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買う価値のある苦労と、ない苦労と

すっかりこのnoteも放置気味というか、まぁそんなもんなんですけど。
noteでうれしいのは「シェアした自分の写真が使われること」ですね。使っていただいたみなさんありがとうございます。いつか写真に対する想いとかも書いてみたいと思ってます。

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価値のあること、ないことについて。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」とはよく言われるが、この「苦労」に価値はあるのだろうか?
おそらく「買う価値がある」ということだろう。だから「若いうちに買っておけ」というアドバイスにつながっているのだと思う。

一方で、その若い(自分で言うのもなんだが)瞬間において、苦労の価値はわからない。
苦労が「無駄」に見えることが多々ある。
「価値ある経験をするために、無駄を排除する努力」を「価値ある苦労」のように感じることが多い。
「苦労」ならなんでも価値があるわけではないのか?
額面通りに受け取りがちな自分が、純粋すぎるだけなのか?

自分がこのnoteに戻ってくるのは、若干不本意ではあるが「何かにぶつかった時」が多い。(本当は、世のため人のためになるTipsを発信したい、とか思ってるけど思ってるだけ)
今回も戻ってきた理由は「今、自分がもがいていることは苦労なのか?そして苦労だとしたら価値あるものなのか?」という疑問が湧き、誰も読まないメモ帳に代わりこの休止しているnoteに書き殴っている次第である。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」
これを誰が話しているのかを考えたことがなかった。歳を取った人、ということは確実ではあるが、どのようにして苦労の中に価値を見出したのだろうか。
例えは古くなるが、イチローがやった苦労(毎日の素振り、厳しい練習)は、野球選手としての功績につながる土台となり「価値があった」と言えそうだ。
一方で、あるサラリーマンが甲子園を目指す中で経験した苦労は、価値がなかったのだろうか。

「その価値は誰が見出すのか」
ひょっとしたら、この観点が大事なのではないか。
そして、それは「自分」ではないのだろうか。
イチローの例は(勝手に挙げておいて失礼だが)例外過ぎたかもしれない。
過去の苦労の価値に「社会からの承認」がされることは極めてまれなのではないか。
あるサラリーマンにとっての「素振り」の価値を決めるのは彼自身、なのではないか。

社会からの承認を得ようとするから「意味のない苦労」だと思い込んだりする。
でも、自分が生きるのは紛れもなく「社会の中」である。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」なんて、自分も歳を取ったら言ってみたいものだ。きっとそれは「社会からの承認」をされている自分を想像して話しているからだろう。

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今の苦労を見ている人は「大変だけど、楽しむ気持ちを忘れないで」と言ってくれる。
無責任だな、と半分ぐらいは感じるが、おそらくこの苦労に価値をつけるためにかけてくれた言葉なのだと思う。
甲子園に出ようが出まいが、そこに向けた練習の日々に価値があるはず。
ただ当事者にはわからない。どの苦労に価値があるか、考えていくとわからなくなってくる。
「意味がある苦労とは」を考え続けることと「自分が苦労の価値を決める」ことを忘れずに、立ち向かうことが最適解なのかもしれない。
少なくとも今はそう思える。

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