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新しい家族のカタチ(Ⅲ)


『元始 女性は太陽であった』

そう平塚らいてうは言った。

元始、女性は太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人の様な蒼白い顔の様な月である。

「青踏」発刊の辞

女性解放運動の後、
女性はより青白い顔の月になった気がするのは私だけでしょうか?
色々な女性がいるから、一概には言えませんが…。

本当の意味での太陽からは離れてしまっている気がします。

本来の女性の役割って、育む…ではないかと思うんです。
こんなことを言うと、女性蔑視と言われそうですが…。
男性と一緒に経済の歯車になったら、誰が社会を育むのだろうと思うんですよ。

育むと歯車、両車輪を一人でやったら疲れますし、無理ですよね。

70歳過ぎても歯車をしてたら、本当に社会を育む人はゼロになる気がします。



春のお彼岸で、母の実家のお墓参りに行った時、滅多に会うことのない親戚と一緒になりました。

お水とお花以外、お供えしなかったのですが、親戚の方は牡丹餅をお供えしていました。

「牡丹餅まで、ありがとうございます。」
と、私が言うと、
「自分では作れないから、買ったものしかお供え出来ない。」
と言うのです。

その親戚は、お兄さんが知的障害のある弟さんを面倒見ており、結婚はされていません。なので、食事も、お惣菜を買って暮らしているようでした。

生きるのに何が大変て、食事ほど大変なことはないと思います。
一日3食、買い物も作るのも片付けるのも労力がいります。そして、食事を作れない男性だけの生活は侘しいものになるのかもしれません。

母親は仕事もしていないし、たまに何か作って持って行けばいいのに…と、思うのですが、どうも億劫なのでしょう。

助け合えない訳ではないけど、助け合わない…。
どこか分断されている感じがしました。

歳をとるほど、助けはいるものです。
昔は、親戚の叔父さんや叔母さんが、「あーでもない、こーでもない。」
と、集まって色んな事が何とかなってた気がするんですよね。
みんなが歯車だと、「あーでもない。こーでもない。」と集まることも出来ません。
動ける間は歯車で、歯車が終わると誰かの手が必要な状態ではねぇ。


「じゃあ、私が作って、母親に持たせれば、たまに世間話をする事も出来るし。」
と、思った矢先、自分が病気になったと言う…。

自分が病気をしてみて、やはりこれから先の世界は、擬似家族が必要だと思ったのでした。

それぞれが、それぞれの塀の中で、分断されてる場合ではないと思ったのです。
そして、ある一定数の、社会を育む人たちが必要です。

そう考えると、一律資本主義は大きな足枷に思えるのでした。




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