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シンプルライフにさようなら

5年ぶりに電子レンジを使った。
鶏肉を漬けダレに浸してフワッとサランラップをかけて10分置く。その後、4分電子レンジにかけたら、お肉をひっくり返してもう4分。
簡単におかずが一品できて愕然とした。

我が家は5年間、電子レンジのない生活をしてきた。いや、電子レンジだけではなく、街から離れた、暖房設備が薪ストーブしかない平家で、野菜を育て、鳥のさえずりに癒され、雑草と戦い、冬は終わらない雪かきに途方にくれ、自然に抗うことをやめて季節と共に暮らす、そんな暮らしをしてきた。

本当は、オフグリッドの暮らしがしたかったのだ。電力も自分たちで作り、川の水を浄水して飲むようなそんな暮らし。
しかしそれは流石に手間がかかりすぎるので、街のはずれの平家を購入した。

薪の暮らしというと聞こえは良いけれど、かなりの重労働でもある。
他に暖房施設があるのなら暖炉は暮らしに彩を添える逸品だ。けれど、あの家には暖房器具が暖炉しかなかった。プラグインヒーターは2つ同時につけるとブレーカーが落ちるので細々と使った。

だから、秋口にストックの少ない薪を見ると、冬を越せるだろうかと生命の危機すら感じたものだった。

そのくせ、山に入れば自分たちの力で薪を取れるのだからと、薪を注文するることもシャクに触り、ログスプリッターを使うこともせず、山に落ちている倒木を運べるくらいの大きさに切り、オノで大量の薪を割る(そして腰をやる)。ついでに廃油で車を走らせるべく車を改造したこともあった(そして壊れた)。

頑固だったのだ。
農的暮らしをするのだから、自然と共生する。
できることはなんでも自分たちの手でやる。
そのイメージから外れることはプライドが傷つく。

本気で自給自足的暮らしがしたいのなら、ベジタリアンなんてあり得ない。
大きな鹿を一頭撃つ。そうやって冬を凌ぐしかない。

カナダのある地域で自給自足に近い暮らしをしている友人の言葉だ。
この言葉を聞くと、自分たちはまだまだ農的暮らしなどと呼ぶにはおこがましい。と謙虚な気持ちになるのだった。

だから、ネットや雑誌でお洒落な自然派シンプルライフの記事を読むと、なんだかイラッとした。心の中では「爪の中に泥をつめて、落ち葉や根っこの絡んだ土や雑草で満杯の一輪車を押すような暮らしをしたことあるんかい。」と毒づいたことも一度や二度ではない。

しかし、時が過ぎ。
様々な事情もあって、町外れの平家を売り、今は新築の家を借りている。

新築。

正直。

ものすごい楽。

ものすごい快適。

何にも変えがたい薪の暖かさは恋しいけれど、スイッチ一つで温度管理のできる空調のありがたみが身に滲みる。
なぜ、電子レンジにあれほどまで抗っていたのだろう?
電子レンジがあればお弁当作りだって、子供のお留守番だってめちゃくちゃ楽だ。

私たちはこだわりに拘束されていた。
何か大きなものに対して怒っていた。
そして、負けたくなかった。

しかし、引っ越しをして暮らし方が変わってから、いろんなことがどうでも良くなった。あっさりとつきものが取れた。

わたしはかつて「シンプルライフ」を、物や便利さに頼りすぎない暮らしと定義した。だけど、手間が少ない暮らしも「シンプルライフ」ではないか。

結局は暮らし方がどうであれ、今、幸せだったらそれでいいじゃない。

ついに、そういう風に自分に言葉をかけられることに、私自身が一番ほっとしている。

今は農的暮らしをしている方々の記事を読んだり、友人の話を聞いては「すごいなあ〜」「愛情と努力があってこその暮らしだよなあ」と純粋に思う。

コロナ禍もあって田舎に居を構える人も増えたと聞く。
特に、古い古民家を改装して住むなどというのは、喜び以上に、それに伴う大変な苦労があるのだろうと想像しただけで頭が下がる。

一方、薪の準備、芝刈り、家のメインテナンスに割いていた時間を趣味に当てられるようになった夫は、ルンルン気分で楽しそうだ。

学校に歩いて通えるようになった子供達は自立心が育ち、笑顔が増えた。

人生、何が自分たちを幸せにしてくれるのかわからない。

人生何事も経験あるのみ。



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