多様性って言葉が嫌いだ
用事があって時々実家に帰ると、テレビがある。家族が特に観たい番組がなくても、それは一日中光っている。朝起きたら今日の天気とか最近のニュースとか、夕飯の時には流行りの音楽とかドラマとか、世の中の何かしらをその箱はずっと喋り続けている。
エンタメの事なんかは、母の方がずっと詳しい。久々の彼女の手料理を楽しむあいだ、ずっと音楽番組が流れていた。30歳近く年下の私が、『誰この人』と毎度母に質問する。『個性的な挙動で最近人気の歌手らしい』とか、『姿は見せないけどとても歌唱力があって人気のアーティストだ』と教えてくれる。知らない物事に対して特に文句は思いつかないので、流れるものを聴いてるだけ。
その番組は最近話題の[個性派]アーティストを特集する趣旨のようだった。司会のコメンテーターは十秒に一回くらいの頻度で『多様性』という言葉を謳っていた。妙な薄気味悪さを感じた。「そんなに連呼しなくても、私たちはずっと昔から多様そのものだよ。多様であることは性質じゃなくて、事実。性質として賛美しなきゃいけない事情はある程度分かるけど。」母はまたそう言うこと言ってさ、と途端につまらなそうにした。
連綿と続く差別の歴史の中で、切実な努力によって勝ち取られてきたものを讃えるのは大切なことだと思う。たった数十年前と今では、セクシュアリティへの理解ひとつ取ってもだいぶ変化した。そういう過程を理解しながらも、沸々と湧き上がるこの薄気味悪さの正体が気になった。
『例えば、このアイドルルックの挙動不審で人気歌手の女の子の顔に目が6個あって、腕が6本あったとしたら、メディアに出る為の正当な問題が沢山発生すると思う。でも、その線引の説明は全く触れられないか、〈うやむや〉にされ続けると思う。エンターテイメントや誰もが簡単に理解出来る〈自由と平等〉に収斂出来るものだけを開示して、『多様性』の内容として示すのが私にはキモいわけ』
『多様って概念を詰めるなら、全く多様な人間達の、それぞれ全く多様な特質によって発生してゆく、社会生活に於ける様々な困難を知る所が本来のスタートだと思うんだけど、素敵なものとして受容出来る部分と結果だけを持ち上げて謳われる多様性って、どれだけの効力があるの?』
そこまでの悪気はないんだから、と彼女を疲れさせてしまったので黙って食事に集中することにした。
『民族浄化、不条理の大量虐殺ひとつ止められない世界で掲げられる[多様性]という幸せな言葉の、欺瞞と軽薄さが好きじゃない』
そんなに好きじゃないならもう観なければいいでしょ、と母は怒ってTVを消した。そう、観なければ済む。少なくとも、わたくし個人が、わたくし個人の心地悪さを感じることは抹消される。
けど、世界は抹消されず、ただ進む
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