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テクノ・リバタリアンたちに影響を与え続けるアイン・ランド哲学のエッセンス

アメリカの起業家、テクノ・リバタリアン、知識人たちに今でも多大な影響を与え続ける作家/思想家アイン・ランドのエッセイ集『SELFISHNESS(セルフィッシュネス) ―― 自分の価値を実現する』「はじめに」公開

はじめに Introduction

「どうして『セルフィッシュ(利己的)』なんていう言葉を、人の立派さを表すのに使うんです? あなたの言う意味を理解できない多くの人たちを敵に回すばかりだというのに」。この本のタイトルを見て、そんな質問をしたくなる人もいるかもしれません。よくされる質問です。
 この質問にはこう答えましょう。「だからこそ、この言葉を使うのです」
 その一方で、「こんな質問をしたくなるのは、道徳的に臆病だからだ」ということにうすうす気づいて、あえて口を閉ざしている人もいるでしょう。それでいながら、どうして私がこの言葉を使うのかはっきりわからない人もいるでしょう。この質問にはある重大な道徳問題が関わっているのですが、そのことを見抜けない人もいるでしょう。このような人には、もっとていねいな説明をしたいと思います。
 これは単なる言葉の意味の問題ではありません。人の好き勝手に任せてよい問題でもありません。多くの人が「セルフィッシュネス」という言葉に与えている意味は、単に間違っているだけではありません。この間違った使いかたの裏には、人類の道徳的進歩を妨げた最大の要因である、あるひどい不正が隠れています。
 一般に「セルフィッシュネス」という言葉は、悪と同じ意味で使われています。この言葉からイメージされるのは、自分の目的を達成するために他人の死体の山を踏みつけて進む、残忍なけだものです。他の生きもののことなどいっさいかまわず、その時々の自分の欲望を満たそうとする獣です。
 しかし「セルフィッシュネス」という言葉の正しい意味は、「自分の利益を重んじること」です。
 この概念自体に、道徳上の評価は含まれません。「自分の利益を重んじることは善なのか、それとも悪なのか」という問いへの答えは、セルフィッシュネスという言葉からは出てきません。「人の利益は、実際はどんな要素で成り立つのか」という問いへの答えも、セルフィッシュネスという言葉からは出てきません。これらの問いに答えるのは、倫理学の仕事です。
 これらの問いへの答えとして、利他主義の倫理学が作り上げたのが、あの獣のイメージでした。その目的は、二つの非人間的な教えを人々に受け入れさせることでした。一つ目は、自分の利益を重んじることは、どんな利益であれ悪であるという教えです。二つ目は、獣の行動は、(利他主義では隣人のために放棄しなければならないとされる)本人の利益にかなうという教えです。
 利他主義の性質、帰結、そしてそれがもたらす道徳的腐敗の深刻さについては、『肩をすくめるアトラス』を読んでください。あるいは、最近の新聞の見出しをどれでも読んでみることです。ここで問題にするのは、倫理の分野での利他主義の破綻です。
 利他主義は、(一)「価値とは何か」(二)「誰が価値の恩恵を受けるべきか」という二つの問いを一緒くたにし、前者を後者ですり替えてしまいます。それによって道徳価値体系を定義することを避け、実質的に人から道徳的指針を奪っているのです。
 利他主義はこう宣言します。「他人のためにする行動は、すべて善だ。自分のためにする行動は、すべて悪だ」。つまり、誰が行為のかだけが道徳の基準なのです。利益を得るのが自分以外でありさえすれば、どんな行為も許されるというわけです。
 その結果、人類の歴史を通じて、さまざまに形を変えた利他主義倫理のもと、ぞっとするほどの不道徳、慢性的な不正義、グロテスクなダブルスタンダード、解決不能な対立と矛盾が人間関係と人間社会の特徴になってきたのです。
 今日まかり通っている道徳評価が、どれほど醜悪か見てください。富を築く実業家も、銀行を襲うギャングも、等しく不道徳と見なされています。どちらも「利己的な」利益のために富を追求するからです。親の介護のために出世をあきらめて、雑貨屋の店員以上の地位を求めないことにした若者は、苦しい努力に耐えて自分の志を達成する若者よりも、道徳的に優れていると見なされています。独裁者は道徳的と見なされています。独裁者が暴虐の限りを尽くしたのは、自分ではなく「人民」の利益のためだったから、というのがその理由です。
 このような利他主義の道徳が、個人の生きかたにどんな影響を与えているか見てください。人がまず学ぶのは、「道徳は自分の敵だ」「道徳から自分が得られるものは何もない。自分は失うばかりだ」「道徳に期待できるのは、自分で招く損失と苦痛、そして憂鬱で理解不能な重苦しい義務だけだ」ということです。他人のために自分がいやいや犠牲になるのと同じように、自分のために他人が犠牲になってくれることも、ときには期待できるかもしれません。しかしこのような関係がもたらすのは、互いの喜びではなく、互いの憤りです。利他主義の道徳では、相手が欲しがってもいなければ選んでもいない、そして自分自身のために買うことは道徳上許されないクリスマスプレゼントの交換のようなものが、道徳的な価値追求ということにされます。利他主義の道徳では、自分自身をなんとか犠牲にするとき以外、自分に道徳上の重要性はまったくありません。道徳は、自分のことを認識しないのです。自分の人生の重大問題に関して指針になることを、道徳は何も提供しません。自分の人生の問題は個人的な、私的な、「利己的な」問題で、それゆえ悪ということにされます。あるいはせいぜい、道徳とは無関係なこととされます。
 人間は、自動的に生きる術を自然から与えられていません。人間は、自分のいのちを自分の努力で維持しなければなりません。だから、自分の利益を重んじることは悪だという教えが意味するのは、人間の「生きたい」という欲望は悪だということです。人間のいのちはそれ自体が悪だということです。これ以上邪悪な教えはあり得ません。
 ところが、これこそが利他主義の意味なのです。実業家をギャングと同等に見ることからも、それはわかるでしょう。生産することが自分の利益になると考える人と、強盗することが自分の利益になると考える人のあいだには、道徳的に根本的な違いがあります。強盗犯が悪いのは、自分の利益を追求するからではありません。自分の利益にかなうと考える行為のがおかしいからです。自分にとっての価値を追求するからではありません。選んだ価値のがおかしいからです。生きることを望んでいるからではありません。人間未満の水準で生きることを望んでいるからです (第一章「オブジェクティビズム倫理学」を参照してください)。
 私が使う「セルフィッシュネス」の意味がもし一般的な意味と違うなら、そのこと自体が、利他主義の重大な罪を暴いています。その罪とは、利他主義が自立自尊の人という概念を認めないことです。つまり、自分も他人も犠牲にせず、自分の努力で生き抜く人という概念を認めないことです。いけにえと生贄へのたかり屋以外の人間観を、つまり犠牲者と寄生者以外の人間観を認めないことです。人間どうしの善意に基づく共存という概念を、つまりという概念を認めないことです。
 今日ではたいていの人が、冷笑と罪悪感のごった煮にまみれて生きています。なぜこんなことになっているのでしょう? その理由はこうです。冷笑は、彼らが利他主義の道徳を実践していないし、受け入れてもいないからです。罪悪感は、彼らが利他主義の道徳を勇気をもって否認しないからです。
 これほど破壊的な悪に立ち向かうためには、その根本原理に立ち向かわなければなりません。人間と道徳性を回復させるには、セルフィッシュネスという概念を回復させなければなりません。
 その第一歩は、として主張することです。つまり、人は自分の人生の道筋を正しく選ぶためにも、自分自身の人生を成就するためにも、よりどころになる道徳律を必要としているという事実を認めることです。
 合理的な道徳とはどのようなもので、その正当性をどう証明できるのかについては、このあとに続く私の講演「オブジェクティビズム倫理学」でアウトラインを示しました。なぜ人は道徳律を必要とするのかが理解できれば、道徳の目的が人間にとって適切な価値と利益を定義することであることも、道徳的に生きる上で自分の利益を重んじることが不可欠であることも、人が自分自身の行為の受益者でなければならないことも理解できるでしょう。
 あらゆる価値は、人々の行為によって獲得され、維持されなければなりません。ですから、行為の主体とその受益者を切り離せば、一つの不正義が必然化します。その不正義とは、一部の人たちが、別の人たちの犠牲にされることです。行動する人たちが、行動しない人たちの犠牲にされることです。道徳が、不道徳の犠牲にされることです。このような切り離しは、絶対に正当化できません。
「誰が行為の利益を得るのが、道徳的に正しいか」という問いは、道徳全体の中で入り口の問題に過ぎません。利他主義がそうしてきたように、この問いに対する答えを道徳そのものに代えたり、道徳の基準にしたりすることはできません。また、この問いに対する答えは、道徳の根本原理でもありません。この問いに対する答えは、道徳体系の根本になる前提から導き出し、立証しなければならないものです。
 オブジェクティビズム(客観主義)倫理学では、人が行動するときには常に自分自身がその行動の受益者でなくてはならず、自分自身の合理的自己利益のために行動しなくてはならないとしています。しかし、そうする権利は、人の本来の人間的性質と、人が生きる上での道徳的価値の機能とから生ずるものであり、したがってここでいう自己利益とは、合理的かつ客観的に実証可能な道徳原則によって定義・決定されるものに限定されるのです。これは「好き勝手にしていい」という免罪符ではなく、利他主義者がイメージする「わがままな」獣や不合理な感情・衝動・願望・気まぐれによって動かされる人間には当てはまらないものです。
 わざわざこれを書いたのは、自分の利益のために行うならどんな行動でもすべて善だと信じている、いわゆる「ニーチェ主義的」エゴイストたちへの警告としてです。彼らは、いわば利他主義道徳の産物です。彼らは、利他主義のコインの裏側を見せているのです。自分の不合理な欲望が満たされるかどうかは、道徳の基準にはなりません。それは、他人の不合理な欲望が満たされるかどうかが道徳の基準にならないのと同じことです。道徳は、気まぐれどうしの序列を決めるコンテストではありません(ブランデン氏による章「個人主義」および「誰もがセルフィッシュでは?」を参照してください)。
 同様の間違いは、人は自分の独立判断に導かれるのだから、どんな行動を選択しても自分で選んでいれば道徳的だ、という考えです。自分で独立した判断を下すことは行動を選択する際の手段ですが、それは道徳基準でもなければ、道徳的正しさを実証するものでもありません。明白な原則によらずに選択の正しさを実証することはできないのです。
 人は行き当たりばったりの方法では生き残れません。生きるために必要なさまざまな原則を、人は発見して実践しなければなりません。同じように、何が自分の利益かは、その時々の自分の欲望や気まぐれでは判断できないのです。合理的な原則に基づかなければ、人は自分にとっての利益を発見することも、実現することもできません。オブジェクティビズム倫理学が自己利益の道徳であり、セルフィッシュネスの道徳だというのは、こういうわけなのです。
 セルフィッシュネスとは「自分の利益を重んじること」ですから、オブジェクティビズム倫理学ではこの概念を本来の純粋な意味で使います。この概念を、人類の敵たちにゆだねるわけにはいきません。無知で不合理な人たちの、愚かしい誤解や歪曲や偏見や恐怖にゆだねるわけにはいきません。セルフィッシュネスへの攻撃は、人間の自尊心への攻撃です。セルフィッシュネスを譲り渡せば、自尊心も譲り渡すことになります。
 最後に、この本の成り立ちについてひと言。第一章の講演を除き、この本は『オブジェクティビスト・ニューズレター』誌に掲載されたエッセイをまとめたものです。『オブジェクティビスト・ニューズレター』はナサニエル・ブランデンと私が編集・発行する月刊の思想誌で、今日の文化におけるさまざまな問題にオブジェクティビズム哲学を適用して論じています。日々の事象について、哲学的な抽象論とジャーナリズム的な具体論のあいだのレベルの論考を行う雑誌です。体系的で一貫性ある思考の枠組みを提供することが、この月刊誌の目的です。
 この本は、倫理学を体系的に論じた本ではありません。倫理に関して、今日論じる必要性が高いテーマのエッセイを集めたものです。つまりこの本では、利他主義の影響で人々が特に混乱している諸問題を扱っています。タイトルが質問形式になっている章がいくつかあります。これらは読者からの質問に答えるコーナー「知のへいたん」に掲載されたものです。

アイン・ランド
ニューヨーク、一九六四年九月


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