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好きな写真について #16

このテーマで書き始めてから1ヶ月が過ぎました。じぶんにとって、好きな写真が何なのか掴めそうになるときもあるけど、気分なんて日によって変わるから、どんな状態でも好きな写真だと言い切れる価値観にはまだ出会えていません。それが目的ではないから良いんだけど、結論が出せないテーマについて書いていると、好きな写真について考えることは、人生について考えていることと同じではないかと思える瞬間もあります。たとえば、#1では蝉の生き様を見ていれば、その蝉の死骸の写真は好きな写真になりうると書かれています。

1ヶ月前のボクは、そんなことを考えていたのか。これを考えたのは、もっと前のように思うが、生き物の死を捉えた写真をこれまでにもたくさん見ており、その都度感じるものが蓄えられ、noteがキッカケでようやく言語化できたのだろう。写真は残酷だと言われるが、本当にそうだと思う。大好きだった蝉が死んでしまっても、その姿はずっと写真の中で生き続ける。もう会えないのに、写真の中ではずっと元気な頃のまま変化することなく、自分だけが老いていく感覚が辛くなる。忘れてしまえばすぐ楽になれるのに、じぶんが忘れてしまえば、蝉が私と過ごした時間が存在したことが曖昧なものになってしまう。毎朝、玄関を出たときに、眩しい日差しの向こう側から、鼓膜が破れそうなくらいの声で響かせる歌は、一生分の声を僅か7日間に詰め込んだ結果だと考えると、儚く健気な声に聞こえてくる。うるさいなんて間違っても言えない。1匹が鳴き始めると、周りもそれに賛同し音が膨らみ大合唱したかと思うと、徐々にトーンダウンしていき、最後の1匹の独唱で1節を歌い終える。ボクがメスの蝉だったら、どんな鳴き声を好きになるだろう。最初に歌い始めた蝉、最後まで歌っていた蝉、大合唱の中で自分だけ異なるメロディーを歌い上げる蝉。どれも自己主張が強い。その他大勢の蝉の魅力は、一体どのように気付かれるのだろうか。たとえば考えやすいのは、目立つ蝉から順にメスと一緒になり歌うことをやめ、別の蝉が空いたポジションを奪っている場合だ。これであれば、その他大勢の蝉も、限られた時間の中で、目立つことができる。今いるコミュニティーの母数が多く死ぬまでに自分の番が回ってこないと思ったときは、離れた場所で鳴くこともあるかもしれない。1匹だけ鳴いている蝉はきっとそういう状況に追い込まれたのだろう。そう思うと、今年の夏に1匹だけ鳴いている蝉に出会うと、何か協力してあげたくなりそうだ。できることなんてないのかもしれないが。

今いるコミュニティーでは見つけてもらえないから、見つけてもらえる可能性が上がるようにする。この意識は、写真にも当てはまりそうですね。各種SNSが供給過多になっており、自分の写真を見つけてもらうための方法を模索する。SNSだけでなく、写真展やコンテスト、note、写真以外のコミュニティーに参加することも、自分が生きる可能性を模索した結果たどり着いた場所なのだろう。ボクの場合は、そうしてたどり着いた場所の一つであるnoteで、写真を載せることが少なくなりこうして文章だけを書いている。写真を載せるときは、一気に100枚以上、それも普段撮らないモノクロ写真を撮って出しの状態で載せているだけなので、自分でもなんでちゃんと写真を見せようとしないのか不思議でならない。あんな大量の写真をwebでちゃんと見ることなんてできない。それならどうすればいいかという考えは、いずれ結果とともに紹介したい。大切な写真は、静かな場所で見せたいという思いがあるのは確かだ。まだボクが見つけられていないだけなのだろう。誰にも見せたことのないL版プリントを眺めていると、喫茶店でお茶しながら写真を見てもらうことが、今のボクにとって一番見せたいシチュエーションかもしれないと思える。目の前で見てもらうときの、あの緊張感がボクは好きだ。来月、友人と写真を撮りに行くので、プリントを持って行って確認してこようと思う。素敵な喫茶店に出会えることを期待して。

それでは外は寒いですが、気持ちはあたたかくしてほっこり過ごしましょう!

写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!