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キノコの生態に過去の自分を思い出す 読書の体感

先日、私はあるひとのnoteを読み、ほとんど忘れかけていた感覚を思い出しました。
読書のときにおぼえる「体感」というものを。

そのひとは『植物の私生活』という翻訳書を読み、キノコの生態にぐっときたといいます。
キノコの生態に?
そうです。彼女はキノコの生態にほろほろと涙まで流したというのです。

これだけではきっと要領を得ないと思うので補足すると、要するにその『植物の私生活』の叙述が擬人化を用いることで実に生き生きとした効果を生んでいるため、読み手はあたかも植物の生態がひとの一生であるかのような錯覚をおぼえてしまう·······ということらしい。

そのnoteは読書感想文ですが、本のどういう記述に共感しただとか、その本のどんな視点が素晴らしいだとかの感想はとくにありません。
少しだけ距離をおいて、どちらかというと低めの温度で静かに見つめている。
けれど超然とした視線ではない。
いやむしろ、キノコの描写部分を彼女はまるごと体で受け止めているように見える。

細かいことは私がしゃべるよりも末尾に添えたうめがきたねさんのnoteを読むほうが数倍いいと思うので、あとで読んでみてください。

“菌類が分解して腐らせた心材はボロボロになり、空洞になった幹の底に積もります。そのままではどうにもならなかったものが、再び養分を利用できる状態になったのです。”


私はうめがきさんの引用した『植物の私生活』のこの文章に心揺さぶられました。
心揺さぶられた、というありきたりな言葉でしかこの思いを伝えられないのがもどかしい。
私はこのキノコの文章に胸がいっぱいになり、この文章を読んで泣いたうめがきさんを想像して胸がいっぱいになりました。

なぜなら私にもかつて空洞の時期があったからです。
でも私はうめがきさんのような決断をしたわけではありません。私の母ならきっと、「なにが不満なのよ。贅沢な子やねえ」のひと言で片づけたに違いない、平凡でわりと幸福な日々を送る女でした。
だけど、とても空虚だった。
彼女のnoteを読み、そんな10年間を不意に思い出しました。

どう表現したものかと自分でもわからず途方にくれていたときのあの感情。
それに言葉が与えられたときの——なんていえばいいのか適切な言葉が見つからないけれど、「わかってくれてありがとう」というような感じ。
辛いときや虚ろなときには、それが救いとはいわないまでも持ちこたえさせてくれる何かにはなる。

体が確実に憶えているそんな感覚を思い出しました。

私はその時期のことをひそかに「眠っていた10年」と名づけています。

まるで木の心材のように、自分の中心が死んだ組織と化していた10年。
それから40になり、私は今の仕事につくための勉強を始めました。

私は仕事柄、本を日常的に読んでいます。ときには本の概要や所感を数ページの資料にまとめるよう依頼されることもあります。

じつをいえば、これまでに頼まれて読んだ本の8割くらいは好みのものではありませんでした。が、私の好みが日本の読者の嗜好を代表しているわけではないので、作成する資料の所感はあくまでも中立的に、冷静に判断して書くようにしています。とても分析的な読みかたです。

読んでいる最中は原文に身を委ねますが、いざ読み終えたら体勢を立て直し、自分の眼を鳥のそれにする。
読んでいたページからいったん身を引きはがし、客観性を取りもどすために鳥瞰(ちょうかん)的な視点に切り換えます。

この本と類書の違いは何だろう。
これの邦訳を出す意味はあるのかな。
これって日本で売れるのかな。

いつのまにか、そんな頭でっかちな読みかたが身についてしまいました。
仕事とは何の関係もなく趣味で本を読んでいるときでさえ、気づくと手元の本をそんな視線で見ていることがあります。
本の商品価値をはかっているのです。

ある本のある一行に期せずして涙をこぼす。

読書のすばらしさって、そういうところにあるのではないでしょうか。
頭よりもまえに体が反応する。
分析よりもまえに感受がある。
本の言葉が自分の体の中に溶け込んできて、自分がそれまでとは少しちがう有機体に変容する。


このnoteを読むと心のどこかがひりひりします。
もちろん悪くないひりひり感です。






こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。