死と向き合う(愛猫の看取りについて)

終末期を迎えた愛猫を見送れるよう、心の整理もかねて、ずっと目を背けてきた「死」について考えています。

※今回は、これまで以上にまとまっていない文章かつ、頭でっかちな思考満載です。

タイトルの「死と向き合う」

元々、理系だったから?か、はたまた自分自身の将来に慢性的に不安を感じているからかぼーっとお風呂に浸かりながら「死」について考えることがあります。(もちろん、「死」が一番怖い私には「死」を選ぶという選択はありませんのであしからず。)

では、「死」について何を考えるか。ごめんなさい、安直です。

なぜ、生を受けて死に向かわなければいけないのか。

なぜ、私たちは元をたどれば細胞の塊でできているのに、こんなにいろんなことを考えてしまうのか。

そもそも「死」って何?

ここくらいまで考えて、大体いつも飽和します。それくらい、「死」は怖くて理解できないものなのです、私にとって。

思えば、私にとって「死」とは、映画の中のワンシーンだったり、ニュースから伝わってくるもの、というくらい、現実味がないものです。画面越しの話のように…ホント、いい歳して、です。

「この世に生を受けたら、死というゴールに誰もが向かっている。それくらい、死は身近で当たり前なものなのです。」

それこそ昔、戦時中だったらまだしも、そう思えないくらい、「死」は日常の中でも遠い存在です。医療が発達し、長寿命になったことで最期はなんらかの病名がつく。老衰なんて、ほんの一握りなのではと思います。猫でも犬でも、昔よりも長寿命になったことや医療体制が整ってきたからこその病名がつく。治療が施せるから、逆に苦しめているのでは…とも感じてしまいます。でも、やっぱり助かる命が救えるに越したことはない。

ただ、終末期の、人間のようなターミナルケアは、ペット業界においてはやっと考え出され始めたところではないでしょうか。ターミナルケア自体、最近のネットサーフィンで初めて知ったのですが。

「死」が遠い存在だからこそ、理解できない。なぜ、終わりを考えなければいけないのか…悩みがたくさんあります。

私は、無宗教者ですが、苦しい時などはつい神頼みをします。初詣だって行きます。今、私の同世代、もくしは若い人達で熱心に信仰している人はどのくらいいるのでしょうか。

きっと、昔のように死が身近に感じれば感じるほど、心の拠り所として宗教が根付いていたんだろうな。

私の祖母も、熱心な信仰者です。母が小学生のときに祖父が亡くなり、一人で2人の子を養い、家も立て、巣立たせた。そんな祖母にとって信仰はとても大切だったと、容易に理解できます。

よく、ペットの最期についていろいろ調べていると「虹の橋」という話を目にします。内容は省略しますが、「虹の橋」は、ペットを見送った飼い主の心を軽くできるものだとは思うのですが、死後の世界に対しても私は疑心暗鬼です。(悪く言っているつもりは全くありませんし、そういう世界があったら素敵だなと心から思います)

でも、やっぱり生きている私には、この世のことが全て。仏教で「輪廻転生」とありますが、それも全く理解できないのです。すみません。

それくらい堅物だからこそ、生き物の営みの一環として「死」があるということが、全然入ってきません。

それでも、生き物とは、そういうものだよ、と納得するほかない。

小学校の道徳の時間に、もっと刷り込んでおいてほしかった。

そして、猫は、「死」を理解していない。ただ、今を生きているだけ。そんな真っすぐな猫に、私は最期どうしてあげられるか。しっかり考えます。

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