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ウラニアの慈悲

※この物語は2020年角川文庫より発売された「紅い糸のその先で、」の初期原案です。



ウラニアとはギリシア神話に登場する文芸の女神ムーサたちの一柱。未来予知が出来、多くの人々が彼女の元を訪れ予知を聞いたという。

でも、慈悲なんてない。

君の目には未来が見えるらしい。

それはあまりに突然の告白だったのに、何て事のない、特筆する必要さえないような有り触れた下校時に放たれた。冗談に思える言葉を信じられるほど子供でもなく、しかしそれを完全に否定出来るほど大人でもなかった私に、平然とした顔で告白した君の発言は私たちの間に木霊する。

「俺、未来が見えるんだよね」

その時の私の返事は酷く素っ気なかったと思う。突然何を言い出すんだこいつは、と白い目で隣を見る事しか出来なかった。だってそうだろう。

保育園からずっと一緒。今年で中学二年生。お年頃になった私たちは離れるかと思いきや、周りの目など気にせず共に過ごしていた。同級生よりもずっと大人びている君は女子に人気があった。容姿端麗、少し眠たそうな瞼が気怠けな姿勢がギャップでいいらしい。私にはよく分からない。

君は―解人はいつでも傍にいた。最早そこにいるのが当たり前なのではないかと勘違いさせられるほどに。隣にいて心地よく過ごしていたが、お互いの事を何でも知っているふりをしながらどこか一線を引いていた。知らぬ間に引かれた線はどちらが引いたのかはわからず、さらにはいつ引いたのかも分からない。それでも存在する線は、目には見えない糸で私たちを隔たっていた。

しかし、それは今日、君の発言によって見えなくなった。

「三秒後、そこから猫が飛び出してくる」

君は塀の上を指差した。指で三秒カウントする。木々の中から音を立てて猫が飛び出してきた。

「曲がり角で子供が走って来る」

突き当たりを左に曲がる。私の前を子供が走り抜けていった。

「最後」

君が私の手を引っ張って身体が後ろに仰け反る。目の前をトラックが猛スピードで横切った。

「トラックに轢かれそうになる」

さすがの私も、これには言葉を失った。訝しんでいた視線は一転、驚愕の色へと変わる。それを君は苦笑いをしながら見ていた。

「いつから見えるようになったの」

「子供の頃から」

「何で教えてくれなかったの」

「言ったら信じてた?」

「信じてたよ……多分」

「はい嘘」

お前が信じるような人間じゃないのは、俺が一番よく分かってると君は歩き始める。私は慌てて後を追った。

「じゃあ何で今言ったわけ?」

信じないと思うのなら、言わなければ良かったのに、なぜ、今更言ってきたのだろうか。

「何となく」

「何となく!?」

「言っとかなきゃなと思ったから」

「信じないって思ってたくせに?」

「うん、それでも」

君は立ち止まり振り返る。私たちの間には白線が引かれていた。

「言わなきゃこれは消えないだろ」

一歩、白線を越えて私に近づいた君は目の前で立ち止まる。身長はいつの間にか、数センチ抜かされていた。

「俺さ、つむぎが好きだよ」

「……は?」

五月、午後三時過ぎの風が吹く。陽はまだ傾きそうにもない。

「でも付き合えない」

「それも、は?なんだけど」

「まあ、そう言うよね。お前はそういうやつだよ」

突然の告白に頭が追いつかなかった私は、表情すら変える事が出来ず、ただ疑問を口にするだけだった。

好きは、どこから始まるのだろうか。当たり前に傍にいて、いない事に違和感が生じるようになるのが恋なのか。君が他の誰かと話している姿を見ると、少しだけ寂しくなるのは嫉妬心か。これから先の人生でいて欲しいと願った瞬間、それは好きと言えるのだろうか。

「つむぎはさ、あほだから」

「ごめんちょっと待って。……お前ふざけるなよ」

「だからそのあほさが無くなるまでは付き合えないかな」

「何で私があんたの事好きっていう前提なわけ?何その自信」

「好きだよ」

君はどこか寂しそうな顔をした。

「いっそ好きにならなければよかったのにね」


その表情が、今でも忘れられない。それ以上、君は語らず私も聞かなかった。次の日からいつも通りの日常が始まる。けれど一つだけ違ったのは、時折君が予知をしてくる事だ。それは天気予報のようなもので、濡れている未来が見えるから傘を持って行けから、この道は通るな、明日サプライズがあるなど、他愛もないような様子で発信され続けた。

でも、友人がサプライズプレゼントを用意してくれていたのをばらした罪は重い。これに関しては数日口を聞かなかった。

世界が少しだけ変わって、それでも私たちは変わらず隣を歩いていた。いつの間にか顔を上げないと視線が合わなくなったのも、歩幅一つを合わせられていたのも、本当はずっと気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。

結局、高校も同じ所に通い、毎日登下校を一緒にしていても、あの日の告白の続きはなかった。あれから私は考えて、考えては考えて、何度頭を抱えたか分からぬくらい意識してしまったというのに。けれど、今更それを言う気にはなれなかった。だって言う前にバレそうだし。

それから数年。君はまだ私の隣にいる。制服は後一か月で着られなくなる。大人と子供の狭間で揺れ動いていた私達はただの友達だ。いや、ただの友達と言うには近すぎる。しかし、明確な関係性ではない事も確かだった。

未来が見える君と過ごしてきた季節は普通の人と変わりない時間だった。しかし、時折寂しそうな顔をしたり何も言わず頭を預けられた時、私はその力の重さにようやく気付いた。

未来が見たいと人は言うだろう。何年後、自分はどうなっているのか知りたい、そう言うだろう。しかし、自分が未来で生きていると誰が自信を持って言えるだろうか。人間は脆い。明日にでも簡単に死ぬ事が出来る。自ら命を絶つ選択も有り得るのだ。そんな未来誰が見たいと思うだろうか。

けれど、君は無条件で誰かの未来が見えてしまう。その全てが幸せなら良いが、皆が幸せだったら戦争はもう無くなっているだろう。

高校生になってから高頻度で君の目の下に隈が出来ているのに気づいていた。理由を聞いても笑うだけで何も教えてはくれない。教室で寝そうになり船を漕ぐ姿を見たのは数えきれないくらい。電車の中、肩に頭が預けられたのは何回あったか。ちゃんと寝ろと言ってもはぐらかすだけで何も変わりはしない。

一緒にいる時間は日毎に増し、それでも恋人関係にはならない私たちは本当に曖昧な関係。

でも、これだけ長く一緒にいるから分かる。

君は私の事が本当に好きだという事。

そして一歩踏み出さないのは、何か解決出来ない未来を見ている事。

私に起こりうる可能性の話を考えた時、一つに私が他の誰かと幸せになる未来を見たという考えが浮かんだが、恐らくこれはノー。何故ならこいつのせいで私には恋人が出来ない。四六時中一緒にいて近づいてくる男性全員に牽制するため、その包囲網を掻い潜ってまで私と幸せになりたいと言う人などいない。私も私で、交友関係が広いわけでもなく人見知りもするため、この包囲網はどうかと思いながらもありがたく感じていた。

ならば他には。

可能性を考えた時、一つの結論に辿り着いた。君は多分、誰かの死を見ている。

それは多分、私の死だ。

よく分からないが、私は子供の頃からトラブルに巻き込まれる事が多かった。誘拐されかけたり、高所から落ちそうになったり、なぜか私の番だけ乗り物が止まったりなど、不可抗力のトラブルばかりだった。

その度に君の未来視に助けられてきたのだと思う。誘拐されなかったのは君が先回りして手を引っ張り一緒に逃げてくれたからだし、高所から落ちなかったのも寸前で手を引かれたからで、乗り物が止まった時は隣で呆れ笑いをしていた。一秒遅れたら死んでいた事なんてざらにあったのだと思う。

いつも君に守られていた。

その君が傍にいて私の死ぬ未来を何度でも救ってくれているのなら有難い事だが、それだけではない気がした。

もし、死が近づいていたとしても。病気でない限り、君の未来視が何とかするだろう。だってそういう人だし。ならば君の見ている未来で、私達は何かしらの理由で上手くいっていないのかもしれない。もしそうであれば、この曖昧な関係を続けていくのもありかと思った。さよならの方が、悲しいから。

今日も今日とて二人で帰る。君はいつもより周りを見渡していた。また何か見えたのだろう。問いかける私に君は曖昧な返事しかしなかった。

交差点が青信号に変わり歩き出す。するとあの日のように私の身体を引っ張った君が前に身体を投げ出した。スローモーションで後ろに仰け反っていく私とは反対に、君の身体は前に倒れていく。右側から猛スピードで車が走って来る事に気付いた。

そこでようやく私は気づく。ああ、君はずっと見えていたのだ。いつか自分が、私を庇って死ぬ事を。だから続きなんてなかったのだ。二人で笑う未来はどこにもないから。

でもね。

気づいたら私は倒れかけた左足に力を入れて前に飛び出していた。君の腕を引っ張って反対に自分が前に出た。迫り来る車、後ろに倒れていく絶望した表情の君を見て、最後に出たのは笑みだった。

君が私を好きで代わりに死ぬ未来を選ぶように、私も君の代わりになるなど容易い事なのだ、と。

幸せでいてほしい。そこに自分がいなくとも構わない。願わくば二人で笑う未来が欲しかったけれど、それも叶わないのであれば。


どうか、どうか幸せに。これまで私を救ってきた分だけ、君が誰かに救われるように。一歩踏み出せない線に立ち止まるような関係ではなく、ゼロ距離で共に歩みを進める関係を誰かと紡げますように。

私の人生は、君がいないと回らないから。


「ごめんね、大好きだよ」


人生最後の告白は、きっと君を縛りつけた。

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