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頑張ることが苦手な私が、かけてもらいたかっただろう言葉

※自分の中のもやもやを昇華するために書きます。



昔から頑張るということが苦手だった、のだと思う。

学生のころは放課後の文化祭の準備とか、クラブ活動のイレギュラーな練習とか、そういうもの自分の日常に突然割り込んでくるのが苦手だった。

文化系のクラブばかり経験してきた私は地味な学生だったけど、そういう時はなぜか思い出したように名前を挙げられ、看板を描いて欲しいとか、バイオリンで伴奏して欲しいとか頼まれることが多かった。先生から直々に卒業文集の表紙を頼まれたこともあった。

みんなで頑張ろう、みたいな一致団結のノリにはノリきれなかった。真面目だから練習には出るし、頼まれたらやるし、頼まれること自体は嬉しいのだけど、心の中でははやく帰りたいなぁと思っていた。

中学から塾に通っていた。
半分くらいが同じ学校の顔見知りで、知らない学校のこと友達になって同じ授業を受けるのは楽しかったけれど、自習の日は好きじゃなかった。友人に誘われなければあまり行かなかった。
なんだか周りの子がやる気に満ち溢れていて、とてもできるように見えて、あまり集中できないのだ。

今思えば私は究極のマイペースで、自分のペースを乱されるのも、人と比較されるのも嫌だったのだろう。
そして、頑張るところを人に見せるのはどこかカッコ悪い、と子供ながらに思っていた。
勉強してないように見えるのに100点とか、困っている誰かに無言で助け舟を出すとか、そういうのがカッコいいと思っていた。


中学のとき、テスト前になるといつも予定表を配られた。自分でなにをどれだけ勉強するかスケジュールを決め、書き込み、担任に提出しなければならなかった。

当時、苦手な数学以外は成績は悪くなかったほうだ。数学も平均よりは上。毎日真面目に勉強していたつもりだったが、担任から返された予定表にはいつも「勉強時間が少ない」と書いてあった。
私はそれが不思議で仕方なかった。
自分で決めて勉強しなさい、といわれたから、自分で決めてそのとおりにやったのに、少ないと言われる。
それなら、全教科で100点を取りなさいとか、1日6時間勉強しなさい、と言えばいいのに……。

「じゃあ何時間勉強したらいいんですか」

そんなことを担任に訊いたのを覚えている。担任はなにも答えなかった。そして、その次の予定表からはなにも書かれなかった。
今思えば、面倒な生徒だっただろう。


じゃあ、あのときなんと言って欲しかったのだろう。

「自分で決めた分はちゃんと頑張っている。でも、あなたならもう少し勉強時間を増やしたら100点もたくさん取れると先生は思っている」

こんな感じだろうか。

多分あの時の私は、時間という決められた定規じゃなくて、もっと柔軟な何かで測って欲しかったのだと思う。

もっといえば、自分なりの頑張りを褒めてほしかったのだ。

こんな人間なので、いい歳の大人になってもなかなか自分を素直に褒められない。そして、それが結構しんどい時もある。

自己肯定感を高めるにはどんな些細なことでも自分を褒めるのがいいらしいけど、こんなこと誰だって当たり前にできる、と思ってしまう。

じゃあなにができるの? なにもできないね、の自問自答になり、身動きが取れなくなってしまう。

単刀直入にいうと、褒められたい。
できれば、自分以外のだれかほかの人から。

してほしいと思ったら、まず人にすることから。
だから明日は、誰かほかの人を、できるだけたくさん、褒めてみようと思う。
もちろん口先だけじゃない。自分がすごいと思ったことを、きちんと口に出して相手に伝えるという意味で。

そう考えて過ごしたら、明日の濃度とか密度とか充実度なんかは、きっと今日よりよくなる気がする。


追記。

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この記事を投稿するとnoteさんがとても褒めてくれて嬉しかったです。


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