「当たり前」のくらやみにいた星たちが、やっと見えるようになった(強みや価値についての考察)
自分自身の強みや価値は「当たり前」のなかにあるんだよね、という話。
経済ニュースのビール特集をYouTubeで見ていた同居人が、独り言に近いゆるさで「前に行ったビールのお店でまた飲みたいねぇ」と呟いた。
間髪入れずに「じゃあ行こう、次の休みに出かけるときに一緒に行くのはどう?横浜と東京の2店舗あったはずだから、まだ行っていない東京のお店を予約しておくよ」と一息で提案する。
すぐに「行こう行こう」と盛り上がり、飲みに行く予定があっという間に決まった。(ちなみに、横浜のお店は2023年3月に閉店していて、東京店しか選択肢がなかったと後から判明した。)
このノリは、同居人とのあいだではよくあるパターン。ただの当たり前の会話だと思っていた。
でも、と冷静になって考える。
そんな間髪入れずに「やりましょう」って言えるか?少なくない都合を考慮しつつ、日程まですばやく決められるか?当たり前にやっていた行動は、実は当たり前ではないのでは?
そんな疑問が、すこしずつ湧いて出てきた。
誰かの「やりたい」に対し、「じゃあやりましょう、具体的にはこうしましょう、私はその実現のためにこれをやります」と伝える。現実的でないなら代替案を考える。手を動かし、確実に実現まで持っていく。
関わる相手に動いてもらう必要があるときは、リマインドして、進捗を聞いて、スケジュールを調整する。絶対に守る期日を念頭に置きつつ、行程は柔軟に組み替えていく。
この一連のプロセスはただの手続きだ。誰にでもできる。
……というのは、自分から見た話であって、このプロセスが苦手な人もいる。
もともと、実行力や実現する力は強い自覚がある。でも、具体的にどう活用していくかのイメージがあまり湧かない。
他の人より強い部分だとは分かるが、どうやって価値を提供すればいいのか分からず、ずっと戸惑いながらどうにかやってきた。
でも、実際には、意識しなくともすでに価値を提供していたようだ。
自分にとっては当たり前の動きが、強みだったり、提供できる価値になっている。
他の人の「やりたい」に対して「やりましょう」と号令をかける。具現化、現実化するまで伴走していく。それが私の強みであり、価値のひとつだ。やっとそう言えるようになってきた。
やりたいことがないのが、ずっとコンプレックスだった。
思い返せば、伴走する人として、以前から一定の評価をいただいていた。
でも「私はやりたいことのない空虚な人間だ」「結局やりたい人はひとりの力でやってしまう。やりたいことがある人には劣る」みたいな自己卑下を乗せて、その評価をぎゅうぎゅうに潰してしまっていた。
と書くと大変失礼に見えてきたし、実際相手に失礼でしかない。
それに、やりたいことがなくとも、他の人の「やりたい」を叶えるかたちで、自分の実行力を鍛え上げられる。その実行力は、自分のなかに「やりたい」が生まれたとき、自分に対しても活用できる。
今は明確にやりたいことはない。でも、それが生まれたとき、他の人に対して発揮していた実行力を、自分にも使っていける。
その可能性をやっと自覚した。
桜林直子さんの「世界は夢組と叶え組でできている」を読み返していたら、こんな一節に目が留まった。
やりたいことがある「夢組」と、やりたいことがないけれど、まわりの人を手助けしたい「叶え組」の話だ。
自分自身の「やりたい」が芽を出すときまで、他者貢献で力を磨いていく。
そして、来るべきタイミングで、他の人や場所に向けていた力のベクトルを自分に向けられたら、爆発的な推進力になるはずだ。
自分ひとりが見る世界では、強みは「当たり前」のかたちで、あまりにも広い暗闇のなかに横たわっている。
そこでは、当たり前は、当たり前のままだ。
でも、誰かが何の気なしに「そこに星があるね」と指をさしたとき、「ああそうか、ここには星があったのか」と初めて分かる。
同時に、人との関わりのなかで指をさしてもらったように、私も誰かに「それは星だよ、あなたの価値だよ」と言えているだろうか、とも考える。
意気込んで見つけるよりは、何の気なしに見つけるくらいがちょうどいいのだろう。
過去のnoteで「ひとりが好き」と書いた。でも、ひとりでいる時間で全てを埋められないのは、人と関わるなかで、強みや価値が見つかるからだ。
(ここに書いている内容だけを理由に人と関わるのではない、とは書き置いておく。)
これからも、胸を張って、かかわる人たちの「やりたいこと」を叶えていきたい。
その行為は自分を損なうことではなく、強みを活かすことであり、価値提供であり、何より自分自身の力になる。
今の私はもう、それを知っている。
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