小学校時代の思い出
私が小学校に入ったのは、昭和35年の4月でした。
学校と言っても、家から歩いて行けるわけではありません。
ここは島ですから、船に乗り、更には、汽車に乗って行かなければならないところでした。
盲学校は県に一つしか無い学校でした。
なので、6歳から親元を離れて暮らさなければならないところでした。
しかも、壱岐の島は、長崎県です。
福岡まで船で行き、更に博多から汽車に乗って行かなければならないところでしたから、朝に家を出ても、夜にならないと、寮へは到達しませんでした。
これを14年間繰り返していました。
最初の頃?
やはり泣きましたね。
小さい頃は、両親が学期の初めに、送ってくれたし、春、夏、冬の休みには、連れに来てくれていました。
やはり、親が帰った後は、寂しくて泣いてましたね。
でも、いつしかなれて来て、なんともなくなりました。
初めての集団生活
母親は、1週間ほど一緒にいてくれましたが、やはり帰らなければなりません。
1週間ほどの後は、そこの生活に慣れなければなりません。
寮には、200人ほどの生徒がいて、16の部屋に分かれて暮らしていました。
私がいた部屋は、12畳の部屋に、8人いました。
そこに、寮母さんが1人。
合わせて9人で寝泊まりしていました。
6時50分の起床から、夜9時の消灯まで、全て鐘の合図で、一斉に動きました。
盲学校は学校も寮も全て、約3,000坪の敷地の中にありました。
なので、ずっと同じメンバーで暮らしていましたし、同じクラスの生徒とも一緒に暮らしていたんですね。
よく、小学部から一番上の専攻科まで、ずっといられたものだなあと思います。
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