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クエーカーのふつうしないこと: 拍手 :フィラデルフィア
沈黙のうちにメッセージが一つ、二つ。。。そういったクエーカーの礼拝のあと、夫の誕生日を祝った。その日の礼拝にきた誰もかれも皆一緒ににぎやかで簡単なランチ。クエーカーでない夫の友人たちも幾人か来てくれた。持ち寄りのスープやサラダのほかに、この日にはガザの人々へのサポートの気持ちを込め、レバノン料理屋からのラップも出された。
ケーキの後、礼拝の部屋に戻り、夫の話。その後、心に浮かんだことを即興で誰かしら立ち上がって話をしすわった。そのとき、部屋のどこからか、ふだん聞かれない拍手が聞こえてきて、「あれっ」と思った。
人が拍手をするような場合、たいていのクエーカーは黙って両手を上げて、手のひらを「キラキラ星」のように動かす。そこで、まわりのクエーカーに聞いてみた。「なぜ?」
いくとおりか返事をもらった。そもそも、手話で拍手はそうすると数人が答えたが、ほかの場合に手話をしないクエーカーがなぜ拍手は手話でするのかという疑問の答えにはなっていない。
拍手は神に対してしか値しないと子供の時にそう聞いたという人もいたが、礼拝を沈黙のうちにするクエーカーには、拍手をする仕草もその音も心もちのじゃまになってふさわしいと感じないと言う人が多かった。パーフォーマンスなどで真に心を動かされたときには、自分はむしろじっとして静かに呼びおこされた感動を味わう方を選びたいという。また、拍手は大きな拍手、控えめな拍手という程度の差があるので、平等を旨とするクエーカーには適切でないという人もいた。
私からみると、沈黙のうちに神/スピリットの声を聞こうという姿勢のクエーカーは、拍手に限らず、静かに待ち臨む「じゃま」になるものを敬遠するように思う。例えば、クエーカーの人たちの間では、地位や学歴などが話題にのぼることはまずない。博士号を持っている人にしろ医者にしろ、皆、ファーストネームのみ。こういう肩書きには、真実、意味がない、じゃまになると思っているようだ。日本で育ったせいか、私にはクエーカーの姿勢に、注いだお湯に舞い踊った茶の葉が底に鎮まるのを待つイメージがわく。できるだけその静まったところに自分をおいて真実に近づこうとする態度が拍手のことでもあらわれているのだろうか。
「なぜ?」の答えに戻ると、部屋中のクエーカーが共に「キラキラ星」のジェスチャーをすると、同じ心もちのクエーカーの中に今自分もいるという一体感でものすごく嬉しくなる、大好き!と率直な気持ちを述べた人がいた。わたしも同感。
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クエーカーの話は、長野ゆうほ著『地球自転の音のない音』にもあります。
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