならない。そのためこの考え方は現実的ではなく、本書で指摘されていた通り国家権力を作ることが国内の平和を構築する根底として必要である。しかしこれを現在の国際社会に置き換えて考えてみると、国際社会は各国を統制する権力がない無政府状態であるといえるのではないだろうか。大国の暴走を制御することのできる権力がないため世界情勢は常に不安定である。世界平和の維持を促す世界の中心的組織である国連も、中枢である常任理事国が起こす戦争は止めることができないことや、総会に法的拘束力がないこと、常任理事国の権力が大きすぎることなど様々な問題がある。そのため、この問題は国際社会に生きる私達が今後も考えていかなければならない課題である。

上杉返答:長年の紛争や抑圧で民族自決は紛争の根本要因と転化することは、もちろんあります。尊厳を求める戦いも、根源的なニーズに根ざしています。そのような土壌があったうえで、煽動者によって革命や抵抗運動が組織化されていくのも実態の一面だといえます。

紛争と平和の探求

 紛争の定義①当事者→個人もしくは集団②目的が相手と同時に実現できない(両立不可能)③実力行使が行われるである。また、権力の暴走を防ぐ3つのポイントは①権力の分散(司法、立法、行政の三権分立はこれに基づく)、②選挙によって政権交代ができる仕組み、③野党や、マスコミ、市民団体が国家の誤りを批判し続けることであると示した。三章ではアンパンマンの暴力は悪事を働くバイキンマンへの正義の鉄槌であり、暴力を正当化するための正義が存在するから許容される。しかし、悪もまた正義を主張して悪事を正当化しようとする。世界で暴力を正当化できる暴力は、自衛、もしくは安全保障理事会で軍事制裁が認められた場合の2つ。信仰心をリーダーの大義として利用させないためには、彼らの目論見を見抜くことが必要。ルールを守らない国は他国の集団的圧力で罰せられることになっているが、この制裁にもそれぞれの国同士の内情があり100パーセント保証するには限界がある。そのため、自分の身は自分で守ることが必要だが、自衛を強化すれば安全が強化されるかというとそうではなく、互いの軍事力強化により、より脅威が増すなど、いたちごっこになることも少なくない。二つの集団の睨み合いでは平和は達成されない上、圧倒的な強者がいる場合にものし上がろうとするものたちとの争いは避けられない。最後に争いを避ける方法として、「正しい、正しくないで争わない」、「勝利ではなく、満足を追求すること」、「思い込みを捨てること」、「AかBかの二者一択で考えない」、「自分の心の動きを観察する」ことが重要であるとまとめた。
 暴力がなくなれば平和なのかという問いに対して、暴力がなくなったからといって平和になることはなく、私たちは他国からの暴力に正当防衛という暴力で反撃することができるという権利に守られており、警察が機能しない場所ではマフィアから自身を守るため、アメリカでは権力の暴走から自身を守るためなど必要な暴力も存在するということに納得した。また、宗教が関わる紛争は互いに人間の信仰心によって方向づけられるため、強い主義、主張同士がぶつかり、血みどろの戦いに発展してしまう。民族、宗教、思想の違いのよって対立するのではなく、紛争に利用される手段となるという部分に関して、争いに掻き立てられる人々の気持ちを考えると異なる民族、宗教、思想を憎み、争いになるということもよくわかるが、人々を操る立場の者にとってはそれらの結びつきの強さを利用することは容易であると感じ、ナチスのホロコーストなど、為政者の言葉に惑わされ大虐殺が起こってしまうことは防がなければならないと感じる。
 宗教観、思想は、個人のアイデンテティを構築する大切なものであるから、それを刺激するということは、大きな争いを起こすには十分である。つまり、為政者が、意図しない以上に大きな争いに発展していくことは容易に考えられる。特定の強力な宗教を持たない日本人にとっては、やや理解し難いことでもあるが、宗教が個人のアイデンティティの根幹を作っている人たちにとっては、その宗教(宗教観)を否定されるということは、その個人、人種など自分の所属するものを根本から否定されることでもある。つまり、根本的な自己を否定と、そこに生まれる怒りは否定した相手を攻撃する十分な理由である。為政者が意図した以上に、それらの怒りが大きくなり、争いも多くなる。そして、それぞれが持つ価値観の違いをすり寄せることはとても難しいことでもあるため、その争いの終着点を見出すのはとても難しいことでもある。正しい答えばかりが正義ではないこと、良い意味で、「自分は自分、他人は他人」であることを理解し合うことを常に意識しなければならないのではないかと思う。

上杉返答:対象書籍の概要はわかりやすく簡潔にまとめてありました。書評で主張したかったこととは、自分と他者との適度な距離感が平和には大切という結論でしょうか。今回は、批判点がなかったので、次回は批判的思考を加えてください。

争いと平和の探求

 「どうすれば争いを止められるのか」は、洞察に満ちた書籍であり、現代社会における争いと紛争解決の問題について深く考察していると感じた。
 この書籍は上杉先生(以下、著者)の経験や専門知識を基に、争いを理解し解決するための手法やアプローチを提案している。著者は、政治学や国際関係の分野で長年にわたり研究を重ねてきた専門家であり、その専門知識を駆使しながら我々読者に対して争いを止めるための視点を提供している。
 本書では、争いがなぜ起こるのか、そしてそれがどのようにエスカレートするのかについての分析が行われていた。また、異なる国や文化間の争いや対立の背後にある要因を明らかにし、解決策を見つけ出すための枠組みを提示していると感じた。
 著者の主張は、争いを解決するためには対話と協力が不可欠であるという点にあると考えた。争いの根本的な原因を理解し相手の立場を尊重することで、解決策を見つけ出すことができると主張していた。この視点は単なる対立や攻撃による争いではなく、より建設的な方法で問題に取り組むことを奨励していると思った。さらに、争いを解決するための具体的な手法やツールも挙げていた。調停や仲介のプロセス、さらには国際組織や外交の役割についても詳細に言及しており、我々読者に実践的なアイデアを示していた。
 私は、この本の納得できる点は3つあると感じた。
 1つ目は、対話と協力の重要性だ。本書では争いを解決するためには対話と協力が不可欠であると強調されている。争いを当事者間で話し合い、相手の立場を尊重することで解決策を見つけ出すことができるという主張は、理にかなっていると思う。対話と協力は、相互理解や共感を促進し、持続可能な解決策を生み出すための基盤となるからだ。
 2つ目は、解決策の枠組みの提供だ。本書では争いの解決に向けた具体的な枠組みや手法についても言及されている。具体的には、調停や仲介のプロセス、国際組織や外交の役割に関するアイデアが提案されていた。
 3つ目は、問題の本質への洞察だ。 著者は、争いの根本的な要因や背後にある要素についても洞察的な分析を行っていた。これにより、我々読者は争いの本質や深層に迫り、表面的な対立だけでなく、潜在的な問題を理解することができると感じた。
 これらの納得できる点は、本書が争いと紛争解決について価値あるプロセスを挙げていることを表していると思う。これはそれぞれの読者のバックグラウンドや関心によっても異なるかもしれないが、著者の主張や提案は争いの解決に向けた視点やアプローチを探求する上で有益な情報源となると感じた。
 逆に私が本書を読んで納得できなかった点が1つある。
 それは、文化や地域の特異性を考慮していないと思えた点だ。本書では、争いの解決について一般的な原則やアプローチが示されていたが、文化や地域の特異性を考慮していないのではないかと感じた。異なる文化や地域においては、争いの解決における価値観や方法論が異なる場合があり、それらを無視してしまうと実際の解決策が見つけにくくなる可能性がありそうだと思った。
 「どうすれば争いを止められるのか」は、争いと紛争解決に関心のある私にとって非常に興味深い一冊だった。著者の洞察力と専門知識に裏打ちされた内容は、現代社会の複雑な問題に向き合うための貴重な情報源となると感じた。本書を読むことで、争いの本質を理解し、より平和な社会を築くための具体的な手段を見つけることができると思う。

上杉返答:紛争解決学でも、紛争が発生した地域の特性(文化、政治、宗教、歴史など)を踏まえて、ローカライズした対応が求められています。同時に、同じ人間が争っているという視点からは共通点も多く見出せます。両方のバランスが必要なのだと思います。

思考の軌跡:紛争解決への道

 本書では「17歳からの紛争解決学」をテーマに、まさに平和学にこれから足を踏み入れ、基礎的な思考を身につけるという人におすすめしたい本である。入門本として扱うに勧めたいが、同時に深堀して自ら考える事で、応用としても読むことができる本なのではないかと思う。
 第1章では、紛争解決学について、基礎的な知識をおさらいする。第2章、第3章では、争いや暴力の定義など、紛争解決学に足を踏み入れるにあたって必要な考え方を、17歳でもわかるように、という本書のテーマ通り、簡潔かつ明瞭に示されている。第4章、第5章では、その内容をさらに深堀して、読者と足並みを合わせた易しい説明ながら、自ら考える力を身につけられる「どうすれば」の観点が章の根本となっている。第6章では、これまでの全章で描かれてきた争いについての知識をおさらいしつつ、広い世界の至るところで起きている紛争や争いに対し、私たちが出来ること、考えられることとは何か、を示している。ここには、日常生活で人との関わりを持つ上でも重要な六つの事項が示されている。一つ抜粋すると、「AかBかの二者択一で考えない」という事項について、個人的には特に重要なのではないかと考えた。既存の方法があれば人は簡単な解決を求め、そこに流れついていき、争いへと発展してしまいがちだが、新たな選択肢をいついかなるときでも導き出せる可能性があることを頭の片隅に置いておかなければならない。また本書のテーマになぞって考えても声を大にして伝えたいポイントであると、私は思う。重要な思考をつかさどる脳は年齢を重ねるにつれて、柔軟性を失い、かたくなっていってしまう。
 そうして私たちはより世間一般的な方法に囚われてしまいがちになるが、17歳という子供とも、大人とも言い切れない年齢時期に「非ゼロサム的解決策を目指す」という思考を交えつつ、考察力を身につけるにはとても適している事項であると感じた。
 また個人的に興味深かった話としては、第2章「争いは暴力で解決できるのか」の中に挿入されている、"国が「国民の望まない暴力」を使ったら?"の部分だ。アメリカが法治国家であるにもかかわらず、アメリカ人は個人的に銃を保有しており、各々の家に常備してあるのが当然のこととなっている。この事実に対して、文化としてそういうものなのだと思っており、深く考えを巡らせた事はなかった。しかし、本書を読み進めるにあたりツッコミどころを探し、自分なりに調べながら理解に落とし込むという事を行っていたため、この当然と思っていた事実も一つのツッコミどころであったと気付かされた。同時に、日常に潜む「当たり前」にもっと目を向ける必要があるのだということに気付かされたともいえる。またこの話題に関して、アメリカ人が銃を持っている理由はジョン・ロックの唱えた革命権の影響を受けているという点においても驚かされた。
 当たり前に疑いの目を向ける事、そしてある一つの事実を単にそういうものとして見るのではなく、どうしてそうなっているのか、はたしてそれはそのままでいいのか、それが誰かにとっても問題であるのなら、そうなっている原因を解決する方法はあるのだろうか。このように思考を巡らせることで現状はいつでもより良くなる。
 紛争のみにとどまらず、人との関わりにおいて、そして人として、大切な事を教えてくれた一冊であった。

上杉返答:普段は疑問視せずに流してしまう景色。そこで立ち止まり思考を巡らすことのメリットを体感されたことがよく伝わる文章です。また、紛争は人間関係の一部であり、紛争について学ぶことは、人間について学ぶことにもなるという指摘は、私も共感します。そして、批判的に本を読むことは、普段は流してしまっている事象を再検討する機会を提供してくれます。

平和と紛争:理解と展望

 私は第4章「世界の平和はどうすれば守られるのか」の中で、国際社会には政府や憲法にあたるものがなく警察のような取り締まる組織がないことを初めて知りました。それが今日問題となっているロシアによるウクライナ侵攻を助長しているのではないかと考えています。ロシアは国際連盟の中の安全保障理事会の常任理事国に位置しておりウクライナとは国際的な意味合いで格差が生じています。常任理事国は「拒否権」を持っており、実質ロシア・中国対フランス・イギリス・アメリカという構図になっているため国際的な均一化が図れないのではないかとか思いました。この国同士の格差によって常任理事国はさらに経済大国になり防衛費や戦闘費にも金を注ぐことができるのではないか、それにより国際社会で認められている自衛権を行使してもこの格差が無くならない限り紛争は終わらないのではないかと感じています。
 この本は6章構成で組み立てられており紛争とはから始まりなぜ暴力なのか、なぜ争いに正義は必要なのか、戦争を止めるために世界ができることは、争いはどうやって止められるのか、争いを避けるためにはどうすれば良いのかが書かれています。
 まず1章の『紛争解決学のトビラをひらく』について戦争は国家間の対立によって行われる武力を用いた戦闘行為のこと、紛争は二者同士、宗教や民族間などを理由に行われる戦争よりも規模が小さい戦闘行為のことという定義が書かれている。
 2章の『争いは暴力で解決できるのか』で初めに様々な暴力が描かれています。社会的に必要な暴力は正当防衛であり暴力によってわたしたちは守られていると言えます。
 3章の『争いの「正義」とは何か』は紛争の両者に正義があると捉え悪にも正義は存在しているとしています。ここでも国際社会で認められている暴力は自衛に加えて「人道的介入」が紹介されています。人道的介入はNATOなど第三者機関が同盟を結ぶ国が攻撃された際に行われる武力行使のことを指します。このようにNATOや同盟を結んだ大国が「正義」を勝手に作ってしまうことがあります。またキリスト教、ユダヤ教などの宗教もまた正義を生み出す一つだとしています。
 4章の『世界の平和はどうすれば守られるのか』では国際社会に警察の役割を持つ機関が存在しないことが書かれています。そのため同盟を結ぶことで集団的自衛権の意味を強めることが必要だとしています。
 5章の『どうすれば争いを止められるのか』では様々な紛争の解決策が描かれています。力による解決、裁判所による解決、当事者間の話し合いによる解決、紛争当事者以外(力を上回る国・近い立場の国)の力を使って解決の手助けをしてもらうなどが挙げられています。
 6章の『私たちが争いを避けるために』では成否で争わない、勝利ではなく満足を追求する、思い込みを捨てる、AかBかの2者一択で考えない、自分の心の動きを観察する、相手の主張に耳を傾けるが書かれています。
 ツッコミどころでして最後の6章について、争いを避けるために様々な方法が書かれていますがこれはどちらかの国がこれを徹底したところで相手国もこれをしないと争いは無くならないのではないでしょうか。こちら側が和平を呼びかけて、勝利を求めなくても相手国側からしたらつけ込むチャンスになってしまうのではないでしょうか。2国間同士の均一が図れないことから戦争・紛争が起こるのであって6章で書かれている内容は非現実的だと感じました。

上杉返答:双方が和平を同時に求めるというのが、前提条件になります。それを促すのに第三者の役割に注目したのが紛争解決学の特徴だといえます。前提条件と第三者の協力がなければ、紛争解決は非現実的なままにとどまってしまうでしょう。

友人型仲裁と共有の課題

 私が「ヘェ〜」と感じた点は、仲裁者にも三つのタイプが存在し、その中でも解決力が高いのが友人型の仲裁者だという点である。私は政治の場における仲裁者は裁判官型が良いものだと考えていた。友人型のような仲裁者では結論が出たとしても味方のいない方が損をしたように感じてしまい、双方ないし片方にしこりができてしまうと推論していたためである。しかしどちらとも関係のないような第三者はそもそも仲裁が成功してもしなくても構わないという意見は盲点であった。また、友人型は少なくとも片方と深い仲にあるため、利害関係をより親身に考えることができるという意見には納得した。ただ、私はそれでもどちらか一方に肩入れし争いの種となるような解決は望ましくないと考えていた。そのため、友人型の欠点である一方に深入りしてしまう、また相手方にそのような不満が残るということを解決するにあたって仲裁パネル方式を採用してバランスを取るということは目から鱗であった。
 続いて概要について述べる。この本は紛争解決学の観点から、紛争の抑止と解決、また暴力や正義について考えていく。紛争抑止のためにはルールや同盟を作り、「紛争が起こると損をする」というように意識させることが重要な一方、それを相手側に過度な脅威だと認識させないようにバランスを取ることが重要となる。紛争解決には「自分たちの側だけが正しい」と正義や思い込みを押し付けないこと、折り合いをつけることが必要となってくる。また大事なのは勝利ではなく満足であり紛争をしていては損をすると思わせることも重要である。暴力に関しては直接的暴力と間接的暴力が存在し、間接的暴力も恐怖をあおったりするほか、異文化批判などその意図が無くとも暴力になり得る。ただ自衛のための暴力も存在する。正義は暴力を容認するために必要とされており、国際社会では自衛と制裁は合法とされている。それ以外にも侵攻やテロの撲滅など様々な「正義」があり、聞く耳を持たなければその「正義」の名の下に暴力が容認されることとなってしまう。
 最後に私が突っ込みたいところについて述べる。それは、土地を巡る争いの解決策の一つである「共同所有」である。ヨーロッパ諸国が16世紀以降競い合って「無主地」を領有していったが、それ以前とそれ以降での人々の領土についての意識は異なってくると考える。「無主地」領有以前はそもそも「自分たちだけの土地」という感覚が無く、「自分が使えるのだから他の人も同様に使える共有地」という感覚だったのではないか。その一方で「無主地」領有以降は「既に自分たちだけが所有している(所有する権利がある)ものをわざわざ他人のためにも手放さなくてはいけない」という意識が争いあう二者ないしそれ以上の間に芽生えているのではないだろうか。加えて、もし領土の共同所有ができたとしてももう一つ問題があると考える。それが共有地の悲劇である。自分が適切に利用していても、共同所有する他人がその土地で自分だけの都合が良いように利用してしまえば、共同所有は成り立たない。さらにそれを恐れてお互いが疑心暗鬼になれば、相手に独占されないよう先に自分たちが独占しなければ、という心理も働き得る。そうならないためにはしっかりとしたルールを作り、かつお互いがそのルールを守るよう強く意識しなくてはならない。「共同所有」は解決策と言うよりも解決への道筋のように考えた。

上杉返答:共同所有は、人類の古い生活スタイルなのだと思います。そこでは、共同生活が一定のルールのもとで営まれ、個人の自由よりも共同体の調和が優先される社会。ルールを作り、ルールを守る。これは、法の支配を確立するということで、やはり紛争解決の基本なのだと思います。

平和への道

 本書の読後、私の印象に残ったのは「自分自身の正義や正当性を常に疑う態度が大事」という学びでした。
 平和を願う気持ちは、過去から今までずっと続いているのに、キリストが亡くなって推定1990年、仏陀が入滅して2566年が経とうとする2023年現在、なぜ人はまだ争い続け、不幸は連鎖し続けているのでしょうか。
 本書は「紛争解決学」という学問分野において研究・実務ともに活躍する上杉勇司さんの著作で、「なぜみんな平和を願っているのに暴力は絶えないの?」という抽象的な問いに具体的な回答を示してくれます。
 本書の概要は下記です。
 前半三章では、「紛争解決学」の「紛争」部分に焦点をあて、読者にクリティカルな問いを事例とともにいくつも投げかけ、回答を促します。一転して後半三章では、「それでは、どうしたら平和は守られるのか、争いは止められるか、避けられるか」といった「解決学」部分に歩を進め、本書副題の「17歳からの紛争解決学」の通り、初学者でも読み進めやすく、自然に紛争解決学の概観を学ぶことができる内容となっています。
 紛争とその難解さに頭も心も苦しくなりそうな内容の本書ですが、要所要所で登場するイラストが読者の心理的負担を和らげ、頭の整理にも繋がる良いクッションとなっています。
 さらに詳細を紹介すると、第1章は「紛争」の定義から始まり、紛争の種類や原因、複雑な関係図を見取りやすくする視点等が実際の事例とともに紹介されています。
 第2章では、紛争と切っても切り離せない概念として「暴力」に着目し、その種別(直接・間接)、主体(個人・国家)、対象(文化)等の様々な切り口で「暴力」という誰もが経験はあるが定義しようとすると捉えにくい行為の本質を炙り出そうとします。
 第3章では、紛争の起因、報酬ともなり、紛争を泥沼化させる「正義」や「正当性」というある種の信仰を取り上げます。国家・宗教・テロ・報復等、それが顕著に作動してきた事例とともに正義の相対・絶対性が示唆されています。
 後半の第4章では、第2次世界大戦以降、国際社会の秩序管理人として設立された国連の機能と役割、その限界が紹介されます。第5章では過去の紛争が解決した事例とその原因となったものを紹介し、争いを解決するヒントやアプローチ、仲裁のタイプとそれぞれメリット・デメリット、和解の要素を探ります。最終章の第6章では、実生活にも即した具体的な「争いを避けるための考え方」のコツが紹介されます。
 最後に気になった点を挙げさせていただきます。私は最終章で紹介されている「争いを避けるための考え方」が非常に貴重な知見だと感じているのですが、一方で「人間はどうしてそうできないのか?」という点が気になりました。
・正しい/正しくないで争わない→なぜ人は正しい/正しくないに拘ってしまうのか
・勝利ではなく満足を追求する→なぜ人は勝ち負けに拘ってしまうのか
・思い込みを捨てる→なぜ人は思い込み、それに気付けないのか
・二者択一ではない解を探す→なぜ人は二者択一解の問いをたててしまうのか
・自分の心の動きを観察する→なぜ自分の心の動きに気付けないのか
・相手の主張に耳を傾ける→なぜ相手の主張を聞き入れられないのか
 この「争いを避けるための考え方」のポイントを、「なぜ人はそれができないか」まで掘り下げて考える必要があるように思います。もちろん、入門書である本書でそのような心理学的内容までカバーするべきではなく、あくまで個人的な関心として挙げさせていただきました。

上杉返答:人間はどうしてそうできないのか。とても重要な指摘です。それを理解することは、人間を理解することにつながり、さらにいえば、紛争の予防や解決へのヒントを与えてくれると思います。貴重なご指摘をありがとうございます。

紛争と平和の葛藤
●「ヘェ〜」と感じた点
 ①宗教戦争について。紛争とは思想の対立によって起こるものだと思っていたが、他の目的があり戦力を集めるために思想や信仰を大義名分とすることもあるのだと初めて知った。私は熱心に信じている宗教も思想もないため、信仰によってどうして戦争が起きるのか、ということがずっと不思議だった。そのために血を流せるということを想像できず、宗教戦争というものを精神的にとても遠い話のように感じてしまっていた。本書を読んで、紛争が起こるのはそれだけの理由でなく、宗教自体というよりそれによる迫害や虐殺など、日常の中での不便というか困難のためもあるのだと分かり印象に残った。
 ②話し合いによって紛争が解決された事例もある、ということ。やはり譲歩の姿勢を持ち、「正義」や「勝利」でなくお互いの「満足」を目指し妥協点を探っていくことで避けられる争いは避けるべきだと感じた。サッカーがきっかけで起こった戦争の例にも衝撃を受けた。強い武器があるのに理性的な判断でそれを使わない、ということは核の問題にも少し似ていると思った。また反対に、暴力自体を理性で遠ざけることも可能なのだという希望が見えた。紛争の、このような「自制」の側面に興味を持った。
●概要(要約)
 紛争は、権力闘争、つまり人間として欲求を満たすための動きとして起こる。そのため、他の方法で欲望を満たすことができれば紛争を避けられるのではないか。紛争による被害を抑えるためには、理性的に暴力を遠ざける意志が必要である。
 暴力といっても、様々な形がある。例えば絶対的な力を持つ国家による統治によって国内における平和は保たれる。ここでは法に基づいて悪人を裁くために「暴力」が用いられるが、それは国民の平穏な暮らしのために不可欠なものだ。国内においては権力を集中させつつ、分散させ監視し合うことで暴力をある程度正しく使うことが可能である。しかし、国際社会においては、この「正しさ」を決めるのは誰か、それは本当に「正しい」のか、と言うことが問題になる。その判断を、必然的に力を持つ大国がすることになり、国際社会において大国の正義が本当に正しいか吟味されることなく押し通されてしまうという側面もある。
 世界の平和を守るにはどうすれば良いか、未だ答えは出ていない。どうすれば争いを止められるのだろうか。大きな争いを避けるためには、適切な仲裁が行われる、というのが一つの解決方法だろう。対立を暴力で解決しようとするのではなく、(暴力で解決できないことも多いということを受け入れて)他の和解の方法がないか、相手の主張に耳を傾け、二者択一でない解決方法を共に模索する姿勢を多くの国/人が持つことが重要である。
●ツッコミ
 P80付近の、文化的暴力についての言及に少し引っかかった。その部分については、固有の文化(今まで正しいとされてきた考え方や、生活様式)を持つ国々が集まる国際社会の中で、どのような思想は悪、また文化的な差として認められることができるか、という問題提起であると読み取ったが、文化的暴力だけでなく、明らかに差異として認められる(認めたいと感じる)ような事例も挙げて吟味される必要があるのではないかと感じた。私の立場としては、絶対的な人間の倫理観、法というものが存在し、国際社会全体も徐々にそこに向かっていくべきであり、何が正しいか長い時間をかけてすり合わせを行うことで文化的差異とはなくなっていくものではないかと考えている。(その辺りの問題を焦点化していることは承知の上で)先生の立場が少し分かりにくいと感じた。

上杉返答:人間の根源的なものに関わる倫理観や法があるという意見について。それに向かうことで差異が解消される。この視点の前提で、皆が共有できるものがあるのか。多様な生き方は認められないということにならないか。大きな流れに従わない生き方は、排除されてしまわないか。以上のような疑問がツッコミに対するツッコミとして想起できます。

国境紛争の葛藤

 私は、この本で解決した紛争の例として紹介されていた北アイルランド紛争が興味深いと感じた。
 1921年ほどからのイギリスとアイルランドの紛争はEUができたことによって以前までの国境の価値が変わり紛争が解決した。私は国境が紛争を引き起こす要因の一つなのかと意外と気づくことが出来なかった。ヨーロッパが1つの共同体になって当時のアメリカやソ連に対抗していく動きが紛争の解決を引き起こしたことは私の中では一番紛争の解決した例で平和的だったのではないかと考える。本にも書いてある通り、対立する勢力を緩やかに包むような「大きな枠組み」をつくることが、この場合のEUであり、宗教の考え方の違いで争っていた両者が解決方法として関係ないように見える国境が曖昧になることによって解決したことが私の中では驚きだった。EUという他の紛争地帯では解決できないような解決の仕方であったため柔軟性があると思った。しかし、イギリスがEUを離脱したことから北アイルランドとの問題が再発してしまうのではないかと考える。 
 この本は世界に起こっている争い、主に国際的な争いについて紛争解決学の視点から書かれている。宗教の違いや住んでいる地域の問題、民族の問題、歴史的な問題を話し合いなどの平和的解決ではなく、武力などの暴力的行為で解決しようとすると紛争が起きてしまう。しかし、正当防衛やアメリカでの銃の合法的な所持など必要とされている暴力があるのも事実である。紛争とは正義と正義のぶつかり合いでもある。一方が悪だと思っていることがもう一方では正義に分類されてしまう。両者の折り合いがつかなくなってしまった時点で武力的行使として紛争が起きてしまう。また、「人道的介入」として第三者が違う「正義」を掲げて紛争解決の乗り込み、より複雑化してしまうこともある。本来なら解決するために動かなければならない国連は内政不干渉や安全保障理事国の拒否権などで取るべき行動がとれていない。その中で紛争を行わないためには自国を守る力が必要である。同盟を組んで敵と対抗できる力をつけることや自国の軍事力を上げることで紛争や戦争を行わないためにできることである。次に起きている紛争や戦争を解決するためには三つの方法が挙げられる。民族や宗教の違いで争っている場合は争点以外の解決方法、両者の折り合いを見つける。対立している勢力をより大きな枠組みで囲んでしまうことである。土地に関する争いは話し合いの解決の他、互いの意識に無所有の意識を持つことである。紛争解決は仲裁者が大きな役割持っている。紛争解決学において解決力が高い仲裁者は友人型の仲裁者である。中立的な立場をもった仲裁者は必要である。最後に紛争は正しさの競い合いで起こってしまっている。どちらが正しいかで物事を決めてしまうと紛争が起きる、互いに満足するまでの対話をすることが紛争を解決すること、または、紛争をしないようにすることに重要である。
 私がこの本で疑問に思ったのは中国とソ連の土地による紛争についての部分であるが、話し合いによって解決したように本では書かれている。しかし、話し合いが行われたのはソ連が崩壊してロシアになった後で中国とロシア間の国境が曖昧になったことが解決に至ったと私は考える。ロシアが崩壊してなくソ連のままならおそらく争いが続いていたと思うので一概に話し合いでの解決であるとは言えないのではないかと考える。

上杉返答:中ソの国境についても、冷戦の終結という環境要因が大きかったかもしれません。また、ロシアになってからの国境確定に関しても、必ずしも非暴力だったとはいえません。話し合いによる合意が生まれる前には、衝突が起こっていたわけですから。ポイントは、当事者間の関係の変化や周囲の環境要因の変化によって、紛争が解決することもあるのだという点にあります。

紛争解決の視点

 本書ではまず第一章紛争を個人や集団が、同時に両立不可能なものをそれぞれ得ようとし、かつ目的実現のためには実力の行使も厭わず、自らが一方的に目標を達成しようとしている状態と定義した上で、紛争の発生理由やそれらを取り巻く情勢に注目して紛争を種別に分類しつつ、それらの争点と解決方法について探っている。
 続いて第二章で紛争と切っても切れないものとして暴力を挙げ、その有用性と危険性の二面性と運用方法について述べている。
 第三章では暴力と切っても切れないものとして正義を挙げている。正義はしばしば暴力を正当化するために用いられ、そこには善も悪もなく、みな自分の主張を正当化するために正義を用いると筆者は述べている。そして国際社会において許される暴力とは何かという基準において考察を進めており、わかりやすい基準として合法であるかどうかというものを挙げているが、国連の承認を待たない人道的支援としての空爆は果たして正当化できるのかという問題をその基準でははっきりと解決することができないとしている。またこの人道的介入には大国のイデオロギーに正義を与えてしまうリスクがあることもここで指摘しています。
 そして第四章では国際社会における絶対的な権力組織といったものは存在しないという問題について触れており、国連という組織の不完全さを、参加する国家の足並みがそろわないことや制裁を徹底するための力を持っていないこと、そして国民国家においては国家に対して国民が強い権力を生み出すために敢えて自分たちの自由を犠牲にした、という前提部分が国際社会においては存在しないことを問題点に挙げて批判しています。また、国連自体が内政不干渉を認めていることも国連が加盟国に対して権力をふるうことができない原因の一つであるとしています。そして安全保障のジレンマという問題についてもこの章で触れており、多極化や2極化、覇権、それぞれの問題点を挙げて解説しています。
 第五章では仲裁というテーマについて触れており、仲裁人の立場に求められる条件を挙げて解説しています。そして和解に必要な三要素として賠償、謝罪、赦しを挙げています。
 終章では紛争解決における考え方として固定観念を捨て、正義にこだわらず当事者の満足を追求し、ゼロサム的思考に陥らない注意を払うことを説いています。
 疑問に思った点として、まず本書では司法、立法、行政を独立させる三権分立によって国家権力を分散させるとともに、憲法を定めることで国家権力を制限することが試みられてきたとあるが、立法権を国会に与え、国会議員を国民が選挙で選ぶことによって国家権力の暴走を防ぐという論理は筋が通っていると思うし、過去の歴史を正しく捉えている書き方だと思うが現実を考えるとそれが上手く機能して、国民の民意が政治に反映されている国は、あまり存在しないのではないかと考える。自由と民主主義を掲げるアメリカの大統領選ですら作為を疑うほどの捨て票が発生する投票システムになっているし、そもそも大統領や連邦政府という存在自体がそれぞれの自治が存在している合衆国という在り方と矛盾するという見方もできるのでは無いか。また、我が国日本に置いても間接民主主義の手法を取っているものの、現行の内閣の支持率が50%を割っていても野党第一党の得票率が低すぎて実質的に選挙が国民の選択肢という理想の論理からはかけ離れた現状が存在していることも事実ではないか。国民による選挙という手法は人間の怠慢さによって実現不可能であることをこれまでの人類の歴史が証明してきたように思える。国家権力の運用方法を定めるための手法は過去を反省して新たにアップデートされるべき段階にすでに入っているのではないかと考える。
 また、サンクコストという考えに陥らないようにという考えを示していたが現状の国民国家というありかたが生き残るために国家という共同体を経営していくゲームである以上はこの考え方は実現しないのではないかと考える。やはり世界政府といえるような絶対的な権力が地球を統治して国家という枠組みがなくならない限り本当の意味で争いのない世界は実現しないのではないかと考えた。

上杉返答:三権分立が理論通りに機能しないのは、どういった理由からか。まずは、そこに光を当てて具体的な改善策を検討してみたい。まさに、国家権力の統制の方法や国際秩序の維持の方法は、常にアップデートされていくべきものです。AIやビッグデータといった政策判断に寄与する技術が生まれています。それらをいかに使いこなすのか。まさに問われていると思います。世界政府の実現は、見取り図としては、あるのでしょう。しかし、現時点での70億人を超える多様な人々を共通の一つの価値観や枠組みで制御しようとするのも果たして可能か、という視点も必要だと思います。

紛争と和解の問題

 私が最も印象的であったところで興味を持ったのは、アチェとインドネシア間で行われた民族紛争が自然災害によって内戦を終わらせたというところが非常に驚いた。2004年スマトラ沖地震による大津波は内戦による死者の何倍もの命が奪われた。それによって和平を掲げる動きの仲裁で解決したこの自然災害は紛争や争いを止め、必然的に解決せざるを得ない状況になったのだと感じた。暴力的な攻撃によるもので解決しようとしていたものが、一瞬の出来事によって人々の考え方や捉え方に影響を与えることができる。何を目的に、どんな趣旨があって内戦や紛争を起こすのか、起こさなければならないのか、その災害が起こる前に一度その大切さに気づかなければならないものがあったのではと感じさせられた。そして長年続く争いの根本には、勝敗を求めどちらかが実権を握ることが最終的な目標であったとしても、時間が経てば経つほどに、それは互いや自国にとってのメリットが及ばないことに気づき、自然に和平への道へと促すような流れへと進んでいくものなのではないかと感じた。解決へと導く方法はその国の特色や方針によって変わっていくと感じる。そこで、どの国においても平和を望むということを国全体として捉え、いかに他国と共存するかを常に考えていく必要があるのではないだろうか。
 まず本書ではどうすれば争いを止められるかといった一つの問いに対して、詳細に紛争とはどのようなものか、何故そうなってしまうのかなど、あらゆる視点から見た立場や仕組みを理解しながら世界の平和について考察していく。紛争とは、当事者間との過去の過程から生まれるものであり、泥沼化しやすいものである。そして紛争を止める解決策として暴力が挙げられ、暴力には直接的と間接的の二種に分けられる。直接的は相手の身体に危害を与え、間接的だと相手の心を攻撃する精神的な暴力までも存在する。私たちが思っている以上に間接的暴力は目に見えないからこそ危険なものであることを認知せざるを得ない。しかし、平和を実現させるためには国自体を守る自衛のための合法的な暴力が必要であり、私たちは暴力に守られているとも言える。よって、争うことで何が正しいか、正しくないのか、またそれが平和への道へと繋がっていくのか、これといった解決策や正解はないのであろう。だが、これ以上争いを激化させない、複雑化させないために物事をあらゆる視点や姿勢で模索すること、一つの価値観や概念に囚われないということを、紛争や争いを解決する上で頭の中に入れておかねばならない。
 争った相手との関係を修復させる三つの和解要素の一つとして「赦し」が挙げられる。確かに私も互いに和解を求むならその赦しが最終的に重要な要素であると考える。しかし、それぞれの価値観を持った上でそれを行うにはある程度の時間と相互に認め合う姿勢が必要であり、果たして和解はできたとしても、言葉で解決してはいけないものなのではないかと感じた。一度踏み入った両国間の傷や記憶は長い時間をかけてより当事者の思いと共に過去として刻まれ、これからの未来へと残されるものであると考える。和解をする前提として、お互いが紛争や争いを止める、和平を望むという一致がなければそれは不可能である。いかに相手国の考えや思いを汲み取り、自国への関心を持ってくれるかでそれが上手く動くかどうかは変わってくると感じる。他国を認める、知ろうという姿勢を積極的に行うかで紛争や争いを少しでも止める方法になり得るのではないだろうか。

上杉返答:もう一冊の教科書『紛争地の歩き方』(https://amzn.asia/d/9fqrH3q)で和解について詳細に取り上げています。和平も和解も相互関係、相互作用なのだとすると、相手側の意向や動きも重要。どのように働きかければよいのか。その鍵も相互関係、相互作用が握っている。お人好しで暴利を貪られてはダメだが、まずは微笑んで協力をしてくる相手には好意をもつ、というのを重ねていくことがいいのではないか。

紛争解決の視点

 この本は、「紛争」解決における諸問題について、個人レベルから国家レベルに至るまで考えていくという内容になっている。作中でイラストや漫画を用いて視覚的にも分かりやすく説明されているだけでなく、実際に起こっている、起こった紛争の事例を基に、紛争解決への手がかりを見出している。紛争には民族浄化や、宗教の問題、強国の支配への反動といったように様々な要因が背景にある。世界各国で起こっている紛争に対し、国際社会は解決のために様々な取り組みを行ってきたと言えるだろう。しかし、その取り組みの中には紛争を悪化させてしまったり、介入できなかったために解決に至らなかったりといった悪い反面が存在することは否めない。紛争解決学ではそのような解決に付きまとうジレンマに対しどのようなアプローチをしていくか考えていく。
 私がこの本を読んで最も印書に残った点は、宗教が絡んだ紛争はどちらにも自分の信仰が正しいという考えが存在し、解決がより困難であるという点である。複数の宗教が存在する国や地域では、一つ一つの宗教の信仰が強いため比較的信仰する人数が多いマジョリティ側がマイノリティ側を制圧、弾圧しようとする。その結果、十分な交渉ができなかったことにより過激派したマイノリティ側はテロや紛争での解決を図ろうとする。現代の日本に住む私たちは宗教の対立というものに馴染みがなく、強い信仰をもって生活している人はほとんどいないに等しいだろう。そこで、私はどうして宗教の違いという理由で共存できないのだろうかと疑問を感じた。その理由として、文化の違いや民族の違いがあげられるだろう。人間は長い歴史の中で幾多の差別や迫害を行ってきた。その中で発展していったものが国家であり、それを作るにあたって人々は異質な存在、つまり他者として存在しているマイノリティの排除は欠かせないものであったのかもしれない。他者の存在を尊重できなかったということが共存できない理由として捉えることができるのではないかと考えた。
 私は作中でもあったようにアメリカは世界の警察として君臨することも出来たのに、戦費を調達するために「敵」を求めてしまったことで、その地位を獲得することができなかったということが面白いと感じた。私はこの部分に対して、戦費調達のためでもあるが、世界一の国家であることの強さを示すためであったとも考える。世界の警察として君臨するためには、何よりも強さが必要であり、その強さを示すものは軍事力そのものであった。軍事力を多く持つ国は敵国の抑止にも繋がるだろう。しかし、アメリカはそれに失敗してしまった。アメリカは自国の軍事力を誇示して戦い、勝利することでその地位を固めようとしたが、己の受けたダメージは大きく、国際社会からは非難を受ける結果となってしまった。ではどうすればアメリカは世界の警察としての地位を確立することができたのだろうか。だが、私はアメリカがその地位を確立できなかったことが良かったと考える。もしアメリカが世界の警察として動く世界になっていたとしたら、私たちは安全な国を築くことはできなかったのではないだろうか。というのもアメリカは中立な立場でなければならないだろうから、日本と安全保障条約を結べていないかもしれない。いつ他国から侵略行為を受けても分からないということである。また、アメリカ中心的な世界はアメリカを孤立させてしまうことにも繋がるのではないかと感じた。

上杉返答:なぜ人間は、人類は、他者を尊重できないのでしょうか。どういう条件下であれば、他者を尊重できますか。アメリカ一強は、権力者が奢ってしまうのと同じで腐敗しやすい。三権分立のように権力が相互監視するというのが、人類のたどり着いた結論かもしれない。しかし権力間の対立を制御するものを新たに発明していかないといけない(その一つが核兵器であった)。

平和への探求と挑戦

 「では実際に平和が続くのはどんな世界でしょうか?」この難しい問いかけは、本書「どうすれば争いを止められるか 17歳からの紛争解決学」の183ページに実際に掲示されていた問いかけである。続く文章内ではまだ答えが出ていないものの、この問いかけ自体に私は感じるものがあった。なぜなら、数年前の私ならばきっと平和な世界は今ここにあると、臆面もなく言っただろうと思ったからだ。今現在、テレビをつければG7広島サミットの話、ウクライナの戦況などが報道されている。SNSなどでも、それぞれの国の動向への注視が不断に行われているし、世界へ意識を向ける人数も数年前よりも爆発的に増えている印象を受ける。平和な世界への関心は日に日に高まり、遠い国の話ではなく、自分たちにも影響のある事だと実感する人が多くなった結果である。私自身も、そのうちのひとりだ。逆にいえば、今の世界は平和という皮が剥がれ、そうではない世界が多くの人に剥き出しのまま差し出されている状況とも言えるだろう。更に大袈裟に言えば、私たちが今リアルタイムで見聞きしていることは、未来の社会の教科書に載り続けるような歴史そのものに他ならない。
 本書は、そんな歴史の激流を真摯に受け止めて見極めんと希求する学生にとって、一つの羅針盤になりえるだろう。主に六つの大きな章と小さな説、コラムからなり、読み進めていくにつれて紛争解決学への解像度が上がる構造を取っている。主な焦点としては、国と国、政府と反政府などによる争いがどのように勃発し、どのように解決できるのかを扱った物だ。17歳からの紛争解決学と銘打たれているように、平易な言葉とキャッチーな挿絵で彩られた本書は、学生でも理解しやすい。しかし、その内容は多岐に渡って紛争解決学の基礎を紹介し、読み手に対して自分で考えてみるように呼びかけるものが多い。内容に関連した事例を挙げ、その時はどのような方法が取られたのか、結果どのような物事が引き起こされたのかも掲載されている。歴史は繰り返さないが、韻を踏む、という言葉は、昨今、一層目にする機会が多くなった。この言葉の意味する通り、過去の事例とその結果の因果関係、それに対する考察も提示されている。読み手側の、過去の事例に関する知識のストックが増えること必須だ。これがあれば、自分たちの置かれた環境と照らし合わせた解決法を考えることも可能となる。また、争いを解決するアプローチとして複数の回答が提示されているのも特筆すべき点である。これにより、個々のメリットやデメリットを考え、使い分けることの有用さも同時に理解されるだろう。
 上記の通り、読み手の思考を要求する本書であるが、一方で、全てを網羅しているわけではない。例えば、解決した先に関する記述が少ないと言う点を挙げよう。本書は主に、紛争のメカニズムとその解決法の紹介がなされている。しかし、現実として紛争が解決した後も生活があるのだ。このことに関して五章の終盤に「争った相手との関係性は修復できるの?」という説で主に言及されているが、全体の割合としては低いものだと言わざるを得ないだろう。本書は随所で相手の感情に寄り添うことの重要性を説いて入るものの、紛争を解決するための入門書としての色が濃いため、最も相手に寄り添うべきタイミングとも考えられる紛争後のケアや後始末の場面への言及が少ない。適切な後始末やケアが行われなければ時を超えてまた紛争の火種になることも考えられる。紛争解決学に興味を持った人がいれば、ぜひ視野を広め、長期的な視点を持ってさらなる深掘りを試みることもおすすめしたい。

上杉返答:ご指摘のとおり、紛争後の和解の話は十分にしていません。それは、次の教科書である『紛争地の歩き方』(https://amzn.asia/d/9fqrH3q)で焦点を当てました。

正義と解決の探求

 この本は「どうすれば争いを避けられるのか」について紛争解決学の視点から解説をしており、「暴力」や「正義」といった、争いについて考える際に必要不可欠な言葉についても焦点を当てている。まず紛争の原因について、よくありがちな宗教・民族・思想などではなく、権力闘争に有利だからだと主張する。我々は数で有利になるために集団を作ろうとするのである。そして紛争が悪化したり、なかなか終結しない背景として当事者の心理的な部分や相手国への根拠のない一方的な期待も密接に関わっている。また、争いは暴力で解決できるのか、「暴力」について指摘されている。直接的暴力はもちろん間接的暴力も存在し、差別や誹謗中傷など精神面で大きく影響するから危険である。ただ暴力は平和を維持するためには必要なのである。次に正義について、紛争の当事者は大義名分のための正義を必要とし、悪も正義を主張する。「暴力」を正当化するには「正義」必要なのである。世界全体で見ても、国連の力には限界があるため、自分の身は自分で守るという現実が存在する。そのために自国の軍事力を強化したり他国と同盟を結んだりして共通の敵を作る。最終的に争いをしないためには、多様な価値観を認め、先入観を無くし、二者択一で考えず自分の心の動きを観察して相手の主張に耳を傾けることが重要である。
 そして自分はこの本を読んで、まずリーダーが掲げる「正義」という部分に感心・納得しました。その根拠として、自分のゼミのテーマである「太平洋戦争は何故起こったのか」があります。当時の日本の指導者も、「アジアの開放」という大義名分を掲げて戦争を行ったからです。植民地にされていた我々アジア人の土地を取り戻すなどといった「正義」で同志を集め、悪(欧米)に立ち向かうという主張は、今回見た本での話にそのまま当てはまるものでした。次に第3章のテロの話が印象に残りました。アメリカ同時多発テロ事件の報復に関して、数字で見るとテロ被害時の何倍以上もの損害を出していたことに驚く一方、互いの国の民間人を犠牲にしてでも、「アメリカという国は、テロに屈せず自由のために戦った」という正義の事実が必要だったのではないでしょうか。実際ブッシュ大統領もそのような演説をしましたし、アメリカ全体もその方向に動いていたのならリーダーが掲げる正義の話にも重ねられると思いました。講義でも議論しましたが、こういった「正義」を考えることが争いを無くすうえでの重要なプロセスだと考えます。
 気になった点としては、土地をめぐる争いの解決策という部分です。解決方法として①力による解決、②裁判所による解決、③当事者間の話し合いによる解決の三つがありましたが、どれも厳しいように感じ、何か別の解決方法の方が良いのかなと考えました。 ①は最もだれも望んでいない方法で、平和主義の日本としては絶対にやらない選択だと思います。②は一見いいようにも思えますが、国民の意思に関わらず、勝者と敗者が生まれるものなので国民が黙っていないという危険性もあると思います。③は日本の領土問題でも行われているはずですが一向に解決しません。そういった事実から話し合いではかなり時間がかかるため現実的ではないように感じました。この三つ以外の解決策を考えるのは難しいようにも感じますが、歴史が関わってくる領土問題だからこそ、国民全員が納得するような解決策を講じるべきだと考えました。

上杉返答:話し合いによる解決に対し、時間がかかるため非現実的という批判がありました。別の選択肢を考えるという視点は大変意義あることだと思います。実際にどのような選択肢がありうるのか、想像力を働かせてみてください。どうしたら、双方の国民の納得感を得られるのか。しかも、話し合いよりも迅速に合意に至る方法には、どのようなものがあるのか。

文化と紛争の洞察

 本書で出てきた「文化的暴力」について読む前と後で考え方が変わった。昨年度に受講した授業内で、ウガンダ東部ブゴベロ地域で行われている誤った病気の治療法について触れた。誤った治療法は、この地域の世界観や信仰する宗教が関係するため、安易に批判することは誤りであり、相手の文化、世界観を理解する必要があると学んだ。この講義を受講したとき、文化的暴力は自分とはあまり関係のないものだと考えていた。そのため、正しいことを教えれば相手もすぐに納得してくれるのではないかと疑問に思ったが、本書を読み日本の和服の例を見て文化的暴力を身近なものに感じ、ただ文化的暴力について指摘されるだけではその文化に染まっている人には理解できないということを知った。
 自分は和服をとても綺麗だと思い、成人式や卒業式で袴を着ることをとても楽しみに思っていたので「帯を締めるのは女性をしばりつける象徴だ」、「大和撫子のイメージを女性に無理やり押し付けている」という意見はまったく想像したことがなかった。また、今までは和服を綺麗なものだと考えていたので、この意見には賛同できないと感じた。しかし、このような考えそのものが文化の影響を受けているのだと考えさせられる部分であった。
 本書は紛争に関連する問題や解決法が具体例を挟みながら考察されている。一章では定義があいまいになりやすい紛争、戦争の違いやどのような条件を満たすと革命、内戦と呼ばれるものとなるのかが述べられている。また、一般的に紛争の原因であるとされる宗教、民族、思想の違いは原因ではなく「手段」であると述べられている。二章では、暴力には直接的と間接的暴力があると述べられていて、そこから正当防衛という平和のために使用されている暴力に関する話が展開されている。三章では初めに「正義」とは何かという問いが立てられ、NATOの空爆の根拠にもなった「人道的介入」という考え方について考察がされている。四章では国連には制限があることに触れ、冷戦中の二大勢力が世界を支配する時代と冷戦後の一極支配、多極支配どれが世界に平和をもたらすかと問いを立てている。五章では、複雑な争いを解決する3つのヒントや土地をめぐる争いの解決策、3つのタイプの「仲裁者」がそれぞれの弱点や具体例を交えて紹介されている。最後の六章では、私たちが争いを避けるためにはどのようなことを心掛ける必要があるかが述べられている。
 本書は著者が紛争の解決法を現在ある問題を提示しながら読者に問いかけるものである。
 本書のp138に「テロリストを正当な交渉相手として認め、真剣に課題に向き合い、必要な譲歩を重ねていくことで、暴力が必要ない状況をつくり出すことができるのです。」、p141に「つまり、テロの温床となっている問題を解決し、テロリストたちが立ち上がった根本的な理由(社会の矛盾や不平等などの大義名分)を取り除けば、テロはなくなる。」と述べられている。しかし、話の通じないテロリストはいないのか。また、一度やると決めたら何を言われても実行しようとするテロリストに遭遇した場合はどのような対応を取るのが最善なのか、話が通じない場合諦めるしかないのか疑問に思った。そのような場合の対応策へのヒントを付け足して欲しいと感じた。

上杉返答:話の通じないテロリストはいないのか。とても真っ当な疑問です。もちろん、まったく話し合いが成り立たない場合もあるでしょう。しかし、燻りかけた段階で、耳を傾け、真摯に話し合いをもてば、不満や憤りを抱えた人たちがテロリストになることはないと信じています。しかし、放置したり、抑圧を強めたりすれば、それは烈火の如く燃え上がるかもしれません。また、話が全く通じない人が支持者を集めて狂信的な団体になる前に、真っ当な対応をすれば、話が通じない人の周りには人は集まらないのではないかと思います。不満や疑念を早期に対話で解消していく。これが有効な処方箋の一つだと考えます。

紛争解決のポイント

 「へぇ〜と感じた点」『争いを止めることができるのか』という本の中での「テロをなくすための暴力は許されるのか」という項目が印象的でした。今まで世界史を勉強してきた中で、2011年9.11に起きたアメリカ同時多発テロは何度も話に出てきました。その中でテロ行為を罰するために国境を超えてアフガニスタンにまで侵攻したことに是非を唱えることは一度もありませんでした。たしかに冷静に国際社会を見てみると、ある国にテロ組織が潜んでいることが発覚したとして、潜んでいるからといってその国を侵攻しても、それは許されるのかどうかは疑問に思います。私はテロを撲滅のために暴力が許されるべきではないと考えます。撲滅する過程では、テロに属していると疑われる人が大勢出てくると思う。しかし、その中には全くの無関係である人もいるかもしれない。もし無関係であるのに拷問を受けてしまった時に、その精神的苦痛は取り返しのつかないものになると考えます。暴力が許されるべきではないと考える一方で、テロをなくすための暴力が必要な時もある可能性も否定できないことも理解できます。テロリストらが存在するということは国家が脅かされる危険性もある。それは自分達の権利が侵される危険性があるということであるからです。
 「概要」 複雑な紛争を解決するには三つのポイントがある。一つは信仰や民族の違いなど、当事者同士が譲れない問題を争点からはずすことである。お互いに違いはあるが、争点ではないという共通理解を作ることだ。二つは宗教や民族の問題とは別次元の具体的な争点で折り合いをつけることだ。信仰に関係ない点であれば譲歩し、歩み寄ることができる。三つは対立する勢力を穏やかに包むような大きな枠組を作ることだ。独立をめぐる問題であれば、紛争地で独立を主張する人々の自由を認めながらも、もう一つ上の段階で彼らを取り込むような仕組みを作ることだ。そのほかのポイントとして、仲裁者を呼ぶことである。前提として争い合っている者同士に紛争を終わらせたいという共通認識が必要である。仲裁者にも三つのタイプがある。一つは裁判官型である。これは中立出来な立場で当事者の話し合いを助けるタイプである。ふたつは親分型である。紛争当事者たちを上回る力を持ち、その力を使って解決の手助けをするものである。三つは友人型である。紛争当事者に近い立場から、平和的な解決のために当事者たちを助けるものである。
 「ツッコミ」複雑で難しい争いをどう解決するの?というところでの具体例を出して説明しているが、そこの一つの例に対する情報をもう少し増やしてほしいと思いました。インドネシアなどで起きた紛争の情報がすくないため、なぜ解決に向かったのかということの理解が浅いままになってしまった。

上杉返答:そうですね。一つ一つの事例を詳細に説明していません。読者の理解を深めるために、補足の説明を加えるか、次のステップを提示しておくべきだったと思います。

洞察と疑問

 本書は、世の中の争いに共通する特徴や解決策についてわかりやすく解説することで、紛争が起きる原因などを読者が理解し、暴力を用いることなく、紛争を解決できる方法について考えるため、世界で起きている紛争から、私たち自身が争いを避けるヒントを学ぶための本となっています。全6章から構成されており、第1章では、そもそも紛争とは何なのか、どうして紛争は起きてしまうのか、またどうして終わらないのかについて、紛争解決した例について書かれています。第2章では、争いは暴力によって解決できるのかについて、暴力には物理的なもの以外にもさまざまな種類があり、それらについての説明や実際にそれらが用いられている例を挙げて解説しています。第3章では、争いにおける正義とはなにかについて書かれており、なぜ紛争の当事者は正義を必要とするのか、宗教絡みの紛争における正義、正義のもとの暴力は許されるのかについて述べています。第4章では、国連などの国際組織や国際法などによる一定の秩序とその限界について、国としてのあり方や国同士の関係性による平和実現の模索についてかかれています。第5章では、今までのことを踏まえてどうやって争いが解決されるのかについて、実際に解決した紛争の解決の理由究明や災害などの危機による国内一致団結の例などを、争いを解決するためのヒントを提示しています。第6章では第5章までで学んだことの結論が述べられています。
 自分が、特にへぇーと感じたところはコラムが多く、まずひとつはサッカーでおきた戦争で、自分はサッカーを過去にやっていて、海外の試合や国際試合も好きで見ていたので、元々両国の関係が悪かったとはいえ、オリンピックの影響もあって、スポーツの国際試合=平和というイメージがあったので、サッカーの試合結果が発端となっておきた戦争があったというのは驚きました。また同じコラム内の中国とインドが素手やこん棒などで原始的な戦いをしていたのにも驚きました。ミサイルや核兵器がある国同士で争いが起きたとしてもお互いが本格的な武力紛争を避けたいという共通の思いがあれば、死者や重症者は出てしまうとはいえ、もっと悲惨な事態は避けられるという出来事があったというのを知って衝突は避けられなくても最小限に抑えることは可能なのだと感じました。もう一つは、逃げるリーダーはカッコ悪い?でガーニ大統領があっさり国外逃亡したことについて、徹底抗戦を指示せず、逃げたおかげで内戦が避けられたという見方をみてそういう見方もできるのかと感心しました。もし住んでいる国がそういった事態にさらされているときに国のリーダーが逃げたら、国を捨てるのか、と思ってしまうなと考えたけど確かにそのおかげで自分が生きてられるのだとしたら立派な選択肢の一つだなと感じました。
 逆に、ここには少しツッコミを入れたいなと感じたところは、アメリカの主な利益が軍事産業にあるという点です。本書の集団的自衛権のところにもある通り、確かに軍事面や経済面で圧倒的に強いアメリカの存在のおかげで、日本は守られていたり、世界をけん制できているのは平和につながっていると思いますが、紛争の起きているところに武器を供給するなどの紛争を助長してしまうようなことで国の利益を賄っていては、真の紛争解決にはつながらないのではと感じました。

上杉返答:息抜きのつもりのコラムからも学びを得ていたようで嬉しいです。もちろん、米国の主要産業は、軍事産業からGAFAのようなプラットフォーム業界へとシフトしてきています。武器を共有する大国がみな国際平和に対する主要な責任をもつ国連安保理の常任理事国であることも皮肉です。

学びと感銘

「感心した点」 本書の冒頭でも触れていた通り、専門用語は使われておらず、紛争に関する知識のない私でもとても読みやすいものだった。チビタとデカオの例や、イラストの例が用いられていることで、内容理解しやすいというのと、抵抗感がなくなっていいと感じた。「争い」において紛争の方が広く意味しているが、戦争は国家同士で、特定の条件を満たしたものであるというところに関心を持った。また権力闘争において数の有利というのは、日本人にその傾向が強く、学校でも職場でも数の有利を作ろうとしていることを再認識した。「ABC三角形」については初めて聞いたが、争いの原因や状況を客観的に分析することができて感心した。弱点を認識しつつ、状況の整理として活用していこうと思った。暴力を正当化するには「正義」という建前を必要とするということが本にあるようなアンパンマンであったり、様々なアニメやドラマで証明されていると感じた。また6章ではそこまでの内容を踏まえたうえでの重要なポイントを読者に訴えかけているようだった。そこまでで紛争についてあらゆる角度から見てきて、紛争について理解を深められたと感じたところでのまとめだったので、感銘を受けた。
「要約」 1章では紛争についての基本的な情報や解説がされている。紛争とは、「個人や集団が同時に両立不可能なものをそれぞれ得ようとし、かつ目的実現のためには実力の行使も厭わず、自らが一方的に目標を達成している状態」であると紛争解決学では定義されている。紛争を引き起こす根本的な原因は「権力闘争」における派閥の発生であるといわれており、それも数で有利になるために集団を作ることで孤立して不利にならないようにする。この権力闘争で武力を行使することが戦争に結びついており、権力闘争をなくすことは難しいが、権力闘争において暴力を使わないようにすることが重要である。「ABC三角形」で紛争を見てみると客観視することができ、複雑な紛争を分析しやすくなるが、一方で複雑な事情を二つの違った立場の対立として簡略化してしまうことで見えなくなる部分も出てきてしまうので注意が必要になる。2章に入ると暴力について述べられている。暴力には直接的なものと間接的なものがあり、主に間接的暴力に焦点を当てている。社会の暴力の必要性が語られているが、日本では国家が暴力を行使できるからこそ国民が守られている。ただし国家権力を暴走させないために私たち国民が国会議員を選ぶ必要がある。3章では暴力と密接な関係にある正義について。争いにおけるリーダーは、多くの人の共感を得るために「正義」という大義名分を掲げる。暴力を行使することを正当化するには「正義」が必要となり、これは「悪」にも同じことが言える。テロリストたちはテロ行為を正当化するために「正義」を利用する。これを現代の国際社会で考えたとき、大国が自分たちに都合のいい「正義」を作ってしまうリスクがあり、この問題をめぐって新たな争いが起きる可能性がある。4章は世界の平和はどうしたら守られるのか。世界全体でルールを設けているが、国連の力にも限界があるため、自分の身は自分で守る必要がある。そしてそのために同盟を結んだりする。しかし弱者を助けられない現状がある。そこで国を守るため、強い国と同盟を結び抑止力とする。ただし同盟を強化することは安全になるどころか逆効果になることも考えられるため、注意が必要となる。5章ではどううれば争いを止められるかについて。複雑な争いを解決するためには、「当事者同士が譲れない問題」を争点から外すこと・宗教や民族の問題とは別次元の「具体的な争点」で折り合いをつけること・対立する勢力を緩やかに包むような「大きな枠組み」をつくることの3つが重要になってくる。領土紛争においては、力、裁判所(法律)、当事者間の話し合いによる解決という3つの方法がある。また仲介者についてや、争っている人たちの心を変える方法、関係の修復についても触れている。6章、ここまでのまとめとして私たちが争いを避けるためのポイントがまとまられている。
「疑問点」・中国の「敵の敵は味方」の論理で敵であるはずのアメリカと接近したとあったが、もしアメリカとも方針や路線で違いが生じていたらどうしていたのか。ソ連という共通の敵がいれば思想だけでなく指針の違いも気にならないものなのか甚だ疑問だ。・勃発という言葉が曲者であるとした上で、実際にはプロセスがあるとのことだが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻を例に挙げると、私個人的には勃発といってもいいように感じる。もちろんロシアにプロセスがなかったわけではないだろうが、あの出来事は突如として始まったように思う。これはウクライナ側にとってもそうではないだろうか。

上杉の返答:「指針の違い」の指針とは、どういうものなのか、具体的なイメージがつかめなかった。(補足してもらえれば、返答できると思います。)実は、ウクライナ侵攻には、ソ連崩壊、ロシアの弱体化、旧共産圏の民主化やNATOへの加盟、ロシアの勢力圏が欧米に侵食されるというロシア側の危機感の醸成、グルジアなどへのロシアの軍事侵攻に対して欧米の制裁が厳しいものではなかったという認識、クリミアの力による奪取に対しても欧米の対応は許容範囲だったという認識。これらが積み重なって2022年の侵攻に至ったと分析することもできます。

正義と解決の道

 本書を購読し、私は「正義」という言葉が最も印象に残った。争いにおいて正義とは何なのか、争いを暴力で解決することは正義なのかという問いがとても興味深かったと思う。紛争や暴力を終わらせるために正当化された暴力をふるう。まるで問題解決へ導くためには他者を傷つけることが必要だと示しているように感じられ、平和的に争いを解決することがいかに困難であるか思い知らされた。その一方で、紛争をわかりやすくとらえるための「ABC三角形」という考え方も提示されており面白いと思った。態度、行為、背景の3つの事柄に焦点を当て、なぜその紛争が勃発したのかを考察していくというのは、当事者でない私たちが争いの起源について学んでいくうえで大切な手法の一つだろう。他にも、私たちの身近に存在する「見えない暴力」についても、日常生活を送るうえで注目すべきだと感じた。その中でも文化として当たり前に存在している「見えない暴力」というものに怖さを感じた。本書では着物が例に挙げられており、異文化に属する人々によって、女性を着物や帯で締め付けたり動きにくい状態にさせたりすることは暴力的だと思われることがあるということが記述されていた。これまでに着物文化をそう捉えたことは無かったが、見る人の生きてきた環境によって、文化と暴力は紙一重となりつつあることに驚いた。
 様々な例を挙げることで、争いや暴力をわかりやすく提示しているところも本書の魅力だと思う。前述したように私にとって印象的だった「正義」については、アンパンマン等の国民的ヒーローをもとにその暴力がなぜ良いとされるのか述べている。アンパンマンの場合、バイキンマンが先に攻撃してきたから反撃したという正当防衛として考えられるのだという。また、「見えない暴力」では恐怖心をあおって難民を生んでいたボスニア内戦が例となっている。「敵につかまった女性は性的暴力を受ける」といううわさが市民を恐怖で追い詰め、その結果難民として生きる環境へと変えてしまうのだ。争いには必ず暴力が存在し、その被害は一時だけでなくこの先もずっと残っていくことがこの内容から読み取れるだろう。以上のような実例をあげつつ、暴力による対立をどのような方法で解決すべきか、「紛争解決学」にもとづいて解説されている。
 しかしながら、すでに発生した争いを止めること自体不可能なのではないかとも感じた。なぜなら、争いが起きる前に阻止できるよう取り組むことが紛争解決への近道だと考えるからだ。争いを起こす人、暴力をふるう人、どちらにおいても「自分が正しい」と信じ込んでいるという点で共通していると思う。だからこそ、その勝手な「正義」を行動に移してしまう前に対話によって解決できる場を設ける必要があるだろう。例えば、現在進行中であるロシアとウクライナの対立についても、仮にプーチンとゼレンスキーが対面で交流する機会があれば、ここまで悲惨な争いに発展しなかったのではないかと思う。武力を行使するなど、先に行動に移すのではなく、言葉によって現状考えていることや今後改革していきたいことを伝えることが争いを起こさないうえで重要だ。そのためにも、各国や団体が冷静に対話できる空間を国連などの機関が築き上げるべきだと思う。理想論となってしまうかもしれないが、対立しそうな国や団体をいち早く見定めサポートする制度こそ、国際社会が争いを解決するために必要としているのではないだろうか。

上杉返答:ご指摘のとおり、紛争解決学は、もっと前にこうしていれば紛争は回避できたはずだという指摘が多い。実際に、そうした対応ができなかった、あるいは決裂したがために、現在は紛争状態に陥ってしまったのだ。だとしたら、事前に対応できない理由を明らかにし、紛争状況に陥ってしまった段階で何ができるのかを示していくことに価値を見出すことができる。

争いと平和の探求

 本書は、高校生でも分かりやすく理解できるように紛争解決学の観点から「争い」に対してどう向き合うか、どのように解決するかを分かりやすく解説した本である。まずは紛争というものの定義、さらには紛争が泥沼になってしまう原因を三つの視点から解説している。二章では「暴力」の種類と国家と社会が暴力を行使する意味を取り上げている。平和を保つために警察の圧力など多少の暴力は必要である事が分かる。三章では争いがおこる際にそれぞれの正義を振るってしまう事の危険性、テロ対策が述べられている。テロリストに対する報復は必要なのか、どのようにテロに向き合うべきなのか、という課題に対しての考察も述べられている。次の四章では、国連のシステムがある中での国際社会の在り方、または国同士のつながりに対して危険性もある事を解説している。五章ではタイトルにもあるように「どうすれば争いを止められるか」という問いに対して解決例を挙げて説明し、争いをしてしまう人たちの心を変える必要性、さらに争ってしまった人の関係をどう修復するかも述べられている。最後には争いを避けるための私たちもできる事、考え方が書かれています。「争い」という避けることが難しいことに対して著者なりの考えが書かれています。
 この本を読んで、へえ~と思った点は、まず紛争の定義についてです。最初に「紛争」という言葉を聞いたときに戦争や暴動などとどう違うのかという疑問があり、「個人や集団が、同時に両立不可能なものをそれぞれ得ようとし、かつ目的実現のためには実力の行使もいとわず、自らが一方的に目標を達成しようとしている状態」というしっかりとした定義が存在することに驚きました。さらに、本書では焦点を当てているのは主に地域紛争や国際紛争ですが、いじめや個人同士のもめごとも定義に当てはめると紛争となると言及されており、「紛争」や「争い」というものがとても身近にあるように感じました。更に、紛争に対してのイメージ長い歴史や思想のしがらみによって起きているものであって、平和的な解決は不可能なのではないか、というイメージが私の中ではありました。しかし、本書で取り上げられていた紛争解決の例には、武力で解決するのではなく選挙という平和的な方法で決着をつけることがなされたというものがあり、なるほどと思いました。選挙をすることによって国民の意思を反映しつつ平和的な結論を出すことが出来るので、今後も取り入れられるべき解決策だと思いました。和解と解決については、後々取り上げられるテロリストの件からもへえ~と感じるものがありました。北風と太陽の話に当てはめた、「太陽」のようにテロリストたちの主張に寄り添い、解決策を探していく事は、国のためだけではなく不平不満を無視されていたテロリストたちの支えになることもできると思いました。
 本書の中でツッコみたい点があります。テロリストに対する平和的な解決として政府が主張を聞き、要望を実現できるように尽力する、とありましたが、その国に住む人々にとってテロリストは悪であり、そのテロリストの要望が通ったとして国民は納得するのか、国に対しての不安感が残ってしまうのではないか、という疑問があります。平和的な解決とはいえ、さらにテロリストの要望を通してしまうとテロを起こすことで自分たちの声を聞き入れてくれる、という考えが出てきてしまうと思います。

上杉返答:ご指摘のとおり、テロリストと呼ばれる人々が、すでにテロ行為に手を染めてしまった後では、一般国民の賛同を得ることは困難になってしまうでしょう。ポイントは、彼らが不満を抱えた段階で、いかに真摯に彼らと向き合い、できるだけ彼らの意向を反映させる政策を実現できるかにかかっています。彼らが絶望し、テロに訴えてしまっては、もうテロ対策は失敗したといえるからです。

争いと平和の探求と方法

 本書は、争いはなぜ起きるのか、どうすれば争いを止めることが出来るのか、私たちには何ができるのかについて考えることを目的としたものである。
 どうすれば争いを止められるのか、その1歩として重要だというのが「正しい」「正しくない」で争わないことであると筆者は述べている。この言葉は一見簡単のように思えるが、普段考えるにあたって実行できていないものではっとさせられた。本書の例でアンパンマンについての話題が出てきた。なぜアンパンマンの暴力は歓迎されるのか、それはアンパンマンが悪者をやっつける正義の味方であるからだ。しかしアンパンマンが暴力を振るう悪者は本当に悪者なのか。悪者と言われている側にも主張があって、理由があるかもしれないし、方向を転換して考えれば悪者は変わるのかもしれない。正義、正しさとは常に不安定なあやしいものであり、そこを争っても意味の無いことだ。それを我々は常に片隅に置きながら紛争解決方法を探っていかなければならないのだと気付かされた。それを達成し他者と自分の「正しさ」が違うことを理解すれば、今よりもっと視野を広げて多方面から紛争解決について考えることができるようになるだろう。
 筆者は争いを止める手段についてパターンを分けて記述している。民族紛争や宗教紛争については、信仰や民族の違いを争点にしないこと、別次元の争点を議題にすること、対立する勢力を包む大きな枠組みを作ることが挙げられた。これは当事者の譲れない部分には触れず、大きな枠組みの中で共存する道を探るという解決方法である。次に領土を巡る争いの場合である。領土を巡る争いには、武力による解決、裁判所による解決、当事者間の話し合いによる解決があるが、興味深い解決方法が他にも挙げられている。その方法が共同所有である。大陸で河川が国境となっている国では、河川を両国が共同統治している現状にある。このように分割することなく解決する方法も存在しているのである。また筆者は紛争解決には仲裁者の役割が重要だと指摘している。仲裁者は当事者に争っても意味が無いことを気づかせること、当事者同士を協力者だと思わせること、共通の危機や利益に目を向かせることが出来る人物であり、争いを平和的に解決するために重要なポジションであるのだという。
 以上のように本書ではタイトルの解決策としてさまざまな視点から分かりやすく答えを導き出している。
 そんな中、本書を読んで少し違和感を感じた点があった。総括の最後の章である。最後では私たちが争いを避けるためにできることについて書かれており、筆者はどんな大きな戦争もきっかけを作るのは一人の人間だと言えると述べ、私たち個人が争いを避ける方法を伝授した。そこには自分と他人の正しさが違うことを知ること、固定概念にとらわれない考え方を持つこと、争いの場では二者択一で考えようとしないこと、勝利ではなく満足を求めることなどを挙げた。筆者が挙げたものはどれも心情的な部分での行いであり、具体的に私たちが行動できるものは記述されていないのである。私たち個人レベルで何ができる、それを考えた時に他者を思いやり理解する心を常に持ち続ける、そういった心情的なことは考えがつく。しかしちっぽけな私たちが実際にどんな行動を起こせるのか、それを示し我々に伝授してほしかったと思う。
 最後になるが、本書によって紛争解決学の基本となる考え方や知識を分かりやすく学ぶことができた。紛争解決について考えたい若者から、少しでも興味のあるさまざまな人たちにこの本を読んでほしいと心から思う。

上杉返答:最終章で示した私たちができることが、総じて心情的なことで具体的な行動ではない、というご指摘は、想定外でした。具体的にできることを綴ったつもりでした。争いをめぐる人間関係に変化を促すものを厳選したつもりでした。では、心情的ではなく具体的な行動とは。私にとっての具体的な行動とは、オープンマインドでいる。相手の意見に耳を傾ける。反論ではなく解決策(互いに満足できる解)を探る。想像的に考え選択肢をたくさん生み出す。どれも具体的な行動なのだが、それは心情的なことになってしまうのだろうか。

争いの解決と中立仲介

 まず関心点は、正義と悪は立場や視点によって異なるという点である。本ではアンパンマンや桃太郎を例に挙げて述べられているが、私は彼らをヒーローとみなし、彼らの敵を悪者だと考えるのが普通であると思っていた。そのため悪者が人々に与える暴力は許されないが、ヒーローが悪者に与える暴力は正当なものだった。
 しかし「テロリストや宗教争いをする人々の中では正義感、使命感から行なっているのだ」という文を読んで、私の固定概念は覆った。彼らは単なる悪者ではなく、私達に見えない背景や考えがあり、彼らなりの正義感をもって起こした行動かもしれない。誰かにとっての正義は誰かにとっての悪でありその反対もありうるのである。
 したがって、争いの当事者であっても第三者であっても自分の価値観で正義と悪を勝手に判断してはいけない。互いの主張に耳を傾け、他の視点から考えることで自分の間違えや新たな点に気づくことがあるかもしれない。このように意見が違えど、傷つけ合う以外の解決策は他にもあると考える。
 次は概要と要約である。どうすれば争いを止められるのかをテーマに紛争、暴力、正義、世界平和、争いの解決策、私達ができること6つの分野に分けて述べられている。これらを「紛争解決学」を用いて考え、読者に争いを止めるヒントを与えてくれる。そもそも「紛争解決学」とは紛争の原因を理解して紛争当事者の心情や背景を分析し暴力以外の解決策を導き出す学問である。紛争は、個人間の争いから国際社会で起きている大きな争いまであるがこの本では特に大きな争いを取り扱う。
 「テロリストや争いを起こす人々による暴力が起こる前の予防策は何かなかったのか」、「長期的に平和が続く世界を維持するにはどのような国際体制をつくるべきか」など答えがない問いを筆者の答えは明記せず、読者が考え、正解を導き出させる形式である。このように紛争の様々な問題を考察することで個人間の争いが起きた際に役立ててもらうことが筆者の願いである。
 最後に気になる点としては、争いの解決策として(友人型)仲介者、別の問題に目を向けさせるという点である。
 私は部活で二手に別れた大喧嘩をした経験がある。最初は中立組が両方の意見を聞いて仲直りさせようとしたが、「両方に良い顔をしているのではないか」と疑われ、仲介することができなかった。このことからまず友人が仲介者になると巻き込まれたたり余計複雑になる可能性があるため上手くいかないと考えた。
 結局中立組全員が一方のチームについたことで、喧嘩は更にヒートアップしてしまった。そして私達の喧嘩に気づいた男性顧問が「互いに不満や考えがあるならここで吐き出せ」と話し合いの場を設けてくれた。ここでは何を言っても良い代わりに今後引き摺らないことを約束として、初めて勘違いしていたことや不満、考えを知ることができた。更にこの後、女性顧問が男子を贔屓していたことに気づき、彼女が共通の敵となってこの喧嘩は解決した。
 この件から仲介者は本当に中立の立場をとり争いに関らず話し合いの場を設けることだけを行える人であれば成り立つと考えた。また別の問題に目を向ける、ここでは共通の敵を作ることは一つの争いを解決することのみ考えれば良い解決策である。しかし国同士の争いの場合仲介者は独自の利益も考察して発言や行動を起こすだろうし、共通の敵を作れば新たな争いを生み出すこともあるかもしれない。したがって個人間では成り立つこともあるが、国際社会では難しい場面の方が多いのではないかと考える。

上杉返答:自らの経験と照らし合わせて論証している点は素晴らしい。同時に、一つの具体例が、そうだったからといって安易に一般化するのは、視野を狭めてしまいかねない。中立者が仲裁者としての振る舞いに長けていたら、事態は変わっていたかもしれない。このような思考法を用いて考察していくとよいでしょう。共通の敵の存在を作ることには、マイナスな側面はあります。同時に、共通の敵を、特定の国にする必要はありません。核兵器の使用、法律の無視など、両者が互いに「敵」と認識できる行為などを敵視したらいいと思います。

紛争と平和の葛藤

 第一章では「紛争」について説明されている。紛争とは個人や集団が、無理のある目標を実力行使も厭わず達成しようとしている状態である。紛争が起こる原因は民族や宗教、思想の違いが原因と思われることが多いが、あくまでそれは手段であり、本当の原因は権力闘争である。紛争は複雑で理解することが難しいが、態度、行為、背景の3つの視点を意識すると、全ては理解できなくとも、多角的に紛争を観察することができる。紛争が起こってきた歴史の中で、解決してきた事例もあるが、態度的な面での完全な解決は難しい。第2章では争いと暴力の関係が述べられている。暴力には直接的暴力と間接的暴力がある。前者は物理的暴力であり、後者は精神的暴力である。二つの大きな違いは、被害者と加害者の関係性の違いである。直接的暴力のほうに目が行きがちかもしれないが、間接的暴力にも大きな危険性があり、例としては言葉の暴力や恐怖心を利用した暴力、文化的暴力が挙げられる。しかし、暴力はものによっては平和に必要なものとなる。身を守るための正当防衛としての暴力や、権力という名の暴力を国家が作り上げることで守られている世界も存在するが、国、権力は時に暴走する可能性があるので、対抗策をもつことが大切である。第三章では正義について述べている。正義は立場によって変化するものであり、唯一性がない。その例として、空爆問題や、宗教、テロなどが挙げられている。宗教が関わる紛争はこじれやすいので、正義と信仰を結びつけるのは危険である。テロは犯罪であるが正義と関連付けて解決することはむずかしく、私たちはテロに対してより真剣に向き合う必要がある。第四章では、平和の実現について述べられている。国連は様々なルールを設けているが、それらは国同士の信頼を期待している部分が大きく、全面的信頼を置くことは難しいため、自衛することがとても大切である。自衛以外の道としては同盟が挙げられ、同盟による抑止力を働かせることで平和を目指す方法もあるが、抑止力の解釈の違いによって発生する問題もある。また、平和を維持する理論として、勢力均衡という考えもあるが、力が一極、二極、多極化、どれにしても完全な平和がもたらされると断言することは難しい。次に第五章では紛争解決について述べられている。当事者の譲れない部分には触れず、より大きな枠組みの中で共存する道を探ることが、紛争を解決するためのコツである。土地を含む争いは力、裁判所、当事者間による話し合いによるアプローチが効果的である。また、所有という考え方を捨てるという方法もある。他にも紛争解決のための仲裁者の存在や争っている人々の心を変えるという解決策がある。最後には全体を要約した上での紛争を避ける方法がまとめられている。私は世界情勢や国際政治についてあまり詳しくなかったので、国連などの世界平和のための機関や政策があるというのになぜ未だに紛争が生まれるのかよく分からなかったが、私が思っていた以上にまだ平和に対する政策は不十分だということに驚いた。特に、第4章の国連や集団安全保障は世界各国に対する期待の上で成り立っているという所が、現在の国際平和に欠けている部分を適切に指摘していると感じ、なるほどと思った。教科書には国連について不十分な部分を多く記述されていたが、国連によって作られている平和についてももう少し紹介してもよいと思った。また、国連で一つの平和を守るための政策ができたときに生まれる新しい問題もあると思うのでそのような国際ルールなどによるジレンマのような現象を取り上げるのも深い理解に繋がるのではないかと思った。

上杉返答:要約が大半を占める書評です。文章を3つほどの段落に分けるとよいと思います。最後に示された批判点は、妥当だといえます。国連が作ってきた平和についても言及すべきだったかもしれません。国連のルールに関する指摘への返答としては、主権の尊重・内政不干渉の原則と人道的介入や人権の普遍的な適用といった矛盾する原則の間に生じるジレンマや緊張を挙げることができます。

紛争と平和の探求

 この書籍では、紛争解決のために先入観を持たずに正しいか否かで争わないこと、対立する両者には互いを理解し、対話する力が必要不可欠であり、両者のどちらかが利を得る結果ではなくて両者が満足する結果になるようにお互いが努めなければいけないということが述べられています。私はこの内容を読み、人々が現状と紛争解決の手段を理解することが紛争を解決するための足掛かりとなると感じました。
 印象に残った点は二つあります。一つ目は、二章の異文化に対する批判は暴力なのかについてです。異文化に対する批判は、そのコミュニティの中にいる側は日常や慣習と化していることなので気づきにくく、それが生活の一部や「当然」と当人が思っていることもあるため、なかなか「やめさせるべき」と判断するのは難しいことだと感じました。ある日自分が今まで当然と思って行ってきたことが他人からみたら「可哀想」「おかしい」と思われることであったとしたら、基準は一体どこにあるのかがわからなくなると思います。そのため、情報を自分で掴み、自分はその慣習を続けるのか、それともやめるのかを自身で判断するのが重要だと思います。もし当人がその慣習に嫌悪感を持っていたりする場合は、その感情を持っている人間はその慣習をやめるという選択をしてもよいのかと思いました。二つ目は、三章の紛争の当事者はなぜ正義を必要とするのかについてです。ヒーローは正義を主張し戦いますが、悪も悪で戦う理由、つまり悪といわれる側にも正義や信念があります。このように視点を変えれば、どちらもお互いが思う正義を主張して戦うため、互いの主義主張を理解するべきだと私自身も考えます。それから同章の、宗教が関わる紛争はこじれてしまうことについては、宗教によって信じるものやことが全く異なるのでお互いが本当の意味で互いの宗教を認めることは難しいと思いました。その上、この問題で私がそらしてはいけないということは、イスラム教過激派組織など解釈次第で宗教は全く変わってしまうことです。ひとつの正解を決めてしまえば、他の解釈は不可能であるから宗教の中にある解釈をする自由が消えてしまいます。しかし、現状維持のままでは異教徒の人質女性を売買や殺害されてしまうなど危険なことが絶えません。だからこそ、お互いが聞く耳を持ちどこに認識の差異があるのかを明確にして理解したうえで、正解ではなく、あくまでも軸となるような考え方をつくるべきだと考えました。
 次に疑問に思ったことは、特に五章の土地を巡る問題についてです。全ての領土は、確かに元を正せば誰の領土でもありません。誰かの領土に属さなければいけないという固定観念が自分たちを縛っているのだと思いました。では竹島や尖閣諸島など、二国間以上で争われている島々はもう「誰かのもの」にするのではなく、南極のように「誰のものでもないもの」になることは難しいのでしょうか。
 最後に、紛争が起きた際には私たちは赦すことが必要ですが、本当の意味で赦すことなどできるでしょうか。頭では赦すべきだとわかっていますが自分の大切な人を殺された場面に直面した時に犯人のことを赦せるでしょうか。互いに歩み寄ることは重要ですが、それを拒否してしまうとき、どのような対策をとるべきなのでしょうか。また、両者を互いに理解することが大前提で国際平和が訪れると考えますが、理解することが困難な場合はどこかで納得できるような点を作るべきだと思います。その大前提として自分たちが国際的な仕組みを理解し現状を考えることで、少しずつ紛争に限らず争い事が解決できる方向に日々向かっていると信じたいです。

上杉返答:例えば、尖閣諸島は、あたかも存在しないかのように、国境を確定するといった対策は可能です(実際にしています)。係争地以外の領土と領土の中間に擬似的な国境を引いてしまうのです。南極のように、「誰のものでもないもの」とは、違いますが、実質的には、誰も所有することのメリットを得ていない状態です。赦すということは、どういうことなのだろうか。深堀するといいと思います。紛争を避けるうえで許容できる最低限の「赦し」の行為や態度とは、どういうものなのか。この思考法が有益な視点を与えてくれます。

余裕と平和の探求

 私がこの本を読んでいて感じたことは「余裕がなさすぎる」ということだ。誰もがみんな武力で争うことを望んでいるわけではないのに、今もなお武力衝突が続いている。「なぜしたくもない争いをするのだろう?」と長年疑問に思っていたが、今回この本に出会ってその答えが見えたように思えた。というのも、前述したように今を生きる人々には余裕がないから武力に頼るのではないだろうかと考えたからだ。具体例としてテロリストを挙げようと思う。本の第三章に述べられているように、テロリストたちの行動の動機は、「法律に従って自らの主張を訴えてきたが、何度も無視されてきたためテロ行為に走るしかなかった」というものである。これは、もしテロリストたちの主張が国に聞き入れられていれば展開は違うはずである。そもそも、国民が国に訴えかける前に政策を講じて国民の生活が良い状態で保たれていれば何も起きずに済むと考える。そうならないのは、国(政府)にも国民にも心にゆとりがないからだと私は考える。そのため、140ページに掲載されているジョン・ポール・レデラックの言葉の中にある「激情に促されて反射的に行動するのではなく、まず深く深呼吸をしよう。」という部分を多くの人が実践し、罪のない犠牲者を出さずに問題解決に働きかけることができれば、テロリストの温床を減らすことができるのではないだろうか。
 ここまで主にテロリストについて述べてきたが、この本はもっと色んな視点から平和と現在の国際社会や問題について述べている。まず、そもそも「紛争」とは何かについて始まり、その言葉の定義や混同しがちな「戦争」との違いを明確にした後で、なぜ紛争が起こるのか(終わらないのか)について書かれている。第二章と第三章ではそれぞれ紛争に用いられる「暴力」と「正義」について書かれており、第二章では暴力の種類と、その中でも平和を保つために必要な暴力について、また、文化が異なるが故に起きてしまう暴力などについて書かれている。第三章で書かれている「正義」は、他国の紛争に大国が「正義」を掲げて介入することの正当性や宗教がらみの紛争、それからテロリストについて書かれており、紛争の解決が一筋縄ではいかないこと、良かれと思えることでも視点を変えるとその行為に対して疑問が生じる場合があることなどが挙げられている。第四章では平和をどう保つかについて書かれており、現在の国際社会において保たれている平和がいかに危ういか、そしてそれが崩れてしまった場合の対抗措置を誰が、どうとるのかを考える必要があるように感じた。それらを踏まえて第五章では紛争の解決方法について書かれており、「暴力」に頼らず会話を通して平和的合意に至るためのコツやプロセスについて書かれている。 
 私がこの本にツッコミを入れるのであれば、第四章の「国連は虐殺の被害者を救えないの?」の項にしたい。正確にはその中身よりも、救えていないことに対して「残念ながら、これが今の国際社会の現実なのです。」で終わってしまっていることに納得がいかない。今現在も世界のどこかでは争いが続いていて支援が必要な人々が大勢いる中で、これからを担っていく私たちがその状況を遠巻きに教科書の中で学ぶだけでは、いつまでも根本的解決につながらないと感じる。もっと一人一人が争いの現場に目を向けて、正しい情報をもとに自分に何ができるかを考えて行動を起こせば、国際社会の機関頼りの現状は変わるのではないだろうか。

上杉返答:最後の点は、まさにご指摘のとおりです。現状を認識するだけでは、現状は変わりません。認識したうえで、次にどのような手を打つのか。本書が、皆さんの次の一手を考えるきっかけとなれば、望外の幸せです。同時に、次の一手を打つための方法や思考法をお伝えしておくべきだったかもしれないと思いました。

紛争解決の視点とメディア

 今回テキストとして用いられた本書は、紛争解決学の視点から、世界で起きている争いを止めるにはどうすれば良いかが述べられている。「17歳からの」とあるように、身近な例や分かりやすい語句で分かりやすく説明がなされているのが特徴である。
 本書は「暴力は争いを解決できるのか?」や「正義とは?」など、マクロな視点のテーマを設定した上で、実際の紛争の事例や実地に赴いた筆者の経験を交えながら、ミクロな視点でテーマの考察がなされていく。その中で、同盟や人道的介入など実際に紛争の解決や防止に用いられる手段は果たして有効性があるのか検討されるが、いずれも有効な事例もあるが欠陥もあることが述べられており、紛争解決において完璧な手段は存在しないことがいえるだろう。
 では、争いは止められないのかというとそういったわけでは無く、実際の事例などを見ることで、解決のための重要な視点が見えてくる。筆者はそれを最後の章で「正と誤で争わない」、「勝利ではなく満足を」、「思い込みを捨てる」、「二者択一で考えない」、「自分の心の動きを観察する」、「相手の主張に耳を傾ける」(p232)の6点でまとめている。
 今回本書を読んで特に印象的だったのが、文化的暴力についての記述である。着物や振袖のような文化は、日本人の私から見ると全くおかしなものには見えない。また、小学校の給食にくじらのから揚げが出たことがあるが、それに憤りや不自然さを覚えたことは一回もなかった。しかし、そうした文化が外国の人にはおかしく見えることがあるというのは新たな気づきであった。
 以前英語の授業でネイティブの先生に「日本の大学生は授業の後半になるとあまり来なくなるが何故なんだ」と言われたことを思い出した。私はその発言に憤ったりはしなかったが「言われれば確かにそうだな」と感じたのを覚えている。その先生の話を聞くと、海外の大学は成績の評価が非常に厳しく、成績優秀でないと簡単にドロップアウトしてしまうのだそうだ。私たちはある程度の要件を満たせば多少の単位を落としても卒業できてしまう日本の大学の仕組みに慣れてしまい、それがおかしいとは思えない。しかし、その文化圏で生きてきた先生にはそれがおかしく見えたのだろう。人種や性別の差別とは少し違うかもしれないが、文化の違いによる認識のギャップは生活の様々なところにあると本書を読んで改めて感じた。
 世界の様々な紛争地を歩いてきた筆者による紛争についての考察は、確かに説得力があるものだ。しかし、本書には一つ重要な視点が抜けているのではないかと感じた。それは、新聞やニュース、SNSなどのメディアの存在である。
 私たちは実際に現場にいる人に直接話を聞かされて情報を得ているわけでは無いので、世界中から出来事を拾ってくるそれを教えてくれるメディアを頼りにする。それらは民意を形成し、時として大きな人の動きに発展する性質がある。例えば、後にシリア内戦という紛争に発展した、アラブの春という革命運動はSNSがデモの呼びかけや、同じ思いを持つ人を繋げる役割を果たした。他にも、ロシアとウクライナの両国で起きている紛争についての報道も、ロシアに抵抗する正義のウクライナという認識を形成し、それをみた人々がSNSで発言することで、その認識を補強する構造があるのではと考える。こうしてみると、急速に情報化社会が進む中、紛争も少なからずその影響を受けていると言えるだろう。これからの紛争の姿を考えるならこれらのメディアの存在はやはり無視できないものではないだろうか。

上杉返答:私もメディアの役割は重要だと考えます。メディアが媒介だとすれば、情報や分析が、どのようにメディアを通じて人々に共有されるのかは、集団心理や認識の形成に極めて重大な影響を及ぼすからです。紛争解決を考えるとき、人々のメディアリテラシーの側面とメディア自身の紛争解決、もしくは紛争助長の両刃の役割について、考察を避けることはできないでしょう。

紛争解決の視点と問題点

 本を読んで「へぇー」と思った点は、まず第1章では、民族、宗教、思想の違いは紛争の根本的な「原因」ではなく紛争に利用される「手段」であるということが挙げられる。確かにこれらは紛争の実行を裏付ける要素であるが、紛争を起こすきっかけではないと感じた。第2章では、国家が暴力を行使してくれるから私たちが安心して暮らせるということが印象的だった。力による実力行使が無ければ秩序は保てないので、これは確かにそうだなと思った。第3章では、リーダーが目標達成のため、紛争を起こす手段として「正義」を掲げるという点が挙げられる。自分たちの正義があるから戦うのではなく、戦う手段として正義を掲げることが印象深かった。第4章では、アメリカと台湾の間に、実際の同盟関係がなくても守ると宣言するだけで中国に対する抑止効果になっているということに「へぇー」と感じた。第5章では、紛争当事者の紛争に対する考え方を変えさせるという視点が、私にはなかったため印象深かった。確かに紛争を続けてもメリットがないということを当事者に分からせることは大切だと思った。第6章では、感情をコントロールすることが必要ということが印象に残った。またこれは仲裁者の立場でも、当事者の表面的な態度や感情の裏にある思いを汲み取ることが大切だといえると思った。
 この本は、紛争を防ぐ、または解決するにはどうしたら良いかということをテーマとした本である。第1章では、そもそも紛争とは何か、なぜ起きるのか、なぜ終わらないのかということや、紛争の構造や、紛争の解決とはどのようなものかということについて述べられている。第2章では、争いにおける「暴力」について、間接的な暴力、文化的暴力、正当防衛の暴力、国家が行使する暴力など様々な暴力が紹介されている。第3章では紛争における「正義」について、紛争当事者や人道的介入をする国などの視点から語られている。第4章では国際社会における安全保障や抑止について述べられている。第5章では争いの解決方法が紹介され、第6章では争いを避けるため、解決するために大切なことがまとめられている。
 ツッコミどころについては3つの点に絞って述べたい。まず、第2章で内戦を防ぐために国家に権力を正しく使わせることが必要だと書かれていたが、国外からの圧力や要請によって政府を良い政府に変えようと試みれば内政干渉になってしまう。そのため、この問題の解決は困難であり、まして内戦を未然に防ぐことは不可能ではないかと思った。次に、第4章で取引があるから同盟が成立するという話があったが、交換条件がなくても共通の敵がいて同じ利害を共有していれば同盟関係は築けるのではないかと思った。日米同盟の例では日本がアメリカに守ってもらう代わりにアメリカに基地を提供してあげたとあるが、そもそもアメリカはロシアや中国と対立していたため日本が戦略的に重要であり、日本が共産主義圏に飲み込まれてはいけなかった。そのため、基地の問題ではなく、ロシア・中国といった共通の敵がいて、アメリカは日本を自らの陣営に確保しておきたく、日本はアメリカに敵から守ってほしかった、という条件だけでも良かったように思われる。最後に、第5章で領土をめぐる問題に関して、初めはどの国にも属していなかったのだから共同統治すればいい、というところがあったが、これは単純化しすぎていると感じた。もともとはいずれの領土でもなかったとしても、それぞれの国境ができる前の歴史と結びついているから問題が複雑化して難しくなっているわけで、「主権独立」「領土」という概念を今さらなくすのも無理があると思う。

上杉返答:内戦を未然に防ぐことは不可能という指摘について、内戦に陥っていない地域もあることを考慮すると、全く不可能ではないかもしれない。重要なことは、どういう条件がそろえば、内戦になり、どういう条件が維持されれば内戦に陥らないのかを知ることだろう。在日米軍基地の指摘は、後から振り返れば、そういえるだろう。当時の為政者や国民に、その分析ができていれば、事態は変わっていたかもしれない。同時に、米軍基地が日本領内になく、日本が非武装化されていた場合に、どれだけ日本の安全が担保できるのか、という別の視点で検討する必要が生じてくる。歴史上の既存の概念は、何度も塗り替えられてきた。奴隷制度や植民地など。だから、絶対に無理と諦めるのではなく、変えていく方法を探す方に私は価値を見出します。

紛争解決の深層と影響

 紛争解決学とは「紛争を解決するための学問」だと述べているが、ここだけを読むと抽象的過ぎて言葉の真意をつかみにくい。類語として平和学や国際関係学を思い浮かべるが、筆者がどうしてそれらを用いなかったのかはこの本を読み進めることで分かる。それは前述の二つの学問では国家間での対立が中心となって研究されることが多いが、紛争解決学では国家間での対立に留まらず国内の内戦やテロリズムも学問対象にしているからだろう。紛争という言葉は国家間の対立を連想させる。しかし現実では個人間や集団間などでも発生し、その全てにおいて解決が求められる。現実に起こる諸問題の解決を促すことが出来るのが紛争解決学だろう。私がへぇとなったのは第六章の個人が争いを避ける為に意識することである。この章で挙げられている例えば思い込みを捨てる、相手の主張に耳を傾けるなどといった点は争いに限らず日常生活でも実践出来る。この本を読むことで、今まで他人事であった紛争が身近になるように思える。世界各地で争いが起こっている現在、紛争を自分事として捉え、それを意識して生活することが大切なのではないだろうか。
 この本は全六章で構成されており、第一章は紛争とは何かという問いから始まっていく。紛争のポイントや分類などがここで紹介される。第二章では争いに密接に関わっている暴力について述べられている。暴力には二種類あり、直接的暴力と間接的暴力に分けることが出来る。この違いは加害者と被害者の関係性であり、特に間接的暴力では加害者を明らかにすることが難しい。その他にも和服やブルカといった文化的暴力にも触れている。第三章では正義に焦点を当てて語られている。暴力と正義という一見相反する概念がどうして結びつくのかについて、筆者は当事者が自身を正当化する理由として正義が必要であるからだと解説している。第四章では世界の平和という抽象的な概念について触れている。国際社会の原則や国際連合の限界を示した後、筆者はこの章を、平和を維持する国際体制はまだ模索中であると閉めている。第五章から紛争の解決策について実例を出し、どのようにして紛争が終わったのか、そして複雑な紛争を解決するポイントや、仲裁者、和解の要素等を述べている。第六章では個人が争いを避ける為に意識することがまとめられている。
 第二章に国が望まない暴力を使ったら?という節がある。この節で筆者は法治国家であるアメリカでの銃について説明している。そこでアメリカの市民が武装し革命を起こしたとしても、連邦政府はアメリカ軍を所有しており革命の成功は難しいだろうと述べている。その筆者の意見に異論はない。だがその一方で国家が武力を行使した場合、別の問題が浮上すると考える。それはアメリカ国内の平和維持が難しくなるということである。作中で革命が例に使われているので、そのまま書評でも革命を例に使うが、市民が武力を用いた場合、早急に対処するにはアメリカ政府側も武力を行使して対抗することになる。武力衝突の発生は怪我人や死者を増やすだけではなく、町の破壊も付随してくる。衝突によりインフラが破壊され社会に悪影響を引き起こすと、革命によって起こった紛争に直接的に関係の無かった人達が巻き込まれることとなる。この本では市民の自衛については触れられているが、公共物の破壊等は考慮されていない。国家が暴力を行使することで問題を短期的に解決することは出来るが、解決までの過程がその国家の社会に対してマイナスな影響を与えることになると考える。

上杉返答:ご指摘のとおり、国家による暴動の鎮圧が激しさを増せば、インフラの破壊につながる。内戦が激化した地域を見れば、それは一目瞭然だ。他方で、国家による暴動の鎮圧には工夫が施せる。実際、実弾ではなく水や煙を使って対処したり、暴動の鎮圧だけではなく対話の機会を設けたりする措置を組み合わせることで、緊張の緩和に繋げることはできます。


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