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ブルーレイレコーダーの優越

先日、我が家にブルーレイレコーダーがやってきた。

知人から、「ブルーレイレコーダーの買い替えにあたり、希望者が居るのであればそれまでのものを譲渡したい」という旨の連絡があった。
そしてわたしは希望したのちに先着を勝ち取り、2009年製のブルーレイレコーダーを手にしたのだ。

元々、我が家にはブルーレイプレーヤーだけがあった。
それも随分と昔に買ったものだ。ブルーレイならパソコンで観られるはずなのに、なぜ購入したのかも覚えていない。
家電には人並みに疎く(使えるけれど詳しくない)、詳しくなるのが面倒臭くて調べたりもしない。ただ、映画観賞が好きなので、ブルーレイプレーヤーは時折使用していた。

そもそもわたしがテレビでしっかり観ていると言える番組はニュースくらいで、
ドラマやバラエティ番組はだいたい聞き流している。部屋が無音にならないという安心感のためにつけているのかもしれない。
若者のテレビ離れが叫ばれる昨今、もれなくわたしもその一人だということである。
購入したのがブルーレイレコーダーではなくブルーレイプレーヤーだった理由はおおよそ、テレビはあまり観ないので録画機能はなくてもいい、というところだろう。

それでもいくつかは、毎週観たいなと思う番組がある。
友人から強く勧められた探偵ナイトスクープや、関心のある福祉ポータルのテレビ番組はその一部だ。
今までは、タイミングの合う時にだけ観ていた。
未だに何曜日の何時から放映されているのかをよく覚えていないので、ほとんど立ち合うことができないのだけれど。

今度番組でわたしの観たい特集がある、との情報を得ても、そのためにテレビと約束するほどに熱心ではないので、いつも「タイミングが合えばね」というふうに思っていた。
わたしにとってのテレビ番組とはタイミングである。

しかしそんな数少ない番組に立ち合えた時、やはり録りためたいという気持ちになることがある。
そんな稀少な感情のもとにおちてきたのが今回の譲渡のお話であったので、ありがたい上に幸運であると思う。

ついにレコーダーを手にしたわたしは、掃除機でほこりを吸ってアダプター口を丁寧に掃除したあと(長い間ほこりと眠っていたらしくみえた)、
早速、番組表から興味のありそうな番組を録ってみた。
何段階かの画質の差を調べるために適当な番組をそれぞれ違う画質で録画予約し、
それをただ観るという行為を繰り返したあと、
録画したバラエティが思いのほか面白くて「番組名録画」を予約しておく(その番組名に釣られて録画してくれる機能)。

それからというもの、わたしが今まで観ていたニュース番組以外は、録画したものを観るようになった。

それらにはすべて差し当たりの興味があるものであって、わたしの興味からまったく外れたものを観る必要がなくなった。
テレビが部屋を無音にさせないための機械ではなくなったし、テレビ番組がタイミングでもなくなったのだ。わたしがすべて、選択する。

このブルーレイレコーダーの便利さは、わたしにとっての「テレビ」という概念に革命をもたらした。
機械がわたしたちに合わせてくれるので、こちらから合わせていく必要がない。

きっと既に多くのひとに革命をもたらしているのだろう。元々わたしとは概念違いであったのかも知れないと思うと、自分がまだ知らない世界が確かに存在していることを実感する。

この革命に嬉しさを覚えたと同時に、わたしはいささか怖くもなった。
こうしてすべてを自分の思うように選択できてしまうとひとは、「合わせてくれる」優越に、慣れきってしまうのではないだろうか。

そもそも世界とは自分の思うようにならないことだらけであるので、合わせていかなければならないことも多い。時間は待ってはくれないし、どうしたって雨は降る。自然がそれの最たるものだと思う。

それでも進化に忠実であるのか、人間の欲望に応えようとしたのか、周りにあるものはどんどんとわたしたちに合わせてくれるようになった。
その優越を知っていると、それが叶わない場面で「どうしてこんなこともできないの?」と思ってしまうのだ。

テレビ番組を自由に泳げるようになった今、
テレビのリモコンとブルーレイレコーダーのリモコン、それにエアコンのリモコンやコンポのリモコンまでが置かれた机を見てわたしは思う。
面倒臭い、リモコンをすべて一元化してくれないものか……、と。
このような発想を革新的と呼べばいいのか、貪欲と呼べばいいのか。

日本はサービス大国であるのでサービスの面でもこの感覚が生きていて、お客様であるわたしたちに合わせてくれるだろうと多くを期待してしまったりする。
それができないと、サービスを提供する側は「申し訳ございません」と詫びるのである。

海外に行くとそんなことはなくて、「それはできないよ」程度の対応であったりする。もっと対等なので、どちらかが過度に合わせている印象がない。

こうしてこちらに合わせてくれる感覚を当然に持っているわたしたちは、どうにもならない、こちらが合わせていかないといけないことに、大きなストレスを感じてしまうのではないだろうか。
そうなるのはすこし怖いことだ、と思うのである。

それにわたしは、どうにもならないことにこそ、美学があるのではないかと思っている。
自分にフィットしないなにかに出逢った時の、悔しいような高揚するような、どうにか工夫を凝らさないといけないのかもしれないという不足感に、新たなる自分と世界を見出すような気がするのだ。
その連続を生きてこそ人生なのかもしれない、とも思う。

ブルーレイレコーダーのもたらした便利はたしかに、わたしの時間を豊かにした。しかしこころはいつまでも、「どうにもならないもの」に心酔していたいと願うのだ。

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