アイン・ランドのオブジェクティビズム倫理学①
アメリカの起業家、テクノ・リバタリアン、知識人たちに今でも多大な影響を与え続ける作家/思想家アイン・ランドのエッセイ集『SELFISHNESS(セルフィッシュネス) ―― 自分の価値を実現する』「第一章」公開
オブジェクティビズム倫理学 The Objectivist Ethics Ⅰ
今日お話しするのは、オブジェクティビズムの倫理学についてです*1。ですから最初に、この倫理学を最も体現する人物の言葉を引用しましょう。小説『肩をすくめるアトラス』のジョン・ゴールトです。滅亡していく世界の人々に向けて、ジョン・ゴールトがラジオ放送で行った演説の一節です。
*1 一九六一年二月九日、ウィスコンシン大学(ウィスコンシン州マディソン)での講演。
善悪は主観なのか?
道徳、倫理とは何でしょうか。それは、人の選択と行動を導く価値体系です。その選択と行動が人生の目的と道筋を決定するのです。倫理とは、そういう体系を発見し、定義することに取り組む科学です。
ここで、どんな倫理体系であっても、それを定義、判断、または受け入れようとするための前提として、最初に答えなくてはならない問いは、「なぜ人は価値体系を必要とするのか」です。
これは強調しておきます。最初に問うべきなのは、「どんな価値体系を採用すべきか」ではないのです。最初に問うべきなのは「人は価値を必要としているのか、そしてなぜ必要としているのか」です。
価値や善悪という概念は、現実世界に由来せず、根拠を持たない人間の恣意的な創作なのでしょうか。それとも、何か形而上学的な事実、つまり人間が生きる上で不変の条件に根拠を持つ概念なのでしょうか(私は「形而上学的」という言葉を、「そのものの現実性や本来的性質や存在に関わる」という意味で使います)。一貫した原則に基づいて人間が行動すべきだとするのは、根拠のない慣習によるものでしょうか。それとも客観的現実が要求するものなのでしょうか。倫理とは、気まぐれ、気分、社会の命令、神のお告げの支配する世界なのでしょうか。それとも、理性の支配する世界なのでしょうか。倫理は主観的な贅沢品なのでしょうか。それとも客観的な必需品なのでしょうか。
情けないことに、歴史上の道徳家たちはほぼ全員が、倫理は気まぐれに支配される、つまり不合理に支配されると考えてきました(例外も何人かいましたが、その中に成功したと呼べる道徳家はいません)。意図的にそう明示した道徳家もいましたし、主張の矛盾に陥ることでそう暗示した道徳家もいました。「気まぐれ」とは、自分の欲望の原因を知らず、知ろうともしない人が経験する欲望です。
「なぜ人間には倫理が必要なのか」という問いに、哲学者はこれまで誰一人、合理的な答えを出せていません。つまり客観的に立証できる、科学的な答えを出せていません。この問いに答えられない限り、合理的で科学的で客観的な倫理体系は発見できませんし、定義もできません。最も偉大な哲学者であるアリストテレスは、倫理学を厳密な科学と見なしませんでした。彼の倫理学は、同時代の高潔で賢明な人物たちの行いの観察に基づいています。「なぜその人物たちはその行いを選ぶのか」「なぜその人物たちを高潔で賢明と評価できるのか」という問いには、彼は答えていません。
神や社会をよりどころにする道徳が行き着く果て
たいていの哲学者は、倫理が存在することを当然の歴史的事実として疑わず、その形而上学的原因にも客観的実証にも関心を持ちませんでした。その多くは、倫理を神秘主義の伝統的独占から解放しようとし、合理的で科学的な非宗教的な道徳を定義したとされています。しかしその試みは、単に神を社会に置き換え、社会的な根拠によって倫理を正当化しようとしただけだったのです。
神秘主義者を自認する人たちは、恣意的で説明不能な「神の意志」を善の基準にし、自分たちの倫理を正当化しました。一方、新神秘主義者たちは「善の基準は社会にとって善いことだ」という循環的定義を持ち出し、神を「社会の善」で置き換えたのです。すなわち、「社会」こそがすべてに君臨する倫理原則となるという論理、そして現代社会の現実になったのです。社会こそが倫理の源泉であり、基準であるからです。社会の意志によって、社会が幸せと喜びだと言い張るものこそが「善」だということになるのです。つまり、「社会」は何でも好きなものを「善」として選ぶことができ、「社会」が選んだからこそそれが「善」になるというわけです。「社会」という実体はなく、複数の個人の集合に過ぎないわけなので、社会を代表すると称する一味が自分たちの気まぐれを倫理的に追求すべきだと言い張り、それ以外の人たちが倫理的に従う義務がある、という話になるのです。
これはとても合理的とは呼べないものですが、今ではたいていの哲学者が、理性は破綻した、倫理は理性の力の外にあるものだ、合理的倫理学は決して定義できない、倫理の領域すなわち人の価値・行動・追求・人生目標において人は理性以外の何かによって導かれるべきだ、と断言することになっています。では理性以外の何によってでしょうか。信仰・本能・直観・神の啓示・感情・趣味趣向・衝動・願望、気まぐれによってです。今も昔もたいていの哲学者は倫理の究極的基準を気まぐれ(彼らの呼びかたは「恣意的仮定」「主観的選択」「感情的コミットメント」など)とすることで合意しており、唯一の違いは「誰の」気まぐれか、自分の、社会の、独裁者の、神の気まぐれかの問題だけです。今日の道徳家たちは、他のどんな点で見解が対立していても、倫理は主観的な問題であり、理性・頭脳・現実の三要素は、倫理の領域から排除されるという点では見解が一致しているのです。
今なぜ世界が地獄の底へと転げ落ち続けているのかと言えば、これこそがその理由です。
みなさんが文明を守りたいなら、みなさんが立ち向かわなければならないのは、倫理に関するこの前提です。
善悪はいのちあるものだけに関わる概念
どんな原則でも、その基本的な前提に立ち向かうためには、原点まで立ち戻らなければなりません。倫理の場合は、こう問うところから始めなければなりません。価値とは何でしょう。なぜ人間は価値を必要とするのでしょう。
価値とは、それを獲得し維持するために、人が行動するものです。価値は、根本概念ではありません。「誰にとって価値があるのか」「どのような目的に対して価値があるのか」という問いへの答えを前提とする概念です。他にも選択肢がある中で、特定の目的を達成するために行動できる主体を前提とする概念です。選択肢がないところでは、どんな目的も価値も存在し得ません。
ジョン・ゴールトの演説から引用します。
この点を十分理解していただくために、死ぬことがないロボット、絶対に壊れないロボットを思い浮かべてください。このロボットは活動しますが、何からも影響を受けません。変化することがないのです。故障することも、傷がつくことも、破壊されることも、絶対にありません。このような物にとって、価値は存在しません。このロボットには、得るものも失うものもありません。自分の味方になるものも、敵になるものもありません。自分の幸福に役立つものも、幸福をおびやかすものもありません。自分の利益を実現するものも、妨害するものもありません。このようなロボットにとっては、利益も目的も存在し得ないのです。
目的を抱いたり、目的を生み出したりできるのは、生きているものだけです。目的を目指して自分で活動できるのは、生きものだけです。生理レベルで言えば、生きものの運動はすべて、ある一つの目的を目指す活動です。その目的とは、自分のいのちの維持です。これはアメーバの消化機能のような単純な運動から、人体の循環機能のような複雑な運動まで、すべてそうです*2。
*2 「目的を目指す」という言葉は、生物の自動運動のような自然科学的現象に使われる場合、「意図を持った」という意味に理解しないでください。また、無知覚の自然界を目的論的な原理が支配することを示唆しているとも理解しないでください。「意図」というのは、意識的な活動だけに使われる概念です。私がここで「目的を目指す」という言葉を使ったのは、「生物の自動運動は、その生物自身の生命の維持に帰結する性質の活動である」という事実を示すためです。。
「~べき」は「~である」から導かれる
生きもののいのちは、二つの要因に依存しています。一つは材料、つまり養分です。これは外部から、つまり環境から取り入れなければなりません。もう一つは、自分の体の活動です。つまり、取り入れた養分を適切に利用する活動です。ここで何が適切なのかを決める基準は何でしょう。その生きもの自身のいのちです。自分が生き抜くために、何が必要かです。
この点について、生きものに選択の余地はありません。生きるために何が必要かは、種としての生まれつきの性質が決めます。環境に応じて、自分のありかたをさまざまに変えることはできます。病気や障害がある状態でも、しばらく生きていることはあり得ます。しかし生きものである以上、「存在するか、しないか」という根本的な選択に直面していることは変わりません。種としての性質上欠かせない、基本的な機能が停止すれば、その生きものは死にます。アメーバの原形質が食物の同化を止めれば、アメーバは死にます。人間の心臓が鼓動を止めれば、人間は死にます。根本的な意味で、静止はいのちの対義語です。いのちは、自分自身を維持する不断の活動によってのみ、維持できます。このような自己維持活動の目的が、生きもののいのちです。いのちは、あらゆる瞬間を通じて獲得しなければ維持できない、究極の価値なのです。
究極の価値とは、それより下位の目的がすべてその手段になっているような、最終的な目的です。そして、それより下位のすべての目的の評価基準になる価値です。いのちは、生きものにとって価値の基準なのです。つまり、自分のいのちに資するものが善であり、自分のいのちをおびやかすものが悪なのです。
究極の目的が存在しなければ、下位の目的や手段が存在することもあり得ません。存在しない目的に向かって、手段の連続が無限に続いていくなどということは、形而上学的にも認識論的にもあり得ないことです。究極の目的だけが、つまりそれ自体が目的であるものだけが、価値の存在を可能にします。形而上学的には、いのちとはそれ自体が目的である唯一の現象です。いのちは、止むことのない活動のプロセスによって獲得され、維持される価値なのです。認識論的には、価値という概念は、それに先行する生命という概念から導かれます。価値という概念は、そもそも生命という概念に依存しているのです。価値をいのちと無関係なものとして語るのは、言葉の矛盾どころではない誤りです。いのちという概念だけが、価値の概念を可能にするのです。
究極の目的とか、価値といったものは、現実の事実との関係を証明できないものだと主張する哲学者たちがいます。こうした哲学者たちへの返答として、次の事実を強調しておきます。生きものにとって、さまざまな価値の存在を欠かせないものにしているのは、そして自分のいのちという究極の価値の存在を欠かせないものにしているのは、自分が生きて活動しているという現実そのものです。ですから価値判断の正しさは、現実の事実に基づいて証明できるのです。ある生きものがなすべきことは、その生きものの現実が決めるのです。「~である」と「~べき」の関係をめぐる議論は、これで十分でしょう。
植物は自動的に生きる
さて、人は価値という概念を、どのような手段で発見するでしょう。「善い」「悪い」を最初に、最も素朴な形で認識するのは、どんな手段によってでしょう。快楽と苦痛という肉体的な感覚によってです。人間にとって感覚は、意識の最初の段階です。これは認知に関わる意識だけでなく、評価に関わる意識についてもそうなのです。
快楽と苦痛を感じる能力は、人間の体に生まれつき備わっています。この能力は、人間という種の性質の一部です。この能力に関して、人間に選択の余地はありません。快楽の感覚をもたらすか、それとも苦痛の感覚をもたらすかを決める基準を、人間は選べません。その基準とは何でしょう。自分のいのちです。
人間の体に、そして意識を持つすべての生きものの体に備わるこの仕組みは、いわば生命の自動保護装置です。快楽の肉体的感覚は、その生きものが正しい方向の活動を追求していることを示すシグナルです。苦痛の肉体的感覚は、危険を警告するシグナルで、その生きものが誤った方向を向いており、何かが身体機能を損なっていて、それを修正する活動が必要なことを知らせています。このことが一番よくわかるのが、ごくまれに生まれる、肉体的苦痛を感じる能力を持たない子供です。こうした子供は長くは生きられません。自分の肉体を損なう可能性がある問題に気づく手段がないので、ごく小さな傷でも致命的な感染症になりますし、重大な病気にかかっても手遅れになるまで気づけないからです。
意識は、それを持つ生きものにとって、基本的な生存手段なのです。
植物のように単純な生きものは、体に備わる自動機能に従って生きることができます。動物や人間のような高等生物は、このような自動機能に従っては生きられません。ニーズがずっと複雑で、活動の幅がずっと広いからです。高等な生きものの体が自動で行えるのは、養分を消費する仕事だけです。養分を獲得する仕事は、自動では行えません。高等生物が養分を獲得するには、意識の働きが必要です。植物は、自分が生える土壌から食物を獲得できます。動物は、食物を狩らなければなりません。人間は、食物を生産しなければなりません。
植物には、活動の選択肢がありません。植物が追求する目的は、生まれつき自然によって定められています。栄養、水、そして日光が、植物が追求するように定められた価値です。自分のいのちが、自分の活動を決める価値基準です。気温の寒暖、土壌の乾湿など、植物が置かれる環境の条件はさまざまです。生存に不利な条件と闘うために、植物ができることも、ある程度はあります。たとえば、岩の下から日光を求めて這い出てくる能力を持つ植物もあります。しかしどんな環境下でも、植物の機能に選択の余地はありません。植物は、自分が生きるのに役立つ活動を自動的に行います。自分を破壊する活動は行えません。
動物にできること・できないこと
高等生物は、生きるためにもっと幅広い活動を必要とし、それはその生物の意識の幅広さに比例します。比較的低度な意識しか持たない生きものにあるのは、感覚の能力だけです。感覚だけでも、こうした生きものの活動はコントロールできますし、ニーズも満たせます。感覚は、外界からの刺激に対する感覚器官の自動的な反応で生まれます。感覚は、ごく短い時間しか保たれません。外界からの刺激が続くあいだだけ続き、刺激が終われば消えます。感覚は、自動的な反応であり、自動的な意識、つまり意識が求めることも避けることもできないものです。感覚能力しかない生きものは、快楽と苦痛を感じる生まれつきの仕組みに従って生きます。言い換えると、自動的な知識と自動的な価値体系に従って生きます。自分のいのちが、自分の活動を決める価値基準です。こうした生きものは、自分にできる活動の範囲内で、自分が生きるのに役立つ活動を自動的に行います。自分を破壊する活動は行えません。
高等生物には、ずっと強力な形態の意識があります。つまり高等生物には、感覚を保持する能力があります。これが知覚という機能です。知覚とは、あるひとまとまりの感覚が、脳内で自動的に保存されて統合されたものです。知覚のおかげで高等生物は、単一の刺激ではなく、物事の実体を認識できます。動物は、単なるその瞬間瞬間の感覚ではなく、知覚に従って活動します。動物の行動は、その時々の刺激に対するばらばらな反応ではなく、直面している現実の知覚を統一的に認識することで制御されています。動物は、目の前にある物を知覚的に把握できます。知覚した現実どうしを、自動的に関連づけて記憶することもできます。しかし、ここまでです。動物は狩りや潜伏など特定状況におけるスキルを学ぶことができ、高等動物の親はスキルを子に教えるものです。しかし動物は、習得する知識やスキルを選べません。同じ知識やスキルが、世代から世代へとくり返されるだけです。そして動物は自分の行動を左右する価値基準を選択することができません。感覚によって自動的に価値体系が与えられ、それが何が善で何が悪か、何が生きることを助け、何がおびやかすかを教えてくれるだけです。動物はこのような自動的な知識を、広げることも無視することもできません。自動的な知識で対応できない状況に陥れば、動物は死ぬだけで、高速で接近する列車を前に線路上で立ちすくむ鹿はその例です。しかし動物は生きている限り、選択の余地なく自分の知識に従って行動し、自動的な安全を確保します。動物は、自分の意識を留保できません。知覚しないことを選べません。自分の知覚からのがれられません。自分にとって善いことを無視できません。悪を選んで、自分自身の破壊者として振る舞うことができません。
人間には考えない自由がある
人間は自動的な生存の体系を持っていません。自動的な行動の方針も、自動的な価値の集合も持っていません。人間の感覚機能は、「自分にとって何が善で、何が悪か」「自分が生きるのに何が有益で、何が有害か」「どんな目的を追求するべきか、その目的はどんな手段で達成できるか」「自分のいのちはどんな価値に依存しているか」「自分のいのちはどんな行動を要求しているか」といったことを、自動的には教えてくれません。人間は、自分の意識によってこれらの問いへの答えを発見しなくてはなりません。ところが人間の意識は、自動的に機能するわけではないのです。人間は最も高度に発達した種であり、人間の意識には知識を獲得する無限の能力がありますが、意識を自動的に維持し続ける保証がない唯一の生物なのです。あらゆる生物の中で人間の傑出した特徴は、意識が意志的であるということです。
植物の体が従う自動的な価値体系は、植物が生きるのには十分でも、動物が生きるのには不十分でした。同じように、感覚-知覚メカニズムが動物の意識に与える自動的な価値体系は、動物の指針としては十分でも、人間の指針としては不十分です。人間は、概念的な知識から導き出した概念的な価値を指針にしなければ、活動することも生き抜くこともできません。ところが概念的な知識は、自動的には獲得できないのです。
概念は、複数の具体的な知覚を頭脳で統合したものです。その複数の知覚は抽象化というプロセスで特定され、具体的定義によって統一されます。固有名詞を除いて、人間の言語における単語はすべて必ず何らかの概念を指し示しており、その概念とは無数の特定の具体的事物を代表する抽象化です。これがポイントです。人間が無限の知識を把握して獲得し、特定して統合できるのは、知覚した材料を概念にまとめ上げた上に、その概念をさらに幅広い概念へと次々にまとめ上げていくことによってなのです。それによって目の前の知覚を超えて概念的知識を得ることができるのです。人間の感覚器官は、自動的に機能します。人間の脳は、感覚情報を自動的に知覚に統合します。しかし、知覚を概念に統合するプロセスは、つまり抽象化と概念形成のプロセスは、自動的ではありません。
概念形成は、いくつかの単純な抽象(たとえば「椅子」「テーブル」「暑い」「寒い」など)を理解して話せるようになる、というだけのプロセスではありません。概念形成のプロセスは、意識を特定の方法で使うことで成り立っています。それは「概念化」と呼ぶのが最もふさわしいプロセスです。それは印象をランダムに記録するような、受動的な状態ではありません。概念形成は、能動的に維持されるプロセスです。自分が受けたさまざまな印象を、概念的な用語で識別し、あらゆる出来事や観察を概念的な文脈に統合し、自分が知覚したさまざまな材料どうしの関係や相違や類似性を把握して新しい概念へと抽象化し、推論を引き出し、演繹を行い、結論を導き、新しい問いを生み出し、新しい答えを発見し、自分の知識を無限に広げていくプロセスです。このプロセスをつかさどる能力が理性です。つまり理性とは、このプロセスを概念という手段で機能させる能力です。このプロセスを思考と呼ぶのです。
理性は、感覚から与えられる材料を識別して、統合する能力です。理性は、人間が選択によって行使しなければならない能力です。思考は、自動的な機能ではありません。人間は生きている限り、あらゆるときに、あらゆる問題について、「考えるか、それとも考える努力を回避するか」を自由に選べます。考えるには、焦点がはっきり定まった意識状態が必要です。意識の焦点を定めるのは、意識的な行動です。人間は、完全に、能動的に、目的志向的に現実を認識することに頭脳の焦点を定めることもできます。頭脳の焦点をぼかして、半ば無意識状態に漂いながら、コントロールを失った感覚-知覚メカニズムに命じられるままに、感覚-知覚メカニズムが無秩序に生み出す連想に従って、その時々の一時的な刺激にありつき続けることもできます。
頭脳の焦点が定まっていないときでも、「意識」という言葉を人間未満の意味で使うなら、人間に意識はあると言うこともできるでしょう。そんな状態でも、人間は感覚と知覚を経験しているのですから。しかしこの言葉を人間にふさわしい意味で使うなら、つまり「現実を認識して、現実に対処できるようにする意識」「行動をコントロールできる意識」「人間の生存を可能にする意識」という意味で使うなら、頭脳の焦点が定まっていない人間に意識はありません。
心理的に言うと、考えるかどうかの選択は焦点を絞るかどうかの選択です。実存的に言うと、焦点を絞るかどうかの選択は意識的であるかどうかの選択です。形而上学的に言うと、意識的であるかどうかの選択は生きるか死ぬかの選択です。
意識は、それを持つ生物にとって基本的な生存手段です。人間の場合は、理性が基本的な生存手段です。人間は、動物のように単なる知覚に従うだけでは生き残れません。空腹の感覚は(それを「空腹」と認識することを学んでいれば)自分が食べ物を必要としていることを教えてくれますが、空腹の感覚は、食べ物を手に入れる方法を教えてはくれません。どの食べ物が自分にとって善くて、どの食べ物が自分にとって毒なのかも教えてくれますが、思考プロセスなしでは、自分の体の最も単純なニーズさえ満たせないのです。農作物の育てかたも、狩りの道具の作りかたも、思考プロセスなしには発見できません。洞穴を見つけるだけなら、知覚だけでも十分かもしれません。しかし最も簡単な雨よけを建てるにも、思考プロセスは必要です。火の起こしかたも、布の織りかたも、鉄器の鍛えかたも、車輪の作りかたも、飛行機の作りかたも、虫垂切除のやりかたも、電球や真空管の製造法も、原子核物理学の研究装置の製造法も、マッチ箱の製造法も、知覚や本能でわかることはありません。ところが人間のいのちは、こういった知識に依存しています。こういった知識は、意識を意識的に使わなければ、つまり思考に従わなければ、得られないのです。
しかし人間の責任はまだ続きます。思考プロセスは自動的でも本能的でも無意識でも無謬でもないのです。人間が思考プロセスをスタートし、維持し、結果に責任を負わねばなりません。人間は、何が正しく、何が誤っているかを知る方法を発見しなければなりません。自分の誤りを正す方法を発見しなければなりません。自分の概念や結論や知識が、正しいかどうか確認する方法を発見しなければなりません。自分の思考を支配するルール、つまり論理法則を発見しなければなりません。人間の頭脳の努力の有効性は、自動的には保証されないのです。
倫理が必要な理由
人間が与えられているのは、ポテンシャルと、それを実現化する材料だけです。ポテンシャルとは、人間の意識です。人間の意識は最高の機械です。しかしこの機械には、点火プラグがありません。自分がこの機械の点火プラグになり、セルモーターになり、運転者にならなければなりません。この機械の使いかたを発見しなければならないのも、この機械を安定して動かし続けなければならないのも、自分自身です。ポテンシャルを実現する材料とは、この宇宙全体です。人間が獲得できる知識にも、到達できる喜びにも、限界がありません。しかし人間は、自分に必要なものも欲しいものも、自分自身で、つまり自分の選択と努力で、自分の頭脳を使って、学習し、発見し、生産しなければなりません。
物事の真偽が自動的にわからなければ、物事の正しさや誤り、自分にとっての善悪も自動的にわかりません。しかし生きていくためにはその知識が必要です。人は現実の法則からまぬがれることはできず、生きていくために必要な行動を取らねばならない、固有の性質を持つ、固有の有機体です。気ままな手段や無作為の動作や盲目的衝動や偶然や気まぐれでは、生存を維持することができません。生存に何が必要かは生まれつきの性質によって決まっており、自分で選択することはできないのです。自分で選択できるのは、生存条件を発見するかしないか、生存にふさわしい目標や価値を選択するかしないか、だけです。もちろん間違った選択をする自由はありますが、間違った選択で成功する自由はありません。人間には、現実から目をそむける自由があります。思考の焦点を定めない自由があります。行き当たりばったりに、自分が好きな道を選びながら進んでいく自由があります。しかし、足元の穴を見ることを拒否しながら、穴への転落をまぬがれる自由はありません。意識を持つあらゆる生きものにとって、知識は生存の手段です。生きている意識にとって、あらゆる「~である」は「~べき」を当然に意味します。人間には、意識的でいないことを選ぶ自由があります。しかし意識的でいなかったことへの報いからのがれる自由はありません。その報いとは破滅です。人間は、自分自身の破壊者として振る舞える唯一の生きものです。そして人間は、歴史を通じてほぼ常に、そのように振る舞ってきたのです。
では、人間はどのような目標を追求するのが正しいでしょうか。人間が生きるには、どのような価値が欠かせないでしょうか。これこそが、科学としての倫理学が答えなければならない問いです。そしてみなさん、これこそが人間に倫理が必要な理由なのです。
そうなれば、世間に蔓延している次のような教えの意味を自分で評価できるでしょう。倫理は不合理が支配するとか、理性は人生の指針にはなり得ないとか、人間にとっての目的や価値は、投票や気まぐれに従って選ぶべきだ、などとみなさんに吹き込む教義の意味が。倫理は現実とも存在とも個人の実際の行動や関心とも無関係だとか、倫理の目的は死後の世界にあるとか、倫理を必要とするのは死者であって生きる者ではない、などとみなさんに吹き込む教義の意味が。
倫理は、神秘的な空想ではありません。社会的なしきたりでもありません。なくても済むような、緊急のときはいつでも取り替えたり捨てたりできるような、主観的な贅沢品でもありません。倫理は、人間が生き抜くために客観的かつ形而上学的に必要なものです。ここで「人間が生き抜くために必要」とは、現実に立脚して、そしていのちの本来的性質に立脚して生きるために必要ということです。神や隣人の恵みとして生きるために必要ということでもなければ、自分の気まぐれの結果として生きるために必要ということでもありません。
ジョン・ゴールトの演説から引用します。