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【ぼやにっき】生粋の天才なんていない

「凡人だった自分が~」
「普通に毎日を繰り返していた自分が~」

成功を成しえた人、結果を出した人が語るときのつかみのことば。
どうやって今の地位(立場や状態)を手に入れたかを語るときに、ほぼ必ず聞くことば。
副業関係に取り組んでからは特に耳にすることば。

「いやいや、もともとその才能があったんでしょ?」
「いやいや、出だしでそういうふうに興味を引くよう語るってテンプレにあったよ」

わたしは根性がひねくれているのでそういう穿った見方をしていた。
「自分はそうなれない、秀でた人間じゃないから」
って思っていたのもあると思う。

でも、副業を頑張って約3年が経ち。
自分の今までの経験とすり合わせ(置き換えて)考えることができるようになってきた。

そう、わたしでいえば「弓道」。

今、マンガ2作目に取り組んでいるせいもあるかもしれない。


先日、地方に講習会に行ったせいもあるかもしれない。
なんだか弓道を始めたころの目線で今の自分をみているわたしがいる。

当初は何が何だかわからないまま、ただいわれたことをこなす・できるようになるのに必死だった。
そして結果を出せない、同時期に始めた友人は結果を出している。

中れば「調子が良い」
外れれば「調子が悪い」

この一言で片づけていた。
だけど、そんなことあるわけがない。
どっちも同じで「運まかせ」の内容でしかない。
結果を出している人は、みんなと同じ練習でもその中で見えてもちゃんと自分にあった方法で練習しているんだ。
もしくは、わたしたちに内緒で特訓をしているのかもしれない。

「謙遜」こそ疑うべき

中学ではじめての中間試験のとき、
「どうしよう、全然勉強していない~」
「あー、わたしもー」
こんなやりとりをした。

「みんな勉強していないんだ、よかった」
と安心して、わたしは試験勉強というもののやり方もわからないままに当日を迎えた。

もちろん、結果は悲惨なものだった。
でも「みんなも同じだろう」と思っていた。
そして友人の試験結果を聞いて愕然とした。

「...…勉強していないっていってたじゃん」

これは今でもトラウマで、たまに夢に見るくらい。
だから試合前にどれだけ人より練習しても、みんなはもっと練習しているに違いない。
「全然練習していないんだよね」なんて嘘に決まっている。

「いえいえ、わたになんてそんな——」
「今回たまたまですよ~」

結果を出した人に「すごいですね」「おめでとう!」などと声をかけたらたいていこんな『謙遜』がかえってくる。

こんなセリフ嘘に決まっている。

でもある意味本当でもある。
なんでもかんでも「ことば尻通り」にとらえてはいけないのだ。

その人は、普通にコツコツこなしていた。
それが「努力」なんて思いもせずに。
でもまわりから見たら、それはものすごい努力だった。

そう、本人からしたら『努力』ではなくみんなと同じくらいの普通の練習なのだ。
ここでキーポイントは「工夫稽古」である。

「工夫」と「アレンジ」は違う

教わることは、全員同じ。違うのは、
「いかにわかりやすく、どのようにして自分に落とし込むか」

この「どのように落とし込むのか」という部分が『工夫』になる。
そこから自分でわかりやすいように変えていくのが『アレンジ』。
そしてそれが唯一無二の【オリジナル】になる。


弓道でも勉強でも仕事でも、基本は同じ。
どうしてそうなるのかという「原理原則」の理解。

これがわかっていないと、失敗した表面上を取り繕って修正するだけ。
つねに後手後手の帳尻合わせで終わってしまい成長できない。
理解するための工夫をしないで、ただ結果だけを考えてのアレンジ。

これではイレギュラーなことには対応できない。
なぜなら、基本的なことがわかっていないから応用できないから。

たとえば、
練習で調子を落としたとき。
仕事でトラブルがあったとき。
勉強で問題が解けなくなったとき。

基本を理解していないと、たとえその場をしのいでも必ずまた同じことが起こる。それは根本的な解決をしていないから。
だからはじめはつまららないけど、基本を覚えるということはこれからその道で続けていくためにはとても必要なこと。

とはいえ、夢と希望に満ちた者にとって。
最初の頃は良いが、そのうち基本を身につけることほどつまらないことはないと感じるようになったり、もう身についたと過信してしまうことがある。

天才は忘れたころにやってくる

どの分野においても、結果を出す人・出している人は基本の延長線上をコツコツと積み上げている。

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
これはトーマス・エジソンの名言。

「天才とは努力する凡才のことである」
これはアルバート・アインシュタインの言葉。


はじめの方で書いた、中間試験の「勉強していないよ~事件」しかり。

◎絶対といっていいほど見えないところで努力をしている。
(ただ、本人はそれを努力と思っていない)
◎目的達成のためストイックに取り組んでいる。
(ただ、本人は夢中に取り組んでいるだけ)
◎意識せずとも継続して続けられる。
(ただ、好きなことを優先しているだけなので)

「天才」は宝くじに当たるよりも低い確率ぐらいしかいないのではないかと個人的には思う。
ともすれば「天才」なんて、本当はいないんじゃなかと(周りにいないせいもあるかもしれないが)思ったりもする。

最初は「謙遜」から始まり、夢中になってコツコツと積み上げていく。
なりたい自分になるために、夢中になりすぎて気づけば人よりもほんのちょっと『努力』をしていただけ。

この「ほんのちょっと」が「すごい努力」として見られるのは、
そのように思う人たちは自分で「そこまではできない」って限界を作っているからだ。
または楽して早く結果を出したいからだ。

同じ事をしても、人には得手不得手があるので同じ成果が出るとは限らない。同じ結果を求めるならば、成功した人の体験談を聞き、自分ができることをして出すべき結果へアプローチすればいい。

そして気づけば、自分も「天才」の仲間入りだ。

まとめ

つまり、なにが言いたいかというと。

「すごいねー」
「おめでとう~」
「いつも中るよね」
「どうしてそんなに中るの?」

個人的に、このようなお声がけいただくのはとてもありがたいことだけれど心のなかでは正直「あたりまえです」と思っていたりもする。

「この結果をだすために一体、たくさんのことを犠牲にして、たくさんの時間を費やした。だからこうなるのは必然」

と。
いわゆる等価交換。
やればやっただけ結果が出る。
だから羨ましがらずにみんなも頑張ればいいのに...…と思ってしまう。

もちろん始めの頃は、そんなこと思わなかった。
ただただ「結果がでてよかった~」という安堵。

でもだんだんとそれが「当たり前」になってしまう。
努力が普通になる。
『慣れ』っておそろしい。

自分がそうだというわけではないけれど、
天才はどれだけ『夢中になって続けられるか』で出来上がるのではないかなと思う。

「気づいたらここまで来れた」

スポーツ選手も好きなことにこだわり、追求しつづけた結果が優勝だったりメダルだったりする。
もちろんそれまでつらくて思うようにいかないことも必ずたくさんある。
でもそれは自分がさらに高みへ行くための試練(試験)みたいなものだ。

受験も、入りたい学校へ行くためにたくさん勉強するし、時には嫌になって勉強を辞めたいときもある。
それでもあきらめなければ必ず乗り越え合格できる。

ダメだったとしても諦めなければ次がある。
次に向かうときは、その失敗が経験という糧となり前回とは違った、自分なりのアプローチができる。


......でも。
本人は天才の域に達している自覚はない。
一生、高みを目指して追及している。

「自分は凡人であり、天才ではないからもっと努力しなければ」と。

傍からみれば、十分天才です。
でも逆の立場からすれば、

「凡人だった自分が~」
「普通に毎日を繰り返していた自分が~」

というような成功を成しえた人、結果を出した人が語るときのつかみのことば。
どうやって今の地位(立場や状態)を手に入れたかを語るときに、ほぼ必ず聞くことば。副業関係に取り組んでからは特に耳にすることば。

どうしても、
「天才が何をいってる!?」
と思ってしまう。
心理効果を狙っていっているのか?と。


当初もっとこの記事を早く書き上げようとしたけれど、なんだか忙しく何日もかかってしまった。
おかげで本来書きたかった内容と若干ズレた終わりになってしまった(;'∀')

まぁ、これまでの経験から
「成功者を妬む暇があれば自分も努力しろ」
ということを学んだよっていう話だ。

どんなことでも可能性がある限り、諦めなければいつか必ず目標は叶う。
その「いつか」は努力の量。

楽して得をすることは絶対ありえない。
「太るのはカンタンだけど、痩せるのは難しい」
ということと同じ。

大丈夫、生粋の天才なんてほとんどいない。
努力の量が天才を生みだすのだ。


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