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レビュー欄のエッセイスト

わたしは習慣として、観賞した映画と読了した本のレビューを書いている。

それぞれ別の場所でそれを記録しており、
映画は「Filmarks」という映画評価アプリで、
本は「Booklog」というウェブサイトで、作品ごとにレビューを置いている。

習慣とは言ったものの熱心に書き始めたのはこの一年ほどの話であって、それ以前は他のレビュワーさんのレビューを読んだりして、読み物として楽しませてもらっていた。

レビュー欄にはいつも自由なレビュワーさんたちが居て、あるひとは概要を、あるひとは感想を、あるひとは日付記録でだけ、そこに置いていく。
それらのレビューは、わたしとは違う切り口からの視点を持つものであったり、その作品にまつわる情報を肉付けしてくれるような、博識なものであったりする。

中でも特に、作品の奥にきちんと歴史的な背景をみているかたには脱帽ができる。
描かれている事象を理解するだけではなく、描かれることのない歴史的事情を鑑みての観賞なんて、わたしができるようになる日なんてくるのだろうか。

元々に詳しいわけではなくて、この機会にと調べたり勉強したりした部分もあるのだろうけれど、
どちらにせよなんの準備体操もせずにただただ作品に突っ込むわたしからすれば、その一作への丁重なる試みには頭が下がる一方だ。

重重、自分には歴史的な知識が欠けていると気がついているので、そのかたのレビューを通して歴史を学ばせてもらったりしている。
他力本願もいいところではあるのだけれど。

そんなレビューの中から時々、「異質だ」と感じるレビューに出逢うことがある。

そもそも魅力的なレビューとは、要約ではない。感想ともまたちょっと違う、と思っている。
「さあ、いこう!」と、いまだ見ぬ作品を楽しみにしているひとと足並みを揃えてくれる。しかし、決して確信めいたことは言わない。あらゆる角度のカーテンをすこしだけ開いてその一片を紹介した後、「あとはご自分で」と軽やかに去っていく。
わたしはまんまとすべてのカーテンを開けに行きたくなる。この部屋の外の景色はどんな風になっているのだ、と。

更に、彼らの感性はいつも満遍なく存在ができているので、どんな寄り道をも楽しむことができてしまう。その作品の明るみに対しては川辺で、抱えている葛藤に対しては銭湯で。時々の絶望には床屋で、くすっと笑ってしまうユーモアにはチュッと鳴くくしゃみで。これはなんのレビューであったのかしら、と思うほどにそれは、寄り道のレビューなのである。

これ、エッセイにも重なるのではないか、と思う。
伝えたいことがあって、それに実直なエッセイはものすごく分かりやすい。
しかしわたしは、読んだかたが自分で道を選び、花を摘み取ることのできる余白を残したエッセイを書くことの方が難しいと思う。かつ、稀有だと感じる。エコーのあるエッセイといえばいいのか。翌朝に霜の降りるエッセイというか。

わたしは常々思う。彼らはレビュー欄のエッセイストだと。
寄り道の分だけ、彼らはエッセイを持つだろう。対価にお金がある訳ではない。ただ好きだというだけで、そこに置いているレビューの素晴らしさ。無名な彼らの引き出しは、何のためでもなく存在するのだ。
彼らの中から生まれるものにわたしは敬意を払っている。同時にすこし、嫉妬もする。

日々、わたしもそんな文章を紡ぎたいと願うのである。方向音痴ではあるのだが、とりあえずは寄り道をしてみたい、と思っている。

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