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無限の可能性を信じるか?ヨガをする理由


自らの内なる意識に無限の可能性があると思う

誰もが小さなころ大きな夢を描いたと思う。僕自身サッカー選手になりたいと思っていました。ですが自分の実力を客観的に見て(僕のレベルでは無理)と感じるようになり小学生高学年の時にはサッカー選手の夢は無くなっていました。

ですがプロサッカー選手になれた。それはセンスがあったからではない。僕は他人と比較してしまう「他人軸思考」があります。他人の承認が自分への喜びに繋がる反面、良い悪いと他人と比べてしまう癖があります。


サッカー選手の夢をあきらめたのも他人と比べ、(自分より上手い選手は沢山いる、上には上がいる…)と考えたから夢をあきらめたと思う。

だが、それは他人からサッカー選手になれないよと言われたわけではない。自分で自分の可能性を信じれなくなり、可能性を自分で消してしまっていた。

特に日本人は周りに迷惑をかけてはいけない、自己主張が苦手、自分を表現することが難しい。小さなころの教育からそのように感じて、価値基準が自分ではなく、他者からの評価になりがちになる。

どんな人にも潜在能力、自分の実力を100%発揮したり、成長する可能性を持っている。ですが他人からの評価により、それが出来なくなります。

可能性を信じるとは、他人ではなく自分が自分であることを受け入れる。そして、自分の内に可能性があると信じれるかで結果が変わるはず。



■「ならねばならない」自分を大切にできない

・あの人のようにならねばならない
・こうならねばならない
・いいことをしなければならない
・他人に迷惑をかけてはならない
・努力しなければならない
・弱音を言ってはならない

こんな事を自分に言い聞かせて生きたことは無いだろうか?多くの人があるはず。それは自分らしいとは言えないはず。他人を意識している言葉だからだ

1匹のウサギがいました。可愛くて、誰からも人気でした。そんなウサギがライオンに憧れるようになり、毎日筋トレ肉を沢山食べ、大きいマッチョなウサギになりました。ですが、以前の可愛らしさはなく、人気も無くなった。だが、ウサギはライオンにはなれない。そんな自分を責めて、悔やみ、自信を失う。


皆は、このウサギと同じようではないか。僕もこのウサギと同じだったように感じる。サッカーをしていく中で

・あの選手のように頑張らねば
・監督が求めていることをしなければだめだ
・外人なんだからゴール決めなければ

こんな事を言い聞かせてプレーしていた。それは、本来自分がもっている本質を否定している事と同じなのかもしれない。


「ねばならない」から自由になり、本来の自分を取り戻すには他社の評価などの価値基準から離れる必要がある。勿論、完全にそのような状態に持ってくことは難しい。


しかし、1日少しでも思考を止め、自分だけの時間は作れるはず。ヨガや瞑想ではそれが出来ます


他者からの評価、価値基準から離れた時、そこにある本来の自分に気づくことができる。それを受け入れることができれば、その時に初めて自分の可能性を信じれる。他者を気にしなくなり、自己の内からエネルギーが出てきて、本来の自分を取り戻し、それこそ無限の可能性では



僕は大学まで海外サッカーに興味がなく、東南アジアのレベルも知りません。無知でした。だからこそ他者と比べることも無く、自分自身に目を向け、努力が出来たと思っています。それが人を集め、多くの人から手助けしてもらい、運も味方につけ「プロサッカー選手」に慣れたと感じています。


ただ努力していても結果はついてこない。ただ、自分を受け入れ、自分に目を向け、自分を信じて努力した先には、無限の可能性がある。他者と比べてしまう世の中だからこそ、少しずつ、自分と向き合う時間を作る必要があるのでは

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