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長編小説『because』 57

「いや、なんでもない」
「うん?……変な沙苗さん」
ほんの少しだけ笑みを私にくれたその後に彼の視線が前に戻る。私はただ、日曜日に私に早く起きて欲しいかって、ただそれだけを聞きたかっただけなのに、そんな簡単な質問だってできなかった。私は彼にどんな気を遣いそれが言えないのだろうか。何を遠慮しているのだろうか。そして彼は、なぜ私がそれを聞いてはいけないという空気を醸し出し、漂わせているのだろうか。きっと彼は聞いて欲しい、というか、はっきりしたいと思っているに違いないのに、どうして聞かせてくれないのだろう。

 商店街の中に入り込むと、私たち二人の存在は商店街にいるたくさんの人たちの中の男女二人組になった。すれ違った三人の中年の女性が楽しげに会話を飛ばしていたけど、私の耳に届いたのはせいぜい甲高い笑い声だけだった。私たちと同じくらいの年齢のカップルとすれ違った時、その二人は何の会話を交わす事もなく、無言のままで、少しの距離を保ちながら歩いていたけど、二人の手はしっかりと結ばれて、たとえどんな障害があろうと、その手だけはきっと離す事がないというような強い意志が伺えた。その手が、私たち二人とは大きく異なっているように感じる。
 
 私たちはあまり多くの言葉を交わす事はないけど、それぞれがそれぞれに信頼関係を築けていると思っている。でもそれを表面化する決定的なものが完全に欠けている。二人とも表面化する方法が分からないのか、もしくは、その術から少しだけ目を逸らし続けているのか。

 彼がどう思っているのか分からないし、私自身だってその表面的なものをどう扱っているのか分かっている訳ではなかった。ただ、今のこの微妙なバランスを保ち続ける事でいっぱいいっぱいになり、そんな地の曖昧な平均台は決して居心地の良いものでなんかないのだけれど、それをどっちに転がしても、私は必ずバランスを崩し、そして平均台が突然姿を消してしまうように、彼も私のもとから離れて行ってしまうような気がしていたから、結局のところなにもできずにいるのかもしれない。


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