タワマン文学について

私はいわゆる、タワマン文学なるものが好きだ。
麻布競馬場さんや、窓際三等兵さんをはじめとする、このタワマン文学は、東京を舞台に社会のラットレースに駆られ、立ち止まった時の虚無感や心の様子を描くこの文学がなぜだか、読んでしまう。

なぜなのだろう?

わたしについて

私は、地方の田舎町に生まれた。そこはタワマン文学に描かれいているような学歴、就活競争とは無縁の世界だった。小学校のころは習い事や友人と毎日遊び、興味や承認欲求を満たす学習を行っていた。
自分はおそらく器用だったのだと思う。
何かをすればある程度できた。
それはあくまである程度で、少し天才肌気味の兄と自分を比較し、当時自分の凡庸さと器用貧乏さを自覚していた。

でも田舎で輝くにはある程度で十分だった。

特に学習面においては勉強すればするだけ結果もついてきた。
それで高校は県内トップクラスの公立高校に入学した。

高校に入ると、学問的興味も芽生え、勉強をある程度楽しんでやっていた。特に国際系に関心を持ち、奨学金を使いカンボジアへ短期留学などもした。

そしてまた、3年のとき大学受験という競争が始まる。

希望としていた大学入学のため、大学3年の間はほぼ勉強ばかりしていたといっても過言ではない。青春を犠牲にした自覚はある。

その競争は最初はいいものの、後々伸び悩んだ。そして、センターではうまくいかず、希望していた大学をあきらめ、現在の地方国公立大に入学した。

私は、競争してしまう。

実際に興味関心のためだったら、自分がどこの大学にいこうがやりたいことをやるだけなので、別に構わないとは、頭ではわかっている。
でも社会的評価を基準とする競争に気づいたら参加してしまう。

自分にそんなコスパの悪い競争率の高い戦いを勝ち続けることができるはずはなく、いつもどこかで、ある程度のところで敗北してしまう。それが、私の人生だと感じる。

都会と田舎

なぜ、私がタワマン文学に惹かれてしまうのか、中毒性を感じるのか、考えてみる。

まず、一つに考えられることは、ぼんやりと持っている敗北感、競争後の虚無感に共感することだ。
東京を舞台にしていないとはいえ、私は学歴競争に参加した、そしてある意味敗北した(もちろん私は、今の大学に非常に満足している)。そこに通ずることがある。

そして、私は、競争してしまう。
社会的価値のある一般的な競争に、「学歴」という競争に参加して、そこに一定の価値をもって臨んでしまう。
だから私はタワマン文学を見ておもう。

”ド田舎の中流階級に生まれてよかった”

都会の私をシミュレーションする。
勉強は得意だと思う。だから、小学生のころからお受験をしたと思う。そして、天才、秀才に及ぶわけなく、必ずどこかで敗北すると思う。虚無虚無敗北感敗北感。自分ってこんなもんだよなーがもっと強かったのかもしれない。

しかし、田舎でスーパーイージーなラットレースをしていた私は、自分の興味を探る余裕があった。それが、今につながった。今の自分の学習分野に、、

田舎は、ラットレースが過酷でない。

だから自分を認めることが比較的簡単で、自分を探る時間もあると思う。都会に住んだ経験がないからこんなに甘っちょろいことを言っているのかもしれない。そして、実際に私は甘っちょろい。
それでも、いいか、と思えるのは、就活しなくて院に進学しようと思えるのは、私は今の環境で育ったかもなのかもしれない。

外生的価値以外の内生的価値をはぐくむことができたのは、自分の流されやすい性格上、田舎のおかげだと思う

とぼんやり感じました。

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