見出し画像

ポジティブになんかなりたくない

昨日たまたま、ポジティブになりたいと思わないという話をしていた。

暗いのが下で、明るいのが上みたいな言い方されるとちょっと腹が立っている自分がいる。でもそれは自分のものさしであるから、相手に理解してほしいなら説明するべきなのだろう。

なにより私は暗い自分が大好きだ。暗いことが、自分を嫌いということとは違う。他者評価を低く見積もるとか、能力に自信がないこととそれはまったく別なのだ。「明るいほうがいい」と思ってる人が、その考えを消化できるかはわからないけれど。

好きなことばがある。

—―「無能」とは、「現在」以外の選択肢を持たぬままにあることで、能力の問題ではない 『初夏の色』橋本治

自分のものさしが正しいと思い込むことは世界を狭める。そんなつまらないことはない。いろんな人がいるし、いろんなものさしがあっていいと思っている。

「何を思われていても気にしない」そんな人をうらやましく思う反面、わたしはそうなりたくはないと感じる。それを、なれっこないから逃げているのだという人もいるかもしれない。だけど、自分の打たれ弱さや人が叱られているのをそばで見ているだけでも辛い気持ちになってしまうような繊細さをまるごと愛しているし、だからこそ人にやさしくできると思っている。人のものさしでレベルアップしたとしても、自分が思っている価値を失う結果になるのなら、レベルアップしなくていい。自分のものさしで生まれ変わっていけばいいじゃないか。相手だからできることがあるし、同じように自分だからできることがあるのだから。

人のものさしを否定する気はない。でも、人間関係ってそれを悪意なく押しつけてこられるのがあたりまえのことだ。自分の価値観を変えさせようとしてくる相手はゆるやかに距離をおけばいいし、話を聞いてくれる人には伝えたらいい。認めあえばいいだけだ。

「自分はできている」「自分が正しくて、相手がまちがっている」――仕事で、そういう前提でいる人と話をするのはすごく疲れる。若い人ならなおさらだ。自分がしてきた経験のなかでやりくりして生きてくのはもったいない。バックボーンはみんな違うんだから、知らないことがあって当然だ。そういうのが成長を妨げるのだろう。なぜ、一度相手の立場で考えてみようと思えないんだろう。そうやってコミュニケーションをとったほうが、伝えたいことが伝わるのに。相手がとれるボールを投げることがコミュニケーションじゃないのかな? 自慢の剛速球やトリッキーな変化球を見せびらかしたい気持ちだってわかるが、会話はキャッチボールじゃなかったのか…?

かといってほかの考えをシャットアウトしたら同じになってしまうと、これを書きながら自分にも言い聞かせている。

わたしはこれからもポジティブにならない。わたしが人並みに働けるようになるまでの苦労を、ないがしろにしない。そして、死ぬまでそれらを忘れず、過去の自分のように苦しんでいる人やこれから苦しむ人たちの味方になれるように。そういう目線を忘れずにいたい。

ポジティブじゃなくても、大きく輝けなくても、生きてさえいればなんとかなると証明したい。上なんか向けなくてもいい。自分の足下が見えるなら、少しは前を向けているはずだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?