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長編小説『because』 55

「ねえ、どこに行くの?」
私はようやくそれを彼に聞いた。聞きづらい雰囲気でも、聞いてはいけない事だという認識もなかった。ただ、今になってやっとそれが気になりだしたのだ。日曜日の朝に、彼と一緒に外に出る、それだけで日常からかけ離れていた日常であったし、私がこれからどこに行くのかなんて事にまで頭が回らなかったのかもしれない。

「内緒だよ」

と彼は私を見ずに言った。歩く方向に視線を向けたまま、その視線を全く揺らす事なく歩き続けている。目的地はもちろん決まっていて、それでいて、それに付随する何か決断めいたものまで感じる。

そんな彼の横顔を見ていて、私は少しの不安に駆られ、彼に向けていたその視線を、できるだけ彼と同じ物を見られるようにと歩く方向に向けた。そこには朝日が差すしなやかな空気、犬を散歩する老人、イヤホンを耳に付け走り去る若者、コンビニのゴミ箱を漁る浮浪者、それ以外に何か見えただろうか。

 これからどこに向かうのか、それ以上彼に言及する事はなかった。さっきのやりとりでそれはこれ以上聞いてはいけない事なのだとはっきり自覚していたし、何より彼は口を固く閉ざし、人と会話をするという能力が欠如してしまったかのように、もの静かにただ歩いている。でもどこか、その横顔は朝見た彼の優しさを伴っている。

私も彼と同じように会話の欠如した人間となり、口を固く閉ざし、ただ目の前に繰り広げられる日曜日の朝の日常を頭の中で繰り返しなぞった。唾を吐き出す人、走り去る猫、体中で陽を浴びる草、ずっと遠くを飛び去る飛行機、ほとんど動く事のない雲、青色から黄色に変わる信号。日曜日でなくても当たり前にある現実が、日曜日というだけで少しだけ輝いて見えるような気がする。でも、もし私の隣を彼が歩いてなかったら、それがいくら日曜日であっても、他の曜日となんら変わる事なく見えるのだろうという事を私はなんとなく知っているようだった。だから、隣に彼がいれば、私の世界は少しばかり輝きだすのだろうという事も知っているみたいだ。

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