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沈む夏


「ねぇ、夏の匂いがするね」


光る波を見つめながら一歩前に進む君の首筋に汗が流れ落ちた。僕の視線は釘付けになり脳を熱が侵していく。

左手には先の見えないほど広大な海が広がっており、透明な水の中で魚たちが自由に泳いでいるのが見えた。汗、と一言だけ口にすれば君は振り返りタオルで首筋を拭う。暑いね、と言いながら再び歩き始める君の髪が尻尾のように揺れ動く。半袖のセーラー服からは日焼けした肌が覗き、今年も紫外線と闘わなければと意気込んでいた数日前はどこに行ってしまったのかと思う。


13歳五月、連休が明け君が好きな季節まで後少しの所にまで差し掛かっていた。一足先に夏の陽気を連れてきた世界は輝いていたが、僕はずっと口を開けずにいる。

「夏になったらやりたい事!」

君が一本、指を立て大きな声で叫ぶ。

「まずは海に行く!」

「来てるけどな」

「違うって、入るの!」

「はいはい」

「勉強会」

「スイカ割りとか?」

「線香花火!」

「…後何かある?」

「隣町の花火大会、今年も行こう」

「あれいつだっけ?」

「八月かな?」

「俺行けないや」


不意に零れた本音に思わず足を止める。君は不思議そうに振り返りどうしてと聞いてきた。ずっと言えなかった事がある。何て切り出したらいいのかも、どう体現すればいいかも分からず早一週間、ここでようやく、僕は現実を認めなくてはならない。

歩きながらどれだけ空いた手を握り締めこの事実と共に想い全てを打ち明けようとしただろうか。しかし、指先すら掴めず想い全てを打ち明ける事すら出来ず、出来た事と言えば変わらぬ現実を口にする事だけだった。


「引っ越す」


「…え?」

「東京、父さんの仕事で」

多分、戻る事はないとも付け足した。もとより祖父母の家で家族三代同居していたのだ。これを機に、向こうで家を持ち腰を落ち着けようというのが両親の考えだった。年の離れた姉はすでに東京で一人暮らしをしながら大学に通っていたので、姉と暮らせるようにもなれる事から家族は皆、前向きだった。


僕以外は。


「いつ行っちゃうの」

「夏休み入ってすぐ」

「…全部出来ないじゃん」

「そうだね」

僕がここに残りたい理由なんて目の前で今にも泣き出しそうな様子で唇を震わせている君くらいなもので。むしろ君が向こうにいるのなら、何も気にせず引っ越すわけで。何もないこの町に未来はないし、今ここで東京に行かずともいつかどこかに行くだろう。

「いつ決まったの」

「一週間前。父さんは来月から先に向こうに行く」

「何ですぐ言わなかったの」

「言ったって変わるわけじゃないし、それに」

僕は息を大きく吸い込んだ。

「黎夏が泣くの、分かってたから」

瞳が大きく開かれて、まだ泣いていないと強がりが口から零れだす。うぬぼれでも何でもなく、同じ気持ちを抱いている事はずっと分かっていたのだ。けれど言い出せず別れが迫ってくる。

「毎日晴の事起こしに行かずに住むし」

「黎夏」

「面倒見なくて済むし」

「黎夏」

「勉強出来なくても馬鹿にされないし」

「黎夏」

「いなくても世界は回る」

「泣かないで」

瞳から零れ落ちる大きな雫はやむことなく地面を濡らしていく。嗚咽が耳に届き、瞼をこすりながら本格的に泣き始めた君を見て、僕はごめんとしか呟けなかった。



次の日、君は変わらず僕の部屋に現れた。いつも通り僕を起こし学校に向かう。他愛もない話をして、変わらぬ関係のまま夏休み前の最終日、皆に別れを告げ二人で家路についた。不意に君が、海に入りたいと言い出し走って先を行く。僕は鞄を投げ捨て防波堤の先で立ち尽くす君に声をかける。


夕暮れの中、何も言わず二人手を取り合って海に飛び込んだ。



13歳夏、別れはもうすぐそこに。

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