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長編小説『becase』 41

「いや……!」
彼が私の方へ手を伸ばした瞬間に、なんとか声が漏れた。そしてそれと同時に私の手は彼の頬を叩いていた。
「……気持ち悪い!」
私は大声でそう言って、逃げようと後ろを向いた。
「いや……違う!」
逃げ出した私を彼が追いかける。
「いや……違わないんだけど!」
意味不明な言葉を並べて、それでも尚彼が追いかける事をやめる事はないし、私も逃げる事をやめない。
 階段を駆け下りて、マンションから飛び出した。彼はまだ追いかけてきていて、元々運動神経のよくない私なんかはいとも簡単に追いつかれてしまう。彼が私の肩に手をかけ、私がそれを振りほどこうとすると、
「あ、……すみません」
と随分と弱々しい声を出した。そしてまた私は逃げようとしていると、
「……違うんです!」
という彼の大きな声が、そのマンションの敷地内に響いた。私は立ち止まり、後ろを振り向いた。彼と私は二十メートルくらい離れていて、少し安心出来るくらいの距離だった。私は彼に疑念の眼差しをこれでもかというくらいにぶつけ、彼の段々萎縮していくその姿をまじまじと眺めている。
「……違うんですよ」
そうとしか彼は言わない。私と彼の間のその二十メートルという距離が酷く遠いように感じられ、また近くも感じられる。いずれにしても私は彼の手が絶対に届かない距離にいる。そうして安心しきっている自分に気付いた。

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