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村上春樹 『羊をめぐる冒険』の感想

「好きな小説は何?」
と、聞かれたら、かなりの確率で『羊をめぐる冒険』と答えている。
(好きな小説は、そのときの気分によって変わる)

「なぜ好きなのか?」
と、聞かれたら、「理解できないから」と答えるかもしれない。
(まともな頭で読むような小説だと思っていない)

なぜか昔から理解できないものに惹かれる。
理解できない部分を想像で補って、自分で解釈する部分が多いということが好きなのだと思う。映画より文章の方が惹かれる理由も、想像する空白があるからだ。
完璧な理解など存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。
(これは言いたかっただけ)

※以下から、ネタバレ注意

あらすじ

敢えて、理解し難くあらすじを書いた場合、こんな感じだ。

誰とでも寝る女の子がいた。彼女は25歳で死ぬと言っていたが、26歳で交通事故で死んだ。その葬式のあと、元妻が家を出て行った。1ヶ月間ボーッと過ごしたあと、耳を1週間見続ける仕事をした。その耳の相手が気になり、デートをしたら、30分で、すごく仲の良い関係になる提案をされる。(後にガール・フレンドと呼ぶ)ガール・フレンドとベッドに入りながら、鯨のペニスや妻のストリップのことを考えていたら、彼女が突然、電話がかかってくると予言する。たくさんの羊と一匹の羊の話、そして冒険するらしい。一緒に事業をやっているアル中の相棒から、彼女の予言通り電話がかかってくる。過去、地元のバーで知り合った鼠から手紙が届く。2回も。地元へ帰り、バーの主人ジェイと、鼠と関係のあった女性に会う。黒服の秘書と会った。羊を探して欲しいとのこと。北海道に行く。ガール・フレンドが泊まりたいと言った「いるかホテル」に泊まる。「いるかホテル」で羊博士に会う。鼠の家に向かう。羊の毛皮を着た戦争が嫌いな羊男に会う。羊男がガール・フレンドを帰した。もうガール・フレンドとは二度と会えないらしい。鼠のギターを壊す。鼠に会う。黒服の秘書が鼠の家にきた。爆発。預けていた猫は「いわし」という名前になり、太った。ジェイがやっているバーに行き、小切手を置いて帰る。

村上春樹さんの本を何度も読み返しても、所々は覚えているが、全体の流れを忘れてしまっている現象がある。「えーと、耳が完璧な女性が出てきて」「えーと、羊男がいたな」そんな具合だ。しかも羊博士・羊男に関しては、『中国行きのスロウ・ボート』の「シドニーのグリーン・ストリート」という短編でも出てきたりする。こちらでは、僕は探偵で、羊博士が羊男の右耳を盗んだからなんとかして欲しいという話だ。本当になんとかして欲しい。ぐちゃぐちゃになる。(だが、それもそれで面白い)

だから今回は、あらすじを書けて良かった。

感想

基本的に主人公「僕」は、受け身の体勢を取っている気がする。世界が非現実的にどんどん変わっていくが、僕は冷静に受け止めているように見える。耳を開いたら世界が変わるガール・フレンドが予言能力があっても、大物右翼の秘書が羊を探せと言っても、羊が憑いた人間は魂を抜かれたようになっても、いとみみず宇宙の世界で乳牛がやっとこを欲しがっていても、「やれやれ」と言いながら、争ったりせず、ただ受け止めている。(たまに変なところで意思らしきものを見せている気がするが)僕は人間というより、ベルトコンベアーで運ばれる機械のようにも見える。

インターネットで調べれば、「何々は何々というメタファーなのではないか」などといった考察がたくさん見られる。それを見る楽しみもあると思うが、やはり私は想像で補うことが好きだ。村上春樹さんを完璧に理解しようとしなくていい。

ちなみに、小説をあまり読んだことがない人には『羊をめぐる冒険』は全くお勧めしない。もしどうしても村上春樹さんを読みたいのなら、『東京奇譚集』『ねじまき鳥と火曜日の女たち』『中国行きのスロウ・ボート』あたりの短編から読むことをお勧めする。

好きな文章

人間を大まかに2つに分けると現実的に凡庸なグループと非現実的に凡庸なグループに分かれるが、君は明らかに後者に属する。
個の認識と進化的連続性と言う認識の否定はまた、言語の否定にも関わってくる。
なんとなく、家に帰る前にまともな人間が日本足でまともに歩いているまともな世界を見ておいた方が良い気がした。
しかしすべては我々に課せられた試練であると考えるようにしているんです。つまり苛立つ事は自らの敗北です。
人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。すべての物体に重心があるようにね。
どうして船には名前があって、飛行機には名前がないのだろう?
運転手が運転手的な発言をした。
互換性がないことと、マス・プロダクトじゃないこと、この2点。
それでその余った時間はどこに行ったの?
ねえ、時間は膨張するの?
でも、我々って言葉は好きよ。なんだか氷河時代みたいな雰囲気がしない?
私たち、本当に正しい街にいるの?
あなたが知っていると思っているもののほとんどは私についてのただの記憶に過ぎないのよ。
羊が人の体内に入ると言うのはそれほど珍しいことではない。
たとえその現在がすぐに現在性を失おうとしても、現在が現在であると言う事実は誰にも否定できないからである。現在が現在であることをやめてしまえば歴史は歴史でなくなってしまう。
羊の頭は鉄みたいに固くて、中が空洞になっているんだよ。
許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。
僕自身の記憶と僕自身の弱さを持った僕自身としてね。
弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ。俺は十代の半ばからずっとそれを感じ続けていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか君にはわかるか?
道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして存在そのものの弱さ。
宇宙の一点に凡る生命の根源が出現した時のダイナミズム。
俺には俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。


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