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短編アーカイブ「黒板消しと世界」

黒板消しをベランダでパンパンと鳴らしていた昼休み。チョークの白が目の前に漂って、 世界が一瞬消えた。なにもない世界だ。そう思った次にチョークの白は消えて、また同じように時間が流れ始めた。

「そうじゃないよ。 貸して?」

担任の先生に黒板消しを渡してみると、先生は両の手を全開に広げてから、トップスピードでそれを戻し、パーンと大きな音を鳴らした。チョークの白はさっきよりも大きく漂 い、世界はまた一瞬消えた。しばらくまた、その中にいた。

「これくらいやらなきゃ」

先生が自慢げに言い、ぼくは「なるほど」とうなずいた。

「どうかしたの?」

先生はぼくに聞く。どうかしたように見えたのだろう。思春期の男子なんて、いつだって どうかしている。だから、「どうかしてるけど、どうかしてない」と、極めて誠実にぼくは答えた。

「そうか、それはそうだな。俺も中学生のときは、どうかしてたけど、どうかしてなかったしな」

そんなことを言うところがぼくには心地よく、この先生を好きだと思うところだった。

「おとなって楽しいですか?」

ぼくはベランダにもたれかかって、校庭でバスケットに夢中になるクラスメイトを見下ろしながら、そんなことをつぶやいた。

「中学生はどうなの?」

先生はすぐに答えを言わない。 いつもまず、相手の反応を見る。

「意外と繰り返しで、張り合いがないっていうか。体育祭とか修学旅行とか、そういう何 かに向かってるときは、気持ちに火がつくのだけど。なにもない日は、本当になにもないなあって、最近思う」

先生は「なるほどね」と隣でうなずいた。

「つまんねーって感じだ?」

「うん、そんな感じ。なんのために生きてんのかなぁって思うこともあるし」

バスケ部のクラスメイトが3ポイントを決めた。 思わず、「おっ!!」と声をあげてしまう。先生も同じ場面を見ていたようで、「あれはすごいな」と感心した顔で言った。3ポイントを決めたチームがハイタッチを繰り返す。その光景を眺めたあと、先生は空にある雲を指して、言った。

「あれ、消せる?」

「あれって、あの雲のこと?」

「そう」

消せるっていうのはどういうことなんだろう。文字通り、黒板消しで消すみたいなことなんだろうか。

「いやー、消せないでしょ?」

「消せないと思ったら消せないし、消せると思ったら消せるんだよ、意外に」

と、先生は自信満々で言う。

「じゃあ、消してみて?」

「いいよ」と返事をした先生は、雲を見ながら、右手で黒板消しを持ち、雲を消す仕草をはじめた。

「ほら、消えた」というけれど、消えたというよりは、雲の形が風に流されてちょっと変わった、というような感じに見えた。それは、なんというか、当たり前のことなんじゃないだろうかと、ぼくは考えている。そんなことを口にすると、先生は答えた。

「何もない日も、当たり前のことかもしれないし、奇跡が起こってるのかもしれない。ってことが最近は面白いと思うようになったんだよね」

「おとなって楽しいですか?」

と、最初の質問を繰り返した。先生は黒板消しをパーンと鳴らした。 チョークの白が空を 舞う。

「楽しいねぇ。だって今、楽しくない? 俺は楽しいんだけどなぁ、中学生と話すの」

ぼくは先生の持っていた黒板消しを奪って、大きくパーンと鳴らした。チョークの白もほ とんどなくなってしまって、見えた世界に3ポイントショットが決まっていた。さっきまであった雲は黒板消しで消えている。ぼくはまだ少し、子どもでいようと思った。

(2010)

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