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組織の民主化と評価主義

サムネはマルクスのどアップにしてみました。
モノクロの方がかっこいいかも。

さて、これまで僕は「ビジネススキル」という文脈の中で、「組織論」や「マネジメント手法」を紹介してきました。そんな中、「組織論」についての僕なりの最新の解釈がめちゃくちゃ”しっくり”と来ているので、今回アウトプットしておきます。

最終的にこの記事は10,000字以上(約14,500文字でした)になりました。
あと、これを読んだからと言って何かしら役に立つ情報というか、明日からの行動に移せる有用なものでもないです。
なので、覚悟の無い方は、
ここまで読んでいただいてありがとうございます😆

(飛ばして”あとがき”だけでも読むと良いかも)



組織の民主化

現在の日本企業の多くは封建・独裁・軍国主義的組織

あなたは読む覚悟がある方という認識でよろしいか?
さて、いきなり過激で炎上しそうな見出しであるが、逆説的に成立していることはなんとなくわかるのではないだろうか?

おだんごさんというnoterさんが記事で書かれていた。(リンクを張るとおだんごさんに強制的に見せるカタチになってしまうと、それは辛いのでやめておく。探してください。)
会社の偉い人が「何でも意見は言ってください」と言われたから、
おだんごさんが勇気を振り絞って意見を言ってみたら場が凍り付いたというお話があった。
このように一見、組織は意見を聴いているようで、実際には聴く耳を持っていない。

民主制についてはまた後程触れるが、

あなたの上司は”あなたが選んだ”人ですか?
あなたは会社に採用された結果、所属していませんか?
あなたは自らの意思で日々の仕事を行っていますか?

ちなみに、上記では企業と書いたが企業以外にも多くあてはまる


あなたの先生はあなたが選んだ人ですか?


とも書けるように、学校や病院でも同様だ。
反論があるとすれば、「会社、学校、病院は選ぶことが出来る」ということだ。

しかし本当に選べていますか?


小学校から私立で、自由に学んでいます。


それはとても良いですね。
…でもそれって親が敷いたレールでは?

幼稚園・保育園の時に、
私立の小学校に行きたいって言うもんなんですかね?
自ら「この学校に行きたい」と言えるのは中学とか高校・大学でしょう。

しかし、高校や大学ですら、先生を選択することはできない。
大学では、授業を選ぶことが出来るし、研究室も選択できる。だが、先生・教員を選挙で選んでいるわけではない。
誰かから意図的に学ぶことは、今の日本ではかなり限定的であると言える。


病院のドクターも同様だ。

後述するが、「病院の評判」を見ていったとしても、評判通りであることもあれば、そうでもないコトもある。しかし、救急車で運ばれる、より緊急事態(大事)の時に限って選択することは難しい。搬送先がようやく決まったが、「その病院嫌なので、他を探してください」とは言えない。ガチャだ。


つまり、自由に選択できているように見えて、あまり自由ではないのがリアルだと思います。

つまり、我々のような”エンドユーザー”は、
選択する権利はあるが、実際には選択肢がない
また、民主制の国家において、目の前の仕事においては発言は許されず、実際は支配されていると言っても過言ではない。



逆説的に民主主義とは

民主主義については2023年の夏休みに宿題でやったところだ。

簡単に言うと、所属する組織(国、自治体など単位はいろいろ)の運用は構成する一人一人の意見によって運営されること。

民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権(主権)を持つという政体制度政治思想

wikipediaから抜粋

だから、日本国の運営は選挙によって代表を決め、その代表らが集まって議論し、政策や法律が決められている。


簡単に、話を進めるために、直接的に問おうか、

あなたの未来に影響を与える”先生や上司”は、あなたの民意(選挙)で決定されていますか?

上にも書いたけど、ぶっちゃけ ”ガチャ” でしょ

もちろん”親もガチャ”なのですが、親子関係や家族を組織として扱うのはちょっと違う。というか古い家庭は当然封建社会(問答無用で親父最強)でしょ、という話になる。とりあえず、いったん置いておこう。


根が深すぎて、どこから始まったかはわからない負の連鎖


身近な社会・組織(学校や病院)が民主的ではないので、
日本国の政治においても積極的に参加しなくなるというのが僕の説。
もちろん、逆なのかもしれないが、順番はわからない。

だって、あなたの意見を聞かれることがあんまりないし、急に聞かれても困るでしょ?

民主的ではない = 意見を聞かれない


意見を問わないこと、言わなくてもわかるなんてこともある。
逆に”察する力(忖度)”ってどこから、どうやって身についたんですかね?


日本の政治的な歴史を僕はまだ知らないから、誰か知っていたら教えて欲しいのですが、なぜ日本は内閣制で大統領制(二元代表制)ではないのでしょうか?逆に地方自治体では二元代表制を取っているのはなぜでしょうか?

日本の国会議員は直接選挙で選んでいるが、内閣総理大臣はその国会議員の中から選ばれる。一応、組閣される大臣はたしか必ず国会議員から選ぶのではないが、ほとんどが国会議員。これって、三権分立的に成立しているのだろうか?

話は逸れたが、
結局、意見を持っても、言っても無駄だろうってここ(政治への無関心)からきていると思っている。選挙に行ったとて俺の意見は反映されない。暇な老人と利益のある団体の組織票で構成される票でしょ。どんどん参加しなくなるよね。でも、それで自分が住む、自分の国の方針が決まっている。

このように無関心になると、身近に所属する組織についての意見も持つことが無くなる。どうせ意見を言っても変わらない。そもそも、学校・病院・会社には選挙すらないんだから。(PTAとかはわからないですが、期待できる組織運営ではなさそうです)

あなたが意見をしない・出来ないのであれば、
あなたが所属する組織は封建・独裁・軍国主義的組織であることを否定できますか? 結果として、”偉い”とか”既得権益”が生まれるのではないかと思います。

何度も自分のこの記事を引用して申し訳ないのですが、ここでも語っています。

そもそも、民意で選ばれたわけでもない人が上司や役員になって、組織の方向をドヤ顔で決めるっていうのがおかしな状態ではないか?

カタチだけの360度評価になっている。
どれくらいその評価が影響を与えているのかには透明性が全く無い

いろいろと省略するが、
意見を持つ必要はない組織の中で、人はゾンビ化する。

そうやって、人間としての心をなくす方が楽であると。
生きるということを放棄し、ただただ労働力として存在する。
ゾンビ組織社会については後述する。


根が深すぎてどこから始まったかわからないでしょ?途中で、わざと政治と組織を逆に、こっちが原因じゃないか?と書いています。どちらも成立する。


ここまで、人が生活するうえで身近に関連する組織と、
その組織がいかに民主的ではないかを書きました。




日本人気質と言語化

これは別の記事で取り上げた方が良いかもしれないが、書いておく。

言われたとおりに動く(指示待ち人間)、それが日本人の多数だ。
奇跡的というか、時代にマッチしたのが高度成長期の製造業
24時間働くオートメーションと、24時間働くゾンビ化した日本人は、
大量に高品質のものを生産した

だが、モノにあふれた現在、イノベーションやら、GAFAがどうのとか…。
全く日本企業は世界の競争から遠のいた。
対応できないのは、ゾンビ化しやすい日本人気質というものなのか。

急速に広がるグローバリゼーション。
世界で戦うとなると、日本のゾンビは今や歯が立たない。
それはスポーツも同じ。(多分、野球を除く)

海外のチームを模倣しても、外国人監督を起用しても、
日本人の理解、文化のマッチングが難しく、好成績は望めなかった。
サッカー日本代表でも、監督は森保。
今、日本サッカーはかなり強い。それは、選手が若いうちから海外のクラブチームに参加し技術+メンタリティがグローバル化しており、”グローバル化した日本人”をチームとしてまとめる日本人というのがたまたま良いのだろう。

サッカーの例えもできるが、サッカーはあまり詳しくない。
だが、最近ではやはりバスケだろう。バスケは長いことやっていた。
だてに、スラムダンクの沢北の親父に似ていない。
これは、先日行ったコンサルティングで話した内容でもある。


トム・ホーバスの役割の明確化の効果


トム・ホーバスHC。
女子バスケをオリンピックで銀メダルへ導いた名将。
先日も、男子チームを率いて、バスケワールドカップでオリンピック出場を果たした。何か彼に特別なことがあるのだろうか?

それは、彼ら(トム、比江島、馬場、富樫の4名)がTV番組(さんまのまんま2023.10.6)で話していた。

チームとしての目標設定
とにかく”しつこく言葉にして言う”ことを徹底している
口だけじゃなく、同じ言葉を使う、「信じろ!」と。
言葉にさせる、言葉に出す、それを行動につなげる
自分とチームメイトの役割を明言する。
選手ごとにある強みを知る。

海外と日本人選手の違いは
チームワーク、細かいことが良くできる、技術、大きくないが速い

だが、考えすぎて積極性が無くなる
選考から落ちるチームメイトを気にするなど

さんまのまんまを見ながらメモしたこと

以下、コンサルの内容を会話形式で書きます。


「役割が明確になると、迷いがなくなって効率が上がるってことか!これって、”業務を見える化すると良い”と言われることにも関係しそうだね。」


ゆ「そうだね、よく”見える化”の文脈とつなげることができたね。でも、それだけじゃないんだ。可視化がもたらす効果は、個人の効率だけだろうか?」


「それ以外にもあるってことか。なんだろう」


ゆ「個人競技とチーム競技の違いが表れてくるよね。つまり個人の効率に加え、他のメンバーの効率も上がる。だがそれだけじゃない。
1 + 1 + 1 = 3という、3以上にはならない。
むしろ3以下になってしまうのが”グループ”だ。
しかし、”チーム”になると3以上の力を発揮することが出来るようになるんだ。

例えばね、富永(今回特に活躍した選手の一人で3Pシュートの名手)がボールを持ったとする。そうすると、『おれは3Pが得意だから積極的に撃つ!』を明言しているから、迷いなくシュートを打つ。だから速い!
これが、個人の効率アップという一次的効果。

時を同じくして、富永がボールを持った。他のメンバーは、いつも『富永はボールを持ったら3Pを撃つ』ことを知っている。つまり、その状況下において、もっとも目標に近づく行動は、富永が3Pを撃ちやすいようにスクリーン(ブロック、つまり援護)をする選手がいる。別の選手は、3Pシュートが外れたときにリバウンドを拾う態勢をいち早く取る。
これが二次的効果。

富永は、自分の役割が解り、チームメンバーにもわかってもらっていることから、スクリーンが来て、リバウンドの準備が出来ていることを知っています(信頼)。だから、自信をもってシュートを打つことで結果的にシュートの成功率が上がる!という三次的効果が得られる。

これが、チームによる生産性向上ということ。”見える化”や”明言すること”による効果なんだよ。」


「海外の強豪チームはそれが出来ているってこと?なんで日本人は上手くできないんだろう?」


ゆ「番組でも『考えすぎて積極性が無くなる』という日本人プレーヤーの弱点を話していたよね。これは、歴史的な日本人の特徴というのもあるかもしれないね。

日本人はほぼほぼ単一民族であり、宗教的考えも一部を除いては無宗教というか、ごちゃまぜ文化だ。お盆、ハロウィン、クリスマス、除夜の鐘といったように、異文化を自分たちの文化に取り入れることは得意だ。

逆に言うと、人同士でなかなか分かり合えないコトや、わからないこと少ない。
それは島国であり領土問題が少ない・本気でぶつかり合ったことが無いことも関係しそうだ。

戦国時代は言葉が通じ合う同一人種同士の争いであり、異民族との闘いである元寇とは違うということ。

世界史的に考えると、多様な人種多様な宗教(互いに分かり合うことに苦労する)が陸続きで存在する。結果、宗教や土地を火種に戦争をするような人たちだ。(聖地エルサレムや”約束の地”を求めたり、ユダヤ人がイスラエルを建国したりということね)

だから、分かり合うことや、互いの線引きは非常に困難を極める。
だからはっきりと意見を言うし、相手の意見を聴くことを習慣的に行ってきたんだと想像する。

多分、忖度しててもそれ通りにいかないことが多いんだろうね。」


「でも、トムさんは日本人のチームでそれを成し遂げたよね!」


ゆ「そうなんだ、日本人だからできないのではなく、理解することで変われるし、変わらなくても理解して行動することが結果につながったんだと思う。

忖度の文化では、上手く行けば二次的効果、つまり味方の行動を先読みして動きやすいように振舞うまでだと思う。でも、みんなモヤモヤしながら、本当にうまく行くかどうかはわからないまま、必要以上に思考のリソースを費やしていることになる。

(必要以上に思考のリソースを使うについてはコチラを参照)


だからね、日本の企業がダメだとか、日本人では無理だとか。そうじゃないと思うんだ。だって過去には日本が最強だった時代もある。
ただ今の時代は最強じゃない。
じゃあ日本は最強でありたいのか?

だとすればそのギャップ(問題)は何だろう?そのヒントが、日本のバスケットボール、つまり”トム・ホーバスの役割の明確化の効果”にあったんじゃないか?ということだね。」

(問題の見つけ方はコチラを参照)


しかし我ながら、
突発的にこんな話が良くできたと思うのだ。(自画自賛)



組織のゾンビ化

話を戻して、組織について。
選挙で選んでもない奴(上司)に偉そうに指示を出されても、主体的に動ける人は少ない。だから心を無にして、「ゾンビ化する」という方法を今の40-50歳代(もっと上の人もそう)を取った。
そうやって、自分で作った”家庭”に資本を供給することに専念した。

しかし、現代人(いわゆるZ世代以降)には、多量の情報という武器将来の選択肢が多くある。だから、ゾンビ化せず組織から出るか、作るという選択をしている。

ちなみに、ゾンビが多数いる会社組織は軍国主義的であるという理論が逆説的に成立する。というか、大日本帝国は国民をゾンビ化したと言える。

大日本帝国は国民に「何も考えず、命令に従い、敵国の悪魔を56して来い」という命令に素直に従う兵隊というゾンビを量産した。いや、ゾンビになるしかなかった。

それは「つべこべ言わずに黙って言うことを聴いて仕事しろ」
という会社と同じじゃないか。


ゾンビを作った奴らにも目的がある。
ゾンビは便利な道具であり、死ぬことを恐れず、特攻してくれる。
また、ゾンビは使えば減る。だから増やす必要がある。

もちろん、ゾンビになることが正常であるはずがない。(戦時中の日本人に対しても、なんでそんな従順なんだ!って思ったことないですか?)

だがゾンビ組織は巧妙にゾンビを量産するような設計・文化になっている。ゾンビは、正常な人間を見つけては噛みついてゾンビ化させる。。まともであれば簡単には増やせないが、増やす仕組みを作ることに成功した。それは治安維持法や非国民狩りとして実際にあったこと。

なのでゾンビ組織において、「あなたはゾンビですか?」とは言わない方がいい。「お前はゾンビじゃないのか!?」と言って襲われます。
気を付けてください。


組織の民主化

続いて組織のゾンビ化(軍国主義)に対して、組織の民主化についてだが、

そもそも「組織・企業の問題」について、
経営者と同じ目線で従業員も実際考えている。
いや、考えていいじゃないか。
むしろ偉いヤツだけが考えているとでも思っているのか?ということ


とある企業では、経営課題について全従業員を5人程度のグループに分けて、それぞれのチームで対策を考え、選び、良いものを経営陣が責任をもって実行するという組織がある。少なくとも2社知っている。
まさに民主主義であり、組織が民主化されている。


俺(一般社員)だって、会社のことを本気で考えている。
俺の話を聴いてくれ!(どこかで聞いた話だな)
俺のアイディアが採用されたら、そりゃ本気以上の力出ちゃうよ!?


採用されなくても”その可能性がある”だけで、強烈にエンゲージする。
”会社の偉い人がなんかやっている事” から 一気に”自分事”になる。
ティール組織でいう「全体性(ホールネス)」である。

組織の民主化を行うのは簡単ではない。
既得権益を持つ上司や役員が絶対に反発するだろう。


そもそも、役員とか上司って言うのはさ、
実行に責任を持つ、そういうもんだろ。

偉いわけでもないし、お前の意見や考えて会社が動く、動かせると思っているのは完全にエゴだ。


「エゴはエコじゃない」
これは、僕の名言だ。意味もなくアピールしておこう。

つまり、そのエゴは健全でなく、組織としての歩みを遅くさせるものかもしれない。少なくとも、これからの世代に対しては完全にエコじゃない。


もちろん、ワンマンで動かせるサイズの組織であれば、ワンマンの方がよい。素早く動くなら少数、遠くへ行くなら多数だ。まさにエコだ。

エコとは、生態系とは、
天上天下唯我独尊、人の上に人を造らず
それぞれが尊厳のある一人であり、それぞれが役割を持つ
「あの細胞はよく働いていて偉いね」なんて特別視はない。
我々の行動は、何十兆個の細胞の総意だ。
脳細胞が足の小指より偉いなんてことはない。

誰かが偉い組織というのは果たして健全だろうか。
そんなだから、世界に後れを取る。



評価主義経済について

まず、僕らは資本主義経済にいるよ

評価主義経済ってあんまり聞いたことが無いと思います。
本来は、本質的な民主主義(イデオロギー)の文脈ではなく、資本主義などの”イズム”の話。(ついてこれない人は夏休みの宿題その3に飛んでください)

僕はバイオロジストなので、
経済学は一般知識程度しかない(専門性はない)が、こんな理解だ。

産業革命後急速に広まった資本主義。
資本主義は、社会の便利さや労働生産性など、社会に富を生む。
しかし、貧富の差を生む資本主義は完璧ではない。
そこで現れたマルクス主義、共産主義、社会主義。

現代の日本を含め、欧米諸国は
”民主制で且つ資本主義社会”である。


資本主義と社会主義論争

欧米と中露ともいえる。
正確にはソ連が、社会主義を実行したがうまく行かなかった。
中国の共産主義は、マルクスの共産主義とは違う、ただの非民主的(独裁)資本主義…って言ったら怒られるだろうが、怒る人はここまで読まないからいいか。

第二次世界大戦後の東西冷戦の背景なのか本質なのか…
欧米諸国の民主資本主義と、中ソが支援するアラブ諸国の社会主義
どちらが幸せなのかは個人の判断




10年ほど前から顕わになってきた評価主義

基本的には民主制の資本主義の元にあると思うが、
言い換えると貨幣主義、つまりお金が大事な世の中だよね。
でも近年、資本(貨幣)より評価が上回ってきていると思わないか?

モノがあふれている時代に、当然来るのは評価主義だと
20年前に予測した岡田斗司夫はイカレてる。
評価を言い換えて、「共感」とする方が解る人もいるようだ。

別のレイヤーで言い換えると、
『いいね』をお金で買う時代じゃん

お金を貰うことよりも、他人からの評価の方が重要になるということ。

今のところ、資本と幸福は一定の数値までは比例するが、
途中から比例しなくなってくることが明らかだ。
年数600万 とか、800万とか超えてくるとその上を望まなくなる。
もちろん税金のことも関係するけれど、
とにかくお金が多ければ多いほど幸せ?ってことじゃないよね。

元ZOZOの前澤さんがお年玉配ったり、
イーロン・マスクがTwitter買収したり、
一般人が考える貨幣感覚じゃないじゃん。

みんなも、いいね(すき)欲しくて、いろんな人フォローしたりと努力するじゃん。なんのお金にもならないのに、評価を受けるってのは気持ちいいよね。それが評価主義社会ってこと。


ウェルビーイングの考え方は資本主義から脱する一つの手段


ウェルビーイングという言葉も昨今ではよく耳にすると思う。(ここ、おだんごさんの記事_2023/10/17からインスパイアされた部分)
日本語にすると「良い状態で”ある”」ことなんだが、この”ある”ってこと、”居られる”ってことを、多くの人は解って使っているのか謎だ。

お金で買える幸せとか、そういうものからは離れたことだから、
お金に執着している人にとってはウェルビーイングは難しいかもしれないね。

でも、働かないとお金が無くて、生活できないじゃないか!
そうだよね、鈴木おさむさんが仕事から離れたって、そこそこのお金が入ってくるんだよ。なぜなら、彼がこれまでに歩んできた道のりが、評価されているから。でも、仕事に、お金に執着しない、お金を稼ぐことを目的にしない。

資本主義から離れるということであって、資本から離れることではない。

仕事や資本に執着すると、本来の仕事の楽しさなどは気づくことが出来ない。楽しめない状態になる。それはウェルビーイングではないよね。

普通の人の「仕事辞めるわ」とはちょっと違うのよ。
それが、評価主義経済ってこと。それだけの評価を受けた人が、資本主義から卒業していく。もちろんその敷居はどんどんと下がっているが、今すぐに全員が卒業できるかといえばそうではないし、したいと思える人も少ない。

僕もそれ(サラリーマン辞めてもいい)を目指しているけれども、まだまだ評価されるほどのモノじゃないってこと。だが、こんな記事を書いている状態は、ウェルビーイングではある😆


政治の為に評価主義を利用する漢


政治のためかどうかは僕の個人的意見なので、
本心はわからないが、
SNS等のメディアを積極的に利用する安芸高田市の石丸市長だ。

彼は、メディアに出たり、議会をyoutubeで公開しているが、
再生回数によって資本を得る とは違うことに使っているのは明らかだよね。

そう、民主主義と親和性が高いのが評価主義だ。
そして、本来ある民主主義の形に、メディアを使って戻そうとしている。
決して直接的な票には繋がらないが、
全国的な知名度やいいねといった評価をパワーに変えていると言って過言じゃない。

政治に参加せよ!

彼がそう訴えているように、僕には聞こえる。



組織の民主化と評価主義


果たして、ここまでついてきている人はどれくらいいるのだろうか。
ちゃんと読んでいるぜって人は、ここで投げ銭ください。あとでお返しします。

ぶっちゃけ、ビジネス関連の記事は、これが集大成と思っています。
これ以上書くことが無いわ。

まぁ、新しくインプットは続けていくと思うので、書くことはあるだろうが、なかなかなんとも頑張った記事だ。


民主制と評価主義は親和性が高い。
いや、そもそも評価主義が民主的じゃないかと。
いやいや、デモクラシーはキャピタリズムとはちがうじゃないかと。



迫りくる評価主義

組織の民主化は徐々に始まってきている、いや迫りつつある。
評価主義はその追い風というか、背景にあるものだと思う。
そんな事例を紹介しよう。


企業であれば、企業のブランドに現れるが、
病院にも食べログのような点数化するサイトがいくつかある。

学校にはまだないが、塾にはすでに、いや昔から存在する。
(それは選択できるから)

病院は良し悪しが素人には判断できないため、かなり主観的になっており、評価が安定しない点が流行しない理由だろう。医者、医療関係者の専門的視点と、一般の人の感情的視点を上手く融合させないと正しく評価することが難しい。だから、まだあまり有名なサイトがないのが現状です。


そして評価の波は、より個人につくようになってきている。
それはSNSなどで発信している人だけでなく、
Uber eats(もともとのUberがそう)がいい例だ。


この流れで、わかるよね。そう、先生。

先生が評価対象になる可能性が高い。
教師とドクターね。

だってそもそも、生徒を教師が評価している内申点
それってあなたの感想ですよね?
テストの点数はいいのに、なんで僕の内申点はこんなに低いのですか?(90点とっても内申点4 / 5とかが多かったです😭)

まぁ、先生のことを舐めているからなんですが、
辞められない止まらないので、内申点は諦めていました。


じゃあなぜ、教師は評価されないで済むのか?
いや、教師内で評価はあるのかもしれないが、それはお客さんの意見を聞かない社内政治と何ら変わらない。さらに、公立の学校教師であれば、年功序列終身雇用という、もはや日本経済社会では破綻したルール、世界では意味不明なルールがいまだに採用され続けている!


そんなのには騙されない!
頑張れ俺たち!
例え、モンスターペアレンツと言われようとも!
例え、モンスターペイシェントと言われようとも!

貴様ら、いつまでも偉い先生でいられると思うな!



そもそも上からの評価だけ気にしていたのが歪(いびつ)なんだ


評価主義は、上からも横からも下からもだ。
そもそも天上天下唯我独尊(何回いうねん)

なんだか、人からの評価を気にするってのは、
人によっては息苦しいと思うかもしれません。
昔ならね。

いやいや、むしろ歪な評価をずっと受けてきたやん。
なぜ、上司から、教師からの片側からの評価といういびつな形を甘んじて受けてきたのか?

評価主義ではそれが本来あるべき正当な、双方向の評価になるというだけ。
また、評価されたくない人はされない選択肢も当然あります。
それが許される時代になっています。

コメント欄閉じることできるでしょ?(有料だけど)
スキだけもらえるnoteは平和。
スキももらえないのは嫌だってんなら、書かなきゃいいし。
それはもう、それこそ自由だろ。


人事分野では随分前からあるが、世間的には理解に乏しく、適切に使われていない360度評価


制度としては制定されたが、実際どれくらいの影響力があるのかわからないのが360度評価の実態。大きな組織ほど、ポーズで取り入れる、参考にするというように、実態はないのがリアルなところだ。

360度評価とは、評価対象の上司部下、同僚から匿名で評価を受けること。

目標管理や成果が出ているので、多くは参考。
だが、上からの評価だけで、下からは慕われていないというのは、今後昇進していく上では、結構な問題になる。パワハラ予備軍だったり、ヒラメ社員だったり、見抜くことはできるが、どれくらいの人に実施するかなど難しいところもある。

実際、前々職では、360度評価のせいで上がらないという噂の人がいたので、組織にもよるが、重要な評価だと僕は思うね。

評価にしてもなんにしても、
社員の考えや民意を疎かにしていては、組織として強くなれない。

何のために所属しているのか、ゾンビになりたい人なんて、もともとは居なかったはず。





マーケットインのプロダクトは民主的である


民主的評価主義はかなり汎用的である。
メーカーにお勤めの方も多いのかもしれないので
製品開発、プロダクトマネジメントにおける文脈であっても同様の理論展開が出来る。

製品開発には”プロダクトアウト” と ”マーケットイン” という2つの考え方がある。

簡単に言うと、プロダクトアウトは、メーカー側がいいものを作る。
イイものを造れば売れる!というモノ。
代表例は、SONYのウォークマンだろう。
モノありきで、人々の音楽を聴くシーンを変えた、バケモノプロダクトアウト商品だと思う。そもそも、誰が外で音楽を、手元の音楽を聴こうと思ったよ。

スバラシイ、生活をガラリと変えてしまうようなものはプロダクトアウトのモノが多い。スマホもそうだろ。購入者側が後から追いつく形。

だが、これはめったにない確率のことだ。

失敗例も紹介しよう。
代表的なのはセグウェイだ。未来的乗り物だったが、どこで誰が使うのか?
いろいろ考えた挙句、海外の空港などで警備員が使っている。しかし、市場はその空港くらいしかなく、珍しいものでバズったが、売上は非常に小さかった。

マーケットインの代表はいろいろあるが、
要は客の声を聴いてカスタムしたものですね。

上のサイトでも、他のサイトでもよく出てくる
ユニバーサルスタジオジャパンですが、
こだわってハリウッドの世界観だけでやっている頃って、最初だけでしたね。結果、どうしてもディズニーランドに負けていた。


その後USJは、ワンピースや進撃の巨人などアニメとのコラボ、
ジャパンらしいマリオとのコラボ(インバウンド向け)
といったように、お客に物珍しさ、新しさを提供することで飽きさせないようにしているのかなと。

逆に、ディズニーランドは、コンセプト・ブランド重視で、ユーザーが虜になっている状況を上手く作れている。両社は戦略が違うため、不思議とテーマパークという同じカテゴリーでありながら、競合していない。(実はディズニーランドでも、運営会社によって全然違うらしいが。)


”プロダクトアウト” と ”マーケットイン” どちらがいいというものでもないのだが、メーカーの開発者としては、

売れるものを作りたい、人々の役に立ちたい

という気持ちが強い。

プロダクトアウトは空振りがおおい。独りよがりが多い。
なので、苦労して作っても売れないというのはかなり心に強く刺さる。
いや、ゾンビにしか作れない。
これはいいものだから、黙って徹夜で開発しなさい。ということだ。

そして、「このプロダクトが良い!」と断言できるのは、
ゾンビの支配者だけだ。


正しい事をしたければ、偉くなれ。(和久平八郎)

踊る大捜査線もゾンビ組織の話ですからね

そう、自分が「これがいいものだ!」と信念もって、大規模にモノづくり出来るようになるには、偉くなるしかない。(もちろんそれでも失敗する)ゾンビを超えて、ゾンビの支配者になるしかないのです。

でも、そうなのか?
消費者が欲しいもの作った方がいい気がするけど…。



独りよがりで作られたプロダクトアウトは消費者から評価を受けにくい

ただ、一発逆転はある。だけどめったにない。

あと、俺はゾンビじゃないから、
命令で作らされるものにチカラを注げない。


つまり、

欲しいと思われるものを、作りたいと思う人が作るのが最強


これが、真理じゃないか?
これってかなり無理がないよね。
つまり、エコだ。




これからの世の中はどうなっていくのだろう…


もちろん資本主義経済でもあるので、一定数の大きなパワーを動かしていく人たちの力は必要。

ただ、全員が全員、とてつもなく大きな野望・影響力あるものを創り出したいというと、どうだろう?
大きなチカラ・組織を動かしていく必要があります。
しかし、モノがあふれた現在で、それほどの大きなモノを作る必要があるのだろうか?

これからは「小さく始まったものが大きくなっていく」のであって、
「初めから、大きなことからは始まらない」と思う。

既にある、大きなものをさらに大きくする人は大企業
未だ見たことのない、新しいものを創造するのは大学
それを具体的に、リアルにするのはベンチャー・中小企業
リアルになったものをさらに大きくするのはまた大企業

ゾンビにはゾンビなりの活用方法がある。
それぞれの役割、多様性を十分に活用する、そんな世の中になってほしい。
ゾンビが嫌なら、そうじゃない組織で力を発揮すればよい。
ただ、それだけのようにも思えてくる。

昨今、政府がユニコーン企業を造ろうと資金をバラまこうとしている。
はっきり言って意味がない。
そもそも、ベンチャーみたいな小さな組織が、大きくなろうとするのが間違っているようにも思う。

もしかすると、その企業は大きくなることが目的になっているのではないだろうか?大きな仕事をするために企業として大きくなるのは、手段であり、目的ではない。

小さいなら、小さいなりに得意なことをすればよい。

このそれぞれの得意・役割を理解せず、
資金調達をして、無理して独自で大きくなっていくことが本当にベンチャーの目指す姿なのだろうか?

そもそもユニコーン企業って必要だろうか?


それぞれの組織が出来る最大限の力を、理解して分散し、また集合・統治することが何よりも重要ではないかと考える。

そうでなければ日本の企業が世界で日の目を見ることはないだろうとも思う。

単独企業でなくてもいいじゃないか。
日本企業の力を終結すればよいのではないだろうか。
そんなに富を集合したいのか?
それはそんなに高評価を受けることなのだろうか?
IPO(上場)して、資金を得ることは、これからの世の中、それほど大事なことなのだろうか。それよりももっと大事なことがあるようにも思う。

それこそ、それぞれの組織(企業)が共通の目的の下で役割を持ち、意見を持ち、日本という巨大な組織を強くすることが、勝ちあがる唯一の方法なのかもしれない。

まぁ、競争しているわけでもないので、世界で勝ち上がる必要はそんなに感じないのだが…。




あとがき


離職とか、やる気とか、生産性とか、
問題と課題や、PDCAや、エンゲージメントや、「偉いとは」とか…
いろいろとビジネス界隈についての記事をこれまで何度と書いてきました。

そして、エコな社会を作るには、
不自然なゾンビ社会だけでは無理だということ。
だが、多くの企業はまだまだ大日本帝国主義ゾンビ会社が多い。

もちろん、すべての事象をこれで片づけるつもりはないが、
ビジネス界隈のこと、として僕の集大成としたい。
そう思って書いてみたら10,000字を超えていたのはびっくりした。


カタチだけの民主主義にとらわれず、
自分たちがいかに民主的に過ごしていないということに気づいた方が良いということを本記事では伝えたかった。

自分が人生の主人公だと思うのであれば、その意見・意思をもとに行動したいのは当然じゃないか。ゾンビでいいのか?


企業の側面でいえば、
繰り返しになるが日本の企業にはエコで民主的な企業が少ないというのが結論である。逆に言えば、組織を民主化することが、日本経済の台頭につながるのかもしれない。

企業にはびこる「俺様偉い」というエゴ
その濁点を取るだけ(それが一番難しいが)

構成するメンバーやユーザーの声を、自然と聴くだけ。

生きてさえいれば、きっと意見はあるから!
そうするだけで民主的エコ組織になるんだと思う。


その流れは、
モノがあふれてきた時代における評価主義という下支えがある。

もちろん、組織の文脈としてもティールの要素であったり、
1 on 1 や 心理的安全性、生産性といった人事的側面やテクニック、
研究開発・プロダクトの側面など様々あるが、

近年の流れは、民主的評価主義で説明がつくように思った。


あとね、民主化!民主化!というと、ちょっと誤解というか、
民主党の何か?という懸念もありました。

ただね、日本の政党名ってのはよくわからないものです。
自民党って自由民主党なわけで、
立憲民主党や、民主っぽい社民党なんてのもあってややこしいです。
いや、全部民主主義国家ですから、前提として民主は抜いたらどうかね?と思う今日この頃でございます。
乱立しすぎてて、本来持つ言葉の意味が伝わらないというか、あふれてしまっていないか、民主よ。。。


さて、さすがに記事が長すぎて
いつも好意的に読んでくれる方でも、読んでくれない可能性があるよなと、
途中で気づいたし、分けて書いてもよかったかもしれない。


ふぅ。
二回目になりますが、ここまで読んでくれてありがとうございました。
コメントがあってもなくても、
ここまでの記事が書けたことで満足です。

ありがとうございました。


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