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明けがた ひとりの時間をすごす

早起きするようになったのはいつからだろう。

子どものころから私はとにかくよく寝る子だった。夜更かししてもしなくても、平日の朝は母に何度も声をかけられないと起きることができなかった。
中学から高校にかけては休日の起床が昼前になった。十代は毎晩のように深夜ラジオを聴いていたから、一週間の睡眠不足を週末で一気に解消しようとしていたのかもしれない。あの頃は夜中の二時三時に寝たとしても、遅刻しないで登校できるエネルギーがあった。日曜日もいったんは六時とか七時に目が覚める。でも、吸い取り紙で吸い取ったようにあたりの気配がしんとしていると、「あ、今日は休みだった」と一気に幸福感がこみ上げて、そこからまた深い眠りに戻ってゆく。そんな週末が三十歳くらいまでつづいたろうか。

あ、今日は休みだ、の至福はもう長いこと味わっていない。味わおうと思えば味わえる状況には復帰できている。もうおむつを替えたりミルクを飲ませたりする必要はないし、お弁当もつくらなくていい。朝食のしたくも、まあすることはするけど、しないならしないで家族が自分でなんとかするだろう。

けれど早起きがやめられない。

あれはまだ子どもがとてもとても小さかった頃だ。
自分のための時間なんかほとんどなくて、そんなもの見つけようともしないで、目の前に展開するもろもろへの対処に私は気を取られていた。縁もゆかりもない土地に引っ越したばかりで友だちらしい友だちもまだいなかった。
私はとにかく「ひとりの時間」を渇望していた。

ある朝、たまたまトイレか何かで目が覚めた。家族はまだ寝静まっていて、外がようやく白みかけていた。
水が飲みたくてキッチンに歩いてゆくとき、あ、と思った。

家の中が森になっている。音ひとつない、薄暗い森に。
いや音はかすかにあった。新聞屋さんがポストに新聞をことんと落とす音とか、たまに道路を走り去る車の音。やがてそれに鳥のさえずりが少しずつ加わって。

雨戸を開けた。薄暗いといっても夕方のような寂しさはない。地面の下でなにかがうごめく気配がある。光と闇が拮抗しているときの気配が。

そうか、ここだ。ここをひとりじめにすればいいんだ。
家族が起きてくるまでの二時間を私「ひとりの時間」にしよう。
とそのときに気づいた。
その時間、私はもう、だれかのなにか、ではない。
まわりがそうだと考えているあらゆる役割から解放された、ただの私だ。

スマホは見ない。パソコンも立ち上げない。本も読まない。なにもしない。
ただ、そのとき頭に浮かんだよしなしごとを考えて、非効率的なひとときをすごす。

そのうち私は、日常の雑事のすきまにも森の時間を見出すようになる。
たとえばミネストローネをつくろうと野菜を刻んでいるときなど。
はたから見ると料理好きの、なんとも好ましい女に見えるだろうが、じつはそのとき私は森の中にいて料理とは全然関係ないことを考えている。
朝起きぬけに見た東の空のオレンジ色だとか、旋律は思い出せるのにタイトルがどうしても出てこない曲のことだとか。だれかの言ったことばと、また別の人が言ったことばがとても似ている気がするけど、いったいどこがどう似てるんだろう、とか。なぜそれに引っかかるんだろう、表現しにくい感情をことばでどう言い表せばいいのだろう、とか。

そもそも表現しにくいのなら沈黙で表せばいいんじゃないかとか。

そんな、多くの人にとってはまるでどうでもいいことを考えながら私は一心に野菜を刻んでいる。庖丁で手を切りはしないかと心配されそうだが、じつは、とめどなく何かを思う行為と刻む行為とは相性がいい。そんなときには声をかけられても、うわの空で返事をする。そして、あ、ごめんね、いま料理しててよく聞いてなかった、なんて謝るふりをしたりして、扱いやすそうな女を装いながら私はまた森に戻ってゆく。

ときには、どうでもよくないことも考える。
昨日ある人とLINEしていて、意思の疎通がうまくできないことに気づき、ちょっと辛かった。
こちらの伝えたいことが、なかなか伝わらない。
私の送った言葉が相手の頭の中に入ろうとするとき、何かしらの化学変化を起こして、もとの言葉とは別の温度、質感、かたちになって入ってゆくようなのだ。
逆に、むこうから返ってくる言葉も理解に苦しむところがあったから、たぶんもとの姿とは少し違うものになって私の中に入ってきたのだろう。

本当はじかに話したかった。が、ここ数年は電話とか対面で話すのを(たぶん)互いに億劫がってきた。それがミスコミュニケーションを助長する。言葉が通じなくなりかけている。コミュニケーションの質感が変容している。

今朝はそんなことを考えた。
ゆうべのモヤモヤを早朝に先送りしたのだ。
自分の発した言葉を反すうし、その質感をたしかめる、という私にとっては少し苦手な作業。こういうことをごく自然にやってのける人もいるんだろう。言葉を発するのとほぼ同時かその少し前に質感や温度を加減して、適切なかたちに整えてから送り出せる人を何人も見てきた。私はその作業がいつも何テンポか遅いのだ。だからあとで、ああ、あのときにあんなことを言ってしまった、もう少し考えればよかった、とちょっぴり後悔することになる。あとからそれを埋め合わせるような言葉を送っても、はたして声に出しているときの温度、質感があるのかどうか。自分の声音(こわね)と同じくらいの精度の文字に変換しようと努力して、結局疲弊する。画面上の文字の流れと私の考えるスピードのバランスがあまりよくない気がする。

なんてことをつらつら考えていたら家族が起きてきた。

明日もまた、目覚めたらひとまず薬罐にお湯をわかそう。雨戸を開けて、明けかけている空を見つめよう。それから熱いお茶を淹れて、ストーブの前に腰をおろす。自分の内側におりてゆく二時間をすごす。




こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。