君の部屋の合鍵を手にするはなし
「はい、これ」
仕事に向かう彼の手から、銀色に光るひんやりとしたそれを手渡される。
「家出る時にこれ使って。そのまま持って帰っていいよ」
寝惚けまなこの私の頭は彼の言葉を上手くのみ込めず、ただ静かに頷き玄関の扉が閉まるのを見送った。
手のひらにちょこんとのった見慣れぬ鍵の感触をたしかに認識するようになって初めて、合鍵を渡されたのだと気付いた。
私が、彼の部屋の合鍵を、持つ
心の中で一言ずつゆっくりと呟く。
別に同棲しようと言われたわけでも、ましてやプロポーズをされたわけでもない。
先に部屋を出る彼から、部屋の鍵を閉めるためにスペアの鍵を預かっただけ。
合鍵を私にくれる、だなんて彼は言っていない。
次に会う時に返してもらえばいい、とそう思っているだけかもしれない。
でも、そのまま持って帰って良いということは、そのまま私が彼の部屋の鍵を持っていても良いということかもしれない。
かもしれない妄想があっちへ行ってはこっちへ返ってきてを繰り返す。
いつでも私が彼のテリトリーに入っていっても構わない、かもしれない可能性、たとえそれが限りなく低くてもそんなことはどうだって良くて、まだ二人分の温かさが残るベッドに潜りこみ深く息をする。
自分のベッドとは違う、深く甘い香りが鼻腔を通って肺中を満たす。
通知が来た時の振動で二度寝から目覚めたことを知る。
机の上のデジタル時計は12:38を表示していた。どうりでお腹が空くわけだ。
もう一度だけ枕に顔をうずめて、息を吸う。彼の匂いがくすぐったくて恋しい。
ベッドから起き上がり、昨日作ってくれたカレーを火にかけ温めなおす。ちりちりと音を立て始め、ぐつぐつと煮立ってくると狭いキッチンにスパイスの香りが立ち込める。焦がさないようお玉で鍋底を軽くかき混ぜた。
上の扉、下の扉をぱたぱたと開いてカレーを入れるのにちょうどいい、少し深めのお皿を探す。
家主が不在のキッチンを勝手に漁っているようで、なんだかきまりが悪い。何度か足を踏み入れたことのあるこの部屋も、見えている部分しか私は見せてもらえていない。スプーンがレンジの後ろの棚にあることも、深皿がキッチンの下の扉で、小皿が上の扉にあることも知らない。
私はこの人の生活をなにひとつ知らないんだ。
平日のお昼の情報番組を適当に流し、私より料理上手だなぁとぼんやりしながらカレーを口へと運ぶ。二日目のカレーは一日目より美味しいのが常なのに昨日とあまり違いが分からない。
数時間前まで彼と一緒に居た、実家の私の部屋とほとんど変わらないはずのこの部屋がやけに広い気がしてしまう。
食べきれなかったカレーをタッパーウェアに移し、食べ終わったお皿と鍋を洗う。
どこまで彼の生活の一部に踏み込んでいいのだろう。自分で使ったお皿を洗うくらいは人としてきっと当然だろう。一緒に使った食器類を洗うくらいなら煙たがられないだろうか。
シンクに残っていた昨日使ったコップやティーポットも合わせて洗うお節介を決める。
残りのカレーを冷蔵庫にいれたこと、お皿を勝手に借りて洗ったことをメモし机の上に置き、代わりに鍵を手に取った。
昼間の陽光が朝の鍵のひんやりとした冷たさを溶かしていた。
サポート…!本当にありがとうございます! うれしいです。心から。