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パンツを脱ぐちから

先日ある起業家の方に「あなたのいう“心地よい関係性”ってどうやったら築けるんですか?」という問いをいただいた。鳴滝荘のような、心地よい関係で結ばれる暮らしをつくりたいんです。以下ブログで書いたようなことを相談したのだった。

「自己開示…ですかね。」

心地よい関係性の根っこを掘り下げたとき、自然と浮かんだのがこの答えだった。意訳すれば“自分の弱さを素直に伝えるちから”だろうか。

人は誰しも、簡単には明かせないツラい過去やだらしのない迷い、ある種の後ろめたさを抱えているものだ。それを吐露できる安心安全の場というのは、とてもあたたかい。そういう環境づくりを社外活動や大学のゼミで取り組んできたのは、僕自身が弱いからだろう。自分という存在をまるごと受け止めてくれる世界がほしかったのだとおもう。

仲間のひとりは自己開示を“パンツを脱ぐ”という比喩表現で呼ぶ。その感覚には賛成だ(僕はその言葉を使わないけれど笑)。実はセックスレスで欲求不満なんだ。LGBTなんだよね。親に虐待されて育った。妹の学費を払っている。自分の内側で降り積もった手つかずのわだかまりを取り出して他人に差し出せたとき、人は人と深くつながってしまうのだとおもう。

人には簡単に話せないであろうことを、わたしには話してくれた。その事実に聞き手は嬉しくなり、相手を信用していく。その優しさに話し手は感動し、相手を信頼していく。だからはじまりは、話し手のたったひと匙の勇気だ。自らの弱さを自己開示したことがキッカケで、この場はわたしのままでいることが許されるのだ、というよろこびと安心がひろがっていく。他の話し手の背中をやわらかく押していく。

聞き手は聞き手で、相手の話を「きく」ことが求められる。簡単にわかったフリをせず、かといって自分の意見を重ねて相手の話を奪わず、ひたむきに耳を傾け続ける。相手の感情をいっしょに味わう。「きく」という行為ができるのは、「きいてもらった」という経験がある人だけだ。そういう人が決して多くないから、僕らは僕らのままでいることが、こんなにも許されない。

うまくまとまらない今回のブログだけれど、自己開示(パンツを脱ぐちから)を大切に受け止め合えるつながりこそが、冒頭の“心地よい関係性”なのだとおもっている。そうした社会が僕らの周りに広がる世界を空想する。

年明けから1ヶ月間、毎日ブログを書く。その試みも今週で終わりとおもうとすこし寂しい。ちょっと自己開示が足りないというか、素直に弱さを吐露できた記事が少ないのかもしれない。格好つけた文章ほど格好悪いものはないのにね。さてどうしたものか。

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