逃避行ヘッダー

『短編小説』第3回 逃避行 /全6回

     *

「どうして!」
部屋に高い声が響く。
「そんな大声出さなくたっていいだろう?それにみなとは受験勉強してんだから」
「だってあんたがそうさせてるんでしょ?」
「そうさせてるって、……ただちょっとそういう話をしたかっただけだから」
「だからそういうことなんでしょ!?」
「まあ、そういうことなんだけど……」
「……っもう、信じられない!」
そう言いながら、妻の加奈子は俺の体を必死に叩いた。
「いやすぐにとかじゃないし、これから少しずつ話していきたいと思ってるだけだよ」
「なに?少しずつって!私そんなつもりないのに?」
「だからそれを……」
「かなとはどうするのよ?」
「ちょっと、かなとに聞こえるだろう?」
そうは言うものの、かなとももう子供じゃない。大学受験を控える高校三年生にもなれば、もうほとんど大人のそれと変わりないだろう。しかも連日こうして喧嘩をしている両親を見ていれば、彼も、俺たちがなんとなく別れるのかもしれない、という憶測くらい立っているように思う。
「今更なによ!」
そう言ってまた彼女は俺の体を叩いていた。右腕に痛みを感じるが、俺は何も出来ない。こうして喧嘩をすると、加奈子はすぐに泣き出して俺の体を叩き始める。それが彼女にとっての精一杯の抵抗の印だったのかもしれないが、加奈子が俺を叩く度に、この人と離れたいという気持ちが強くなっていった。
「もう辛いんだよ、この生活が」
「私だって辛いわよ?なに?あなただけが辛いと思ってるの?そんなの可笑しいじゃない」
「加奈子も辛いなら、それでいいだろう?だから終わりにしようって」
「そんなの勝手にも程があるわ!」
拉致があかない。会話の行く末が見えず、毎日毎日同じことを繰り返していた。ひたすらこれを繰り返していたら、いずれ俺は根気負けするかもしれないが、それで残った夫婦関係など一体何の意味があるのだろうか。そんな関係の夫婦って……、一体何なんだろう。
「とにかく俺は、気持ちを変えるつもりはない。すぐにってことじゃない、ゆっくり話し合っていこう。君にとってもいい答えを出せるように努力するから」
「あなたはそうやっていつも自分のことしか考えてない。私の気持ちなんて全く考えてない」
「考えてるさ」
「考えてないわよ」
なんとなく、終わりが近づいているような気がした。俺と妻の関係じゃなく、どうしようもなく空虚なこの会話の終わりが。
 彼女は立ち上がり、部屋に篭ってしまった。彼女が寝室を占領しているせいで、俺は数ヶ月リビングのソファで寝ている。最初は随分と寝心地が悪かったが、今ではもう大分慣れてしまった。それになぜか、ソファで寝る一人の時間をどこか愛おしくも感じるのだった。

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