写真を撮るように本を読む

写真に執着しなくなった。夕方散歩をしながら空を眺めていると、今日は焼けそうだなという日が分かるようになる。展望台に行けば綺麗な大阪湾景が撮れる。日没の1時間前くらいに準備して移動していたのだが、最近は回数が少なくなった。見たくない訳じゃないし、撮れるなら撮りたい。展望台で唯一苦手なものが、周りにいるカメラマンの言葉だ。過去の夕焼けが如何に綺麗だったかを、目の前の景色を否定するように語っている声が聞こえてくると、ボクの気持ちが暗くなる。何を綺麗と思うかは自由なのに、自分の価値観を周囲の迷惑になるくらい大きな声で言うのはやめた方がいいですよ。心の中で、そう思うことが増えて以来、展望台に行かなくなった。3年間購入していた展望台の年間パスポートも買わなくなった。

写真を撮る機会が減ると、その時間を何に費やそうか考えるようになる。ボクの場合は本だった。写真を撮るようになってから、年に数冊しか本を読まなくなっていた。学生時代は通学や空きコマを図書館で過ごすことが多かったから、毎日のように本を手にしていた。また、本に戻ってこられた。写真は自分自身の経験を映し出すが、本は他者の経験が言葉で書き記されている。読者はその言葉を想像して、物語の中を楽しむことができる。主人公目線で読んだり、ライバルに感情移入したり、第三者として見守ったりと、読む本のジャンルによっても読み方が変わってくる。

はしっこに、馬といる ウマと話そうⅡ  川田 桟

今日ボクが読み始めた本だ。エッセイを読んでなかったら手に取ることがなかったと思うので、今年から毎月最低1本のエッセイを書くことを決めていた自分を褒めてあげたい。そう思うくらいボクに合う本だった。まだ100頁、半分くらいしか読んでいないのだが、東京で暮らしていた人が与那国島のウマと過ごすために移住し、ウマとどのような生活をしていたかが描かれている。

もくじに目を通したとき、これは人とウマの関係だけでなく、人が生きていく中で関わる存在にも言えそうだなと思った。たとえば、強くならずにウマとつきあう、なにもしないヒト、見るだけでもいい。人とウマの上下関係を教えるために、ウマに強く接する必要があるが、そうまでしてウマと関わりたいと思わない人もいる。著者がそうであり、本を読みながらボクもその気持ちに共感した。もし、ボクが戦国時代に生まれていたら、馬に乗らなかっただろうし、誰かと戦うくらいなら戦場から逃げていると思う(それによって他の家族に影響が出るなら、戦わずに済む方法を探そうとしたはずだ。そんな方法があったのか分からないが。。。)。

そういえば、展望台で必死に夕陽を撮ろうしていた頃は、SNSでどれくらい反応がもらえるかばかりを気にしていて、目の前にある景色が「いいねの数」に置き換えられていたように思う。大切なことが見えなくなっていた。写真から離れることで、写真のことが分かることもある。これまでボクが写真をキッカケに出会った友人は、本好きなことが多い。写真を点ではなく空間で表現しようと考えるのも、本の読み方に似ている。写真展の構成を考えながらそう思った。いい本に出会えた日は気持ちが穏やかになる。

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