泡になって消えるなら、共に死んで馬鹿げた永遠を語らせろよ
「泡になって消えちゃうらしいよ」
昔々、と言っても二百年ほど前。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが残した物語の一つ。海の底で生きていた少女が地上に憧れ、一人に恋をし声を引き換えに足を得た。再会を果たすも想いは伝わらず、真実は変容し、恋のために少女は犠牲になった。
死んで献身的な愛が神の目に止まり、彼女は長い旅路に出た。天国に行くための、長い長い旅路。
「馬鹿げてるよねえ」
少女はきっと、どこかで地上に上がっていた。恋をせずとも、あの行動力で外の世界に出ていたはずだ。もっとも、上がり方は違ったのだろうけど。場合によってはセイレーンになってたかもな。自分の声にどんな力があるかも分からず、歌っては船を沈没させてたかも。
けれど、恋をして人は変わる。少女も例に漏れずその一人だった。足を得て、耐え難い痛みに耐えながら声も出せず歩き愛する人の世界を見た。
広い世界を知って、それでも愛は伝わらず、勘違いしたまま物語は進む。心配して迎えに来た姉たちの言う通りには出来なくて、自分が死ぬ事を選び泡となる。
その泡を見て、消えた少女の事を思い出した二人は寂しい気持ちで寄り添う。
なんて、馬鹿みたいな話。
何が献身的な愛だ。勝手に惚れて勝手に死んだだけの馬鹿だろ。何が切ない恋だ。救ったのは自分なのに勘違いされて、いくらでも伝える術はあったのに伝えられなかった。何が、何が。
とんだ愚か者の話じゃないか。
私なら言った。声が出ずとも、文字を学び書いたはずだ。
『あの時貴方を助けたのは私です。海の底から、貴方を陸まで運んだのは私』
私なら相手の女を殺した。だって貴女じゃない。勝手に美化して勝手に物語を進めて、そんなもの馬鹿げてる。
私なら。
私なら。
「私は思うんだよ」
真っ白な病室に響き渡る規則正しい機械音。白いシーツに横たわる男は目を覚まさない。身体の至る所から伸びる管が彼の生命を繋げている。
「献身と愚かさは対義語だって」
ぴくりとも動かない手を握る。骨ばった手は重く青白かった。
「だって自分が救ったのに気づかれなくて、彼の世界に生きるには遅すぎたんだよ。たかが片想いにかける労力じゃない」
目にかかっている前髪を払う。
「でもきっと、世界は美しく新鮮で幸せだったんだろうなあ」
誰もいない病室で独り言ちる。
「……おとぎ話なんてくそくらえだけど、現実の方がもっとくそくらえだね」
ぎゅっと、強く握りしめた手が震えた。
「私、馬鹿だけどずるいから」
零れる涙に、後悔は無かった。
「泡になって消えるんじゃなく、貴方の中に意思のない存在として消えるね」
ただ少し、同じ世界で違う視線で生きたかっただけ。
遠くから聞こえる声が段々と鮮明になっていく。薄っすらと、視界に光が入り込む。両親の泣き顔が見えて、何が起きているか理解するまでに時間がかかった。
「もう大丈夫よ、貴方は大丈夫なの」
泣きながら手を握る母の肩を支える父は唇を噛み締めていた。
「移植手術は成功しました」
そこでようやく、発作を起こし機械で生かされていた事を思い出した。意識を失ったのはいつだったか、カレンダーを見れば三日前だと気づく。
「貴方の心臓は元気に動いてる」
母の手が胸に触れた。どくどくと脈打つ心臓に違和感を覚える。手術後だと言うのに身体が軽い。長年の苦しみが消えたようだった。
「偶然ドナーが見つかったのよ」
身体が起こせるようになった頃、林檎を剥きながら母が上機嫌で答えた。
「誰がドナーになったかは匿名性だから分からないけど、その人に感謝しないといけないね」
横から林檎を奪った父が母に小突かれて、平凡な日常の風景に思わず笑みが零れた。
「凄い適合率だったって聞いたよ。後遺症もなく元気にしてるのはそれが理由だろうな」
「なんにせよ、やっと元気になったんだもの。運動も出来るようになるわ」
「……それは嬉しいな」
ずっと、窓の外を眺めているだけだった日々はもう終わる。
元気な身体を手に入れて、どこに行こうか誰に会おうか考えて、ふと思考が止まった。
一人いない。一番に来て泣いてこの手を取ってくれそうな人が。
「なあ、 はどこ?」
瞬間、両親の顔が強張った。顔を見合わせて、二人は目を逸らす。
「 ちゃんは死んだの」
「は……?」
「マンションから、飛び降りたらしいんだ」
「……自殺って言ってんの」
苦しそうな顔で父が肯定した瞬間、その胸倉を掴んでいた。
「ちょっと!!」
「そんな、わけない!あいつが自殺なんかするわけないだろ……!」
「私たちだってそう思ったさ!あの子がそんな事するような子だとは思ってなかった!!」
「じゃあ、なんで、」
何でここにはいないんだ。
震える声に心臓がどくんと鳴った。痛くも苦しくもない。ただどうしようもなく熱くて、悲しくて、馬鹿だなと苦笑されているような気がして手がすり抜ける。
「……これ、握り締めてたみたい」
袋に入れられた遺品の漫画を渡され呆然としてしまう。だってそれは、倒れる直前、彼女に貸した物だったから。
言葉を失い漫画を握り締めるしかなくなった僕を見て、両親は部屋から出ていった。
袋を開け漫画を手に取る。よれたそれは泥がついていてページがめくれなくなっていた。
ぽと。シーツの上に何かが落ちた。
それはカードだった。拾って両面を確かめる。
そして、心臓がまた強く鳴った。
「移植、提供カード」
心臓の部分だけ丸を付けられたカード、最悪の想定を裏付けるように心臓が強く鳴り響く。
『泡になって消えちゃうらしいよ』
僅かに聞こえていた言葉は夢の中の出来事だと思っていた。
「なんだそれ」
また強く鳴り響く。持ち主の分からぬ心臓は早鐘を打ち、けれども優しく全身へ血を送る。
「信じ、られねぇ」
嗚咽が病室に響き渡っても、涙が枯れるまで叫んでも、会いたい人は現れず、幻影さえも見せてくれない。
「お前は、報われない恋に身を滅ぼすような馬鹿じゃねぇだろ」
泡になって消えると言った。心臓は恐らく、その泡で出来ている。
もう歩いた時に息切れをする事は無いだろう。両足が重く、全身に針を刺されたような感覚はない。遠目から見ていた物事も、食べられなかった物も自由に選択出来るようになる。
ただ、海の底に消えた馬鹿がいない。
おとぎ話なんてくそくらえ。僕らの話はあんな馬鹿げた物語ではなかっただろう。
「泡になって死ぬくらいなら、一緒に死んでくれた方が百倍良かった」
心臓は一度、強く鳴った。
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